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9.2 高校生活の思い出(2)

 しばらく高校生活をしている内に、状況が段々と分かってきた。この高校には直近数年内にΩの学生はいなかったのだそうだ。当然今の三学年全部合わせても、Ωは旭一人ということになる。だからとにかく珍しがられているというわけだ。  旭のいるF組はαのA組から最も遠い。Ωに対する万が一の配慮はそれくらいで、特別学級というのも本当に不登校などの学生のための部屋のようだ。Ωと縁がないため対策が薄いとも言えるが、中学の頃のような変に警戒される状況よりはずっと気が楽だった。  旭が高校に復帰して一週間程度が経過したある日。提出の遅れていた諸々の書類を提出するため、旭は一人職員室へと向かっていた。昼休みの終わり際、教室に戻る生徒の波に逆らって歩く。不登校だった痕跡はなるべく衆目に晒したくない。人目につかない時間と場所を選んだ結果、昼休みの終わりが一番だと思ったのだ。  伯父の印鑑が押された書類を何枚か担任に渡し、何かクラスで問題はないかと聞かれる。こういうことを聞かれると分かっていたから、ホームルームや人目のある場所を避けたのだ。何も問題ないと伝えた旭は、そのまま教室へと帰ろうとした。  その途中、理科実験室の前を通ろうとした時、中から声が聞こえてきた。 「最近さー、あのΩが登校してるらしいじゃん」 「見た見た。別に普通じゃね? 本当にΩなのか? 庸太郎、同じ中学だったんだろ?」  その名前が出た瞬間、旭の足がぴたりと止まった。中にいるのはαのA組だ。 「Ωって聞いてるけど、発情してるのとか、それで休んでるのは見たことないな」  庸太郎はそっけなくそれだけ言った。 「えー、じゃあまだ発情来てないってことか? 慣れてない分、学校で急に発情されっと困るよな」 「ああ、中学ん時そういうΩいたいた。初めての発情で何も気付かず学校来てさー、やめてほしいよな」  旭は無意識にギリッと唇を噛んでいた。高校生にもなれば、βのクラスメイトは皆おかしな偏見を露骨には見せてこないのに対し、αはいつまでもΩを忌むべきものとして扱う。比較すればするほど、αへの憎しみが大きくなった。 「まあ、なるべく近寄らないようにするのが自衛になるんじゃないか?」  黙っていた庸太郎がそう提案した。まるで中学から突然旭を避けるようになった自分自身を正当化するように。  背後から授業に向かう教師たちの足音が聞こえててきたため、旭は早足でその場を去った。  そんなことがあっても、基本的にA組と関わらなければ旭の高校生活は順調だった。クラスが離れているのが幸いして、彼らと接触することはほとんどない。 「茂樹ー、俺やっぱ焼きそばパンがよかった」  昼休み、購買から少し離れた中庭のベンチで旭が零す。 「はあ? 何言ってんだよ、お前が今日はコロッケパンの気分って言ったんだろ?」 「だって茂樹がそれ食ってんのみたらさー」 「これは俺の!」 「交換しよーぜ」 「食いかけなんて嫌だよ! ってコラ旭、やーめーろって」  ベンチの上でふざけてじゃれ合っていると、ふと視線を感じた。顔を上げると、サッカーボールを持ったA組の生徒が歩きながらこちらを見ていた。その中にいた一人、庸太郎と目が合う。苦虫を噛み潰したような顔で彼は旭を睨んでいた。  昔は給食のプリンを取り合って庸太郎とこんな風にふざけあったのに。  旭の脳裏になぜかそんなことが思い浮かんだ。彼らが通り過ぎた後、茂樹は休戦の隙を利用して焼きそばパンを食べ進めた。 「αの連中も大変だよな。一々Ωだの何だのって敵視してさ、あいつらが一番生まれつきの型に縛られてるよな」 「茂樹はあいつらに同情すんの」 「αに味方はしないけど、あいつらもかわいそうな奴らだなとは思うよ。αとして成功するようにプレッシャーかけられてっから、それ以外の視野が狭くなってんだよな」  淡々と分析するような茂樹の言葉は、旭の中にあった闇雲な怒りをいくらか鎮めてくれた。 「茂樹は大人だな」 「おう、焼きそばパンは譲らねーけどな」  旭が気付いた時にはもう、彼は最後の一切れを口に放り込んでいた。 ***  十月に入ると、高校では体育祭の季節になった。中学の頃の印象では五月くらいにやるものだと思っていたのだが、この高校は体育祭に文化祭と秋にイベントが集中している。 「旭はどの競技に出んの?」 「俺、サッカーがいい。あ、茂樹ってサッカー部だっけ」 「サッカー部どころか、俺βだけどスカウトとか結構されてんだぞ?」  そんな会話をしながら、旭たちは二人でサッカーへの参加表明をした。 「大体な、体格が違うんだから全部A組が有利なわけよ」  初戦からA組と当たってしまい、フィールドに向かう茂樹がつまらなさそうにぼやいた。 「バスケならそうかもしれねーけど、サッカーなら何とかなるだろ。