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13.1 スケッチブック

 薬の服用と採血の繰り返しをさらに二日ほどすれば、もう発情期も終わりになっている。  旭がベッドからむくりと身体を起こすと、隣に座っていたアラタはすかさずベッドを降りた。 「もう自分で立てるって」  ベッド脇に待機して旭に手を伸ばす彼に、思わず苦笑が零れる。出される薬が徐々に副作用の出ない分量に変えられたのか、昨日からはほとんど薬によるデメリットもなく快適に過ごせていた。  一人で立ち上がって寝室を出ると、アラタは以前のようにぴたりと旭の背後をついて歩いた。  鴨の雛かよ……ってこれ、前も思ったな。  あの初対面の頃が随分と昔に感じられる。だが、よくよく考えてみれば、まだ彼と出会って三週間程度しか経っていないのだ。  小学生の頃の一日がやけに長く感じられたのと同じように、彼と二人で過ごす時間は随分と濃密で、やけにゆっくり過ぎていくような気がした。 「朝飯、まだお前が作んの? そろそろお粥は飽きたぞ」  この三日間、朝食は毎日アラタの作ったお粥だった。他の食材も買い足してあるのだが、どうやら旭にお粥を「おいしい」と褒められたのがよほど嬉しかったらしい。 「なら、旭の作った朝食が食べたい」  アラタはキッチンの入り口で立ち止まると、ムスッと旭を睨んだ。いつも顔に感情を見せないくせに珍しいこともあるものだ。旭は「しょうがないな」と言いながら苦笑いを噛み殺した。  用意してやった目玉焼きを食べている間、アラタはまだどこか不機嫌そうだった。  久しぶりに俺の飯が食えてもっと喜ぶかと思ったのに。……いや、別に俺はこいつを喜ばせるつもりなんてないけど。  頭の中だけで誰にともなく言い訳する。バケットに手を伸ばそうとした時、彼はやっと口を開いた。 「この後はいつもどんな予定なんだ?」 「あと何日かはまだ外には出られない。俺の発情の危険性もこの部屋のフェロモンも完全になくなれば安全期だ」  せっかく教えてやったのに、アラタは無言だった。黙々と嚙み締めるバケットが、普段よりもやけに固く感じられる。  食事を終えて食器をシンクに置きながら、旭は一つ溜息をついた。 「なんか怒ってる? 俺の発情期が何事もなく終わろうとしてるから? うまくいけば今回で出られたのに残念だったな」 「そうじゃない。旭の体調が戻るまでは言わないつもりだったが、俺にも言いたいことがある」 「もう身体の方はほとんど普通。だから言ってみろよ」  皿を洗おうして水を出すと、背後でガタリと椅子が音を立てた。振り向けば、目の前にアラタが立っている。水を出しっ放しにしているのも忘れて、見下ろしてくる彼の瞳に竦み上がった。 「言いたいことは二つ。一つは、旭が俺よりも他のαを発情の相手に選ぼうとしたことが、俺はやっぱり許せない」 「んなこと言っても、今まで毎月αを取っ替え引っ替えしながら種付けされてきてんだ。今更――」  その瞬間、アラタの手が旭の薄い肩をぎゅっと掴んだ。骨が軋むくらいの力に、思わず顔を顰める。 「そうやって、旭は自分を大切にしようとしない。Ωとしての自分を卑下するような言動が、俺は嫌だ」  アラタにここまではっきりと駄目出しをされたのは初めてで、旭は言葉に窮した。その時、肩を掴む手がやっと離れたかと思ったら、今度は両腕で包むように抱き締められてしまう。シンクを水が流れていく音を聞きながら放心していると、彼はさらに言葉を重ねた。 「もう一つは……また旭に絵を描いてほしい。俺が来てから描いているところを見たことがないが、俺には隠していたのか?」 「別に。ただそういう気分にならなかっただけだ」  彼の前でスケッチブックを開く気になれず、その中身を見せる気にもならず、あの引き出しにずっと封印していた。 「なら、今度その気になった時は、旭が絵を描くところを見ていたい」 「は? やだよ」 「どうせ監視カメラには見られているのに、俺だけ拒まれる理由はないと思う」  キスできそうなほどの距離で顔を覗き込まれ、耐えきれず目を逸らす。  このまま意地を張って隠そうとすればするほど、旭の絵は二人の間で変にタブーになってしまうだろう。頑固に隠し続ける方が分が悪い。 「分かった、分かったよ。なら皿洗ったら描いてやるから」 「描く気になったのか? 今すぐ?」  こくりと頷いてから、表情を隠すようにアラタの胸に顔を押し付ける。抱き締める力が強くなったのを感じながら、旭は彼がまた一歩自分の中に入り込んできているのを感じていた。 ***  寝室のベッドの上。壁際のヘッドボードを背凭れにして座りながら、スケッチブックを開く。隣に座ったアラタは、ぴったりと旭に寄り添って手元を覗き込んだ。  見られてると描きづらいんだけどな。  そんな文句を言いたくなったが、それを言うとアラタがしょんぼりと萎れてしまいそうな気がしたので、言葉には出さずに胸にしまいこむ。 「色鉛筆で描くのか?」 「息抜きにはこんくらいでいいんだよ。昔は周りにいくらでもアクリル絵具やらキャンバスがあったけどさ」 「だからいつもこのベッドの上で?」 「気楽だろ? それにここなら背後に監視カメラもないからな」  何となく自分の描いている絵だけは監視カメラで見られたくなかった。トイレもセックスも監視されていて、今更何も恥じらうものは残っていないはずなのに。それでも、絵を見られることは心を見られることと同じような気がするのだ。  新しく開いた空白のページをぼんやり見ていると、突然アラタが旭の黒い色鉛筆を奪い取った。抗議するより先に、彼はその手でちまちまと汚い文字を綴る。 『こうすれば監視されずに話ができる』  まるで子供が秘密基地か隠れ家を見つけたかのようだ。そんな郷愁を抱いてしまってから、旭はもう一本青の色鉛筆を手に取り、彼の字の下に素っ気なく『で?』と大きく書いてやった。 『いつか何かの役に立つかもしれない』  文字を読んでから彼の顔をちらりと見ると、予想以上に近くて顔が急激に火照る。一つのスケッチブックに二人で書き込んでいるのだから当たり前のはずなのに、心臓は言うことを聞かずに脈を早めた。  動揺を隠そうと、慌てて二人で書いた文字を覆い隠すように青でザカザカと色を付けていく。何を描くか決めていなかったが、色鉛筆を走らせながら頭の中に蘇ったのは、いつか両親に一度だけ連れて行ってもらったリゾート地の海岸。旭が青い空と海の違いを色鉛筆だけでリアルに描いていく間、アラタはそれをじっと見守っていた。

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