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9.1 高校生活の思い出(1)

 中学卒業直後の三月に両親を亡くした旭は、その翌月から高校生活が始まるはずだった。何もする気力がなく、入学自体辞めようと思っていたのだが、旭を引き取ってくれた伯父は「高校には行った方がいい」と強く勧めた。結局手続き上は入学したものの、旭は実際高校に行くことなく不登校になった。  伯父には仕事があり、日中は彼の家に旭一人が取り残される。誰とも会話をしない日々が一ヶ月ほど続き、夕食中も伯父とほとんど会話がなくなった頃、旭は児童養護施設に入ることになった。高校にも行かない代わりに、少しでも旭に社会的な繋がりを持たせようというのが伯父の考えだった。 「俊輔伯父さんは、俺を捨てるんだな」  旭が無気力にそう言った時、彼は懸命に否定した。旭にはもっと温かい環境が必要で、仕事のある自分にはそれができないのだ、と。  実際伯父は旭のために児童相談所と話し合い、もっとも良い環境を選んでくれた。職員がΩに理解を持っていること、万が一発情した時でも大丈夫なように、周囲にαがいないこと、大部屋での集団生活ではなく、より小規模な家庭的環境であることを条件に探し回ってくれた。  旭はくすのき園という施設の中の、ふたばホームという住居に入ることになった。くすのき園本体は大所帯で共同生活する施設だったが、その分室としていくつかのグループホームが近隣に点在していた。そこは普通の家屋のような作りで、一軒あたりの児童の数は多くても五~六人程度だということだ。旭の入るふたばホームもそんな中の一つだった。  ホームにはメインの担当となる女性の保母が二人、旭以外の子供は男の子が四人だった。同居する男の子は皆小学生で、彼らがなぜここにいるのかは聞かされていない。親との死別以外に、親の病気や親からの虐待など、理由は様々だと聞いていた。  皆そこまで深刻そうではなく、彼らは先輩風を吹かせて無邪気にホーム生活について色々と教えてくれた。リビングなどで彼らと共に過ごし、夜はそれぞれの個室で眠る。急に弟ができたような変な気分だった。  小学生の同居人たちが昼間学校へ行っている間、旭は高校に行く代わりにくすのき園の本園へと行くことがあった。ボランティアの大学生から勉強を教えてもらうこともあれば、どこかの職員だかカウンセラーだかと面談をさせられることもある。    ホームへ入所して四か月が経過した八月。両親の死から五か月が経過すると、旭の心も徐々に平静を取り戻しつつあった。というよりも、心の痛みに慣れてしまっただけなのかもしれない。  ホームの子供たちはちょうど夏休みで、旭は彼らと一緒に庭で花火をしたり市民プールに行ったりするまでになっていた。  50mプールから旭がざばりと上がると、監視員に怒られながら子供たちが駆け寄ってきた。 「旭、泳ぐのはえー!」 「俺にもクロール教えて!」  まだαもΩも知らない小学生の彼らは、素直に旭を兄のように慕ってくれた。小学生にとって運動ができるということの価値は大きい。旭も小学生の頃は体育の短距離走でも球技でもクラスで一番活躍し、いつも友人に囲まれていた。 「お前ら25m泳げんの?」 「泳げるもん」 「この前学校のプールでできた!」  旭の腰に纏わりつく少年たちが口々に自慢する。小さな手が躊躇うことなく自分の身体にぺたぺたと触れてくるのが嬉しかった。 ***  夏休みが終わり、子供たちが嫌々小学校生活に戻った時、旭も高校へ行ってみることにした。  今更行き始めても転校生扱いで余計目立つんじゃないか? 同じ中学の連中から俺がΩだってことはバラされてるんだろうな。  そんな不安がなかったわけでもないが、いつまでもこのまま高校にも行かず就職もしないというわけにはいかなかった。  多くのαやΩはその身体的な変化を十四歳、十五歳くらいまでには体験する。しかし旭はもうすぐ十六の誕生日を迎えるが、未だΩとしての発情期を体験していない。そんな成長の遅れが幸いして、旭は高校受験の学業も他の学生と同条件で受けることができた。その結果、旭は県内でもかなり上位の高校に合格できたというわけだ。  だからこそ、旭は余計納得していなかった。自分が他の男子とどう違うというのか、Ωという診断結果以外に何も証明できるものがないからだ。  