サッカー部もいるんだしさ」  頼りにしてるぞ、という目で茂樹を見る。二人の間に「勝ってやろう」という共通認識が生まれた。  キックオフで配置につき、まっすぐ前を見る。対戦相手の中にいるのは庸太郎。昔は同じチームだった彼は、今旭の前に敵として立ちはだかっていた。  笛の音と共にボールが動き出す。αが油断している最初がチャンスだ。旭は素早く上がってパスを受けると、器用にドリブルをして前へと進んだ。  小学生の頃とは足の長さも変わったため、少し感覚が違う。しかしすぐに新しい状況に順応した旭は、ボールをしっかりと足元にキープしたまま一人二人と抜き去った。  次に旭の前に来たのは庸太郎だ。旭がボールを蹴るたび、それは吸い付くように旭の足元に返ってくる。庸太郎は当然このまま真っ向勝負で向かってくると思ったのだろう。しかし旭はそこであえてボールを大きく蹴り、脇に上がってきていた茂樹にパスを回した。  肩透かしを食らって呆然とする庸太郎の横をすり抜けて、茂樹を横目に見ながらゴールへと近付く。サッカー部として警戒されていた彼にはすぐに何人も守備が付くが、その中から茂樹は旭にパスを出した。  始まってまだ一分程度、相手がこちらの戦力を見極められない内に、ノーマークの旭がボールと共にゴールへと迫る。至近距離で打ったシュートはキーパーの横をすり抜けてゴールポストを揺らした。  笛の音が鳴る中、αが皆旭に注目している。いつもの見下すような視線とは違う空気に、旭は胸のすくような思いだった。 「旭~!」  背中からガバリと抱き着かれて振り返る。 「茂樹、大げさだって」  フィールドのど真ん中でぎゅうぎゅうと抱き締められながらも、旭は笑顔を隠すことができなかった。  その後旭には守備が多く付いたが、旭は小回りのきいたテクニックでそれを突破し、逆に守備の軽くなった茂樹に攻撃の起点を移した。  試合に勝利してしばしF組が沸き立った後、旭は水分の補給のために校舎脇の水飲み場へと向かった。カラカラに乾いた喉を潤し、汗をかいた顔を軽く洗う。タオルで水分を拭っていると、そこに背の高い男が近付いてきた。 「何? 俺には近付かないんじゃないのか? 自衛のために」  水場を使うでもなく立ち尽くす庸太郎に向かって、旭は挑発するようにそう言った。 「αなんて言ってもさ、やっぱお前俺に勝てねーのな。昔と同じ」  周囲に人がいるのをいいことに、旭は強気に出てみた。いつまでも一方的に無視されるだけの弱者ではないのだ。先ほどの試合で、旭の中にそんな自尊心が戻りつつあった。 「学校、どうして来てなかったんだ?」  庸太郎から唐突に会話を振られ、旭はタオルを頬に当てたまま動きを止めた。 「ずっと遠巻きにしてたくせに、そんなとこは気になるわけ?」  会話らしい会話など、中学に上がってから一度もなかった。なぜこのタイミングで彼が対話を望むのかが分からない。 「ちょっと――」  事もあろうに、彼は旭の腕を掴んで校舎の裏へと引っ張っていった。 「校舎裏でリンチ? αだからってそれはさすがにマズイだろ」  腕を掴まれたまま、旭は庸太郎を睨み上げた。 「いや、学校休んでたのが何か言いにくい理由ならこっちの方がいいだろ?」 「お前に理由を話してやるの前提かよ」  旭は両親の死について誰かに言うつもりはなかった。そんなことで同情を集めるのは旭のプライドが許さなかった。 「発情期が始まった、とか?」  庸太郎は旭を校舎の壁際に追い詰めて追及する。 「はっ、お前らどんだけ俺に発情期が来てるかどうか気にしてんの? 中学ん時からさ、『発情期まだー?』ってサカりすぎだろ。来てたとしてもテメーとヤるわけねーっつーの」 「なら、あの事件の篠原って芸術家……あれが旭の親だって噂が本当なのか? 確かに旭の親って、昔から授業参観とか来てなかったけど、何か隠してるのか?」 「な……そんなこと、誰が――」  動揺のせいで思わず声が震えてしまった。庸太郎はその変化を見逃してはくれない。 「本当だったんだな」 「だったら何だって言うんだよ!」  旭が叫んだ時、校舎の角から茂樹が走ってきた。 「旭! おい、何してんだお前!」  茂樹は素早く駆け寄ってくると、壁に押し付けられていた旭を救出した。 「試合に負けたからってそういうのはナシだろ」  茂樹は旭を庇うようにして庸太郎と対峙する。 「そんなんじゃない」  庸太郎は悔しそうに唇を噛むと、ふいっと立ち去ってしまった。 「旭、大丈夫か?」 「ああ、あいつ小学生の頃よく一緒にサッカーした奴でさ、ちょっと懐かしくなったんじゃねーの」  心配してくれた茂樹に対し、なぜかそんなことを言ってぼかす。庸太郎を庇うつもりもなかったが、彼の様子が少しおかしいことが引っ掛かった。

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