高校へ行こうと決めたはいいものの、入学式すら出ていないため、旭は自分がどこのクラスのどの席なのかも知らない。A組はαのみの特進クラスになっていると聞いていたから、旭はおそらくそれ以外だろう。しかしそんなことを聞くための職員室がどこにあるのかすら分からなかった。  校門脇の守衛になぜか職員室の場所を聞く制服の学生――当然そのおかしな光景は登校中の生徒らの目に留まった。しかも守衛が電話をかけたため、担任と思しき教師が校門まで迎えに来てしまう。  職員室で年配の教師と相談すると、まずは「特別学級」なるところへ行ってみるかと持ちかけられたが、旭には「特別学級は発情期のΩが行かされる場所だ」という勝手な印象があったため、普通に教室へ行くと主張した。  その時、職員室の扉ががらりと開いて「失礼します」という聞き覚えのある声が耳に入った。思わず振り向いてしまった旭は、そこで苦い思い出のある人物と目が合ってしまう。庸太郎――中学に入ってから露骨に避けられ始めた幼馴染。半年見ない間にまた背が伸びている。おそらくもう百八十センチはあるだろう。  彼の方も驚いているようで、職員室の入り口でしばし立ち尽くしていた。旭が視線を逸らして教師との会話に戻ると、少し離れたところから彼も別の教員と会話する声が届いた。おそらくはαのクラスの担任と話をしているのだろう。彼との間にあった小さな溝は、今や深い海溝ほどになっていた。  夏休み明け二日目の高校は、まだどこかだらけた空気が残っていて、中学の頃を思い起こさせる。担任と共にガラリと教室のドアを開けると、クラス中が一瞬静まり返った。 「ずっと休みだった篠原旭君。席はあそこ」  担任が示したのは窓際の一番後ろ。まるで欠番のようにずっと余らせていたのだろうか。  旭は無言で小さく頭を下げると、机の間を俯いて通り抜けて席へついた。  朝のホームルームが終わった後、授業が始まるまでの短い隙を突いて、前に座っていた男子学生が振り向いて旭を見た。少し幼さの残る彼は、スポーツでもしているのか少しだけ日焼けしている。旭が身構えるのも気にせず、彼は明るくからりと笑った。 「そこ、誰も来なかったら俺の荷物置きになるとこだったぞ」  普通に話しかけてもらえるとは思っていなかった。  俺がΩだって知らないのか? いや、そんなはずはない。  旭が驚きで固まっているのを、彼は不思議そうに見つめてきた。 「篠原? どうかした?」 「いや、よく不登校だったΩに話しかける気になったよなって」  生殺しの状態に耐えられず、旭は自らガソリンを被るようなことを言った。早く火を点けて燃やしてくれ――そう思っていると、隣からぷっと吹き出す音が聞こえた。 「お前、それ自分で言うかー?」  前からだけでなく横からも気さくに話しかけられ、旭は余計混乱した。 「この高校にΩで入ってくるなんてどんな奴だろって気になってたんだよ」 「そうそう、もっとこう小さくて弱そうなイメージだったけどさ、全然そんなんじゃねーのな」  気が付くと、彼ら以外の視線も旭に向けられていた。よそよそしく目を逸らすような中学時代とは真逆の反応。旭の戸惑いを察したのか、前に座っていた彼は「ああ」と呟いた。 「もしかして、いじめられるとか思ってた?」 「いじめ……っていうか、もっと腫れ物みたいな扱いになると思ってた。中学ん時そうだったし」  旭がぼそっと言うと、彼は「あるある」と笑った。 「Ωとか知ったばっかの頃はやっぱそうなるのかもしんねーけどさ、もう高校生にもなれば全然よ? 大人になると異物への拒否反応が薄れるっつーか? 自分と違う人間がいるのは当たり前って分かってるわけ」 「高校生になってまでそんなこと気にするような奴は、言っちゃ悪いけどこの高校来てないよな。中学でΩからかってたような連中はほとんど底辺の高校行ったし」 「それにβにはあんま関係ねーしな」  高校に登校してみようと決意してからずっと、色々な反応を予想してきた。しかし今のこの状況は全くの予想外だ。今ここでどう反応すべきか、旭の中には何の準備もなかった。 「俺、長谷川茂樹。な、旭って呼んでいい?」 「じゃ、お前も茂樹な」  旭がボソっと言うと、周りにいた他の生徒が我も我もと名乗った。まるで小学生の頃に戻ったような変な感じだった。

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