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13.2 転換点

 室内に警戒期間解除を知らせる放送が入ったのは、それから三日後の朝のことだ。 「あー、今日あいつ来るんだよな。やだやだ」 「あいつ?」  ソファにぐったり横になった旭を見下ろしながら、アラタが怪訝な顔をする。 「主任って奴だよ。この時期だけここに来て、研究成果の進展なしっつー無意味な報告と嫌味だけ言ってくαの中でもさらにクソなα」 「林啓吾、五十四歳。専門は薬学だけでなく、脳科学から精神科、内科まで幅広い天才。昔はこの上の白峰十字病院でも勤務していたが、今は裏方の研究に専念している」 「何でそんなことまで知ってんだ、お前」 「ここに来る時に聞いた」 「はっ、俺が聞いた時には名前さえ名乗らなかったけどな」  この研究所は明らかにアラタを贔屓している。αとΩというだけでここまで待遇に差が出るのは心底腹立たしい。  噂をすれば、チャイムもなく入り口ドアが重々しく開閉される音が聞こえた。リビングに入ってきたのはいつも通り、白衣の男が三人。主任――林の後ろに毎回変わる研究員が二人という組み合わせだ。  旭がのそりとソファから身を起こすと、空いた隣にアラタが座った。 「先に言ってやろうか? 今月も特に新しい進展はなし、だろ?」  林はソファの側に立ったまま、旭の挑発に眉一つ動かさない。 「治験薬の方は、副作用をうまくコントロールできれば有用なことが分かった。不妊のメカニズムについては実験を拒否されてしまったので、成果がないのは我々の責任ではない」 「拒否したのは俺じゃない」  旭は隣に座るアラタを横目にそう言った。 「そうだな。一条さん、あなたはこのΩに少々入れ込みすぎているように見えます」  林は途中から口調を変えてアラタを見据えた。 「モニタリングしている研究員たちの間でも、まるで恋人同士の番のようだと少し前から噂になっているんですよ。先日、あのΩの実験を阻んだことであなたへの懸念が高まっている、というのが正直なところです」 「それは、最初に言った通り……」 「もちろん、その話は聞いています。『このΩとの実験を行うにあたり、彼と身体だけではなく心を通じ合わせておきたい』『そのために発情期以外も共同生活をしたい』……しかしそれを許可したせいで、あなたがこのΩに本物の情を抱いてしまったように見える。そしてそれが、我々の実験に支障をきたしている」  珍しくアラタは反論することなく押し黙ってしまった。 「『他のαを立ち入らせるなら、この実験への協力をやめる』――あの日あなたはそう言って、一度はこちらも引き下がりました。しかし、あの後我々が話し合って出した結論はこうです。このΩを使った実験に支障が出るくらいなら、あなたの研究協力を打ち切ってもらっても構わない」  突然の宣告。α同士それなりの好待遇を受けていたアラタが、旭の――Ωの味方をしたせいで追い出されそうになっている。 「リークによると、ライバルである黒野製薬は既にα向けの高度なラット抑制剤を治験段階まで進めていると聞きます。今我々があなたを使って一から研究を始めても数年の後れを取っている。一方でΩに対する薬の開発はこちらがリードしている。特にこのΩの不妊メカニズムの解明が進めば、画期的な人類の進歩がみられるでしょう。つまり、研究対象の価値としてはあなたよりもそのΩの方が将来性を持っているのです」  男の目は狂気をはらんでいるのに、すらすらと紡がれる言葉はロボットのように心がない。その時やっと、アラタが重い口を開いた。 「しかしその黒野製薬の作っているというα向けの薬が、果たしてどれほどのものかはまだ分からない。私を使った実験で得られる薬の方が優れているという可能性も――」 「そうです。だから我々としては、あなたの研究協力を失うのは惜しいわけです。我々の理想としては、あなたにこのまま研究協力をしていただきつつ、このΩの実験に必要なことには口出ししないでいただきたい。虫のいい話かもしれませんがね」  アラタはいつもの真顔のまま少し考えてから、膝の上の拳をぎゅっと握り直した。 「そもそもあの時は、実験の妨害をしたという認識はありませんでした。ただ、しばらく彼のヒートに当てられていれば、自分も発情する可能性があると思っただけです。でもその途中で他のαがいると集中できなくなってしまうので、出て行ってほしいと」 「なるほど。では、このΩに特別な情を持っているわけではない、と」  旭が聞きたくてもあえて聞かずにいた疑問。 「はい、別に特別な感情はありません」  彼の答えは冷たく旭の耳に突き刺さった。 「ここでの会話は全て記録されています。何日か前にあのキッチンであなたたちが交わした会話も」  男が何を言いたいかはすぐに分かった。発情中に旭が他のαを選ぼうとしたことが許せない――アラタが嫉妬も露わに問い詰めた時のことだろう。横目で見たアラタは、迷うことなく口を開いた。 「人間誰しも、競争心というものがあるでしょう。他のαにΩを取られるというのは、αの本能として面白くない。当たり前の感情だと思いませんか?」 「あなたはこのΩが描いた絵を気に入っていたとか。初耳です。入所前の聞き取りでは隠していましたね」 「芸術作品に対する気持ちと、作者本人への気持ちは別です。報告する必要もない」 「では、この研究への協力を仰いだ時、あなたが『αの未来のために』と言ってくれたのを、まだ信じてもいいんですね?」  嫌味な男は、まるでわざと旭に聞かせるようにそう言った。 「……もちろんです。そのためにも、まだこの研究に協力できればと」 「ありがとうございます。このΩの研究の妨げにさえならなければ、『恋人ごっこ』も続けていただいて構わないのですがね。とりあえず、来月の発情期は試しにとある薬を飲んでもらいます。それが効かなければ別のαがこのΩの相手をしに来ますので、その時はもう――」 「……分かっています」  脇にいる旭を無視して勝手に話が進んでいく。林はちらりと旭を見てから、背後にいた一人の研究員を前に出した。 「それから、今後そのΩには実験用に専属のαを付ける。紹介……と言っても、既に顔見知りだと聞いているが」  そう言われてやっと、背景だと思っていた研究員の顔をまともに見た。 「旭、久しぶり」 「庸、太郎……? なん、で」  彼と顔を合わせるのは、施設で強姦されたあの日以来。嫌な記憶が蘇る。旭の顔は青を通り越して白に近くなっていた。 「彼は大学院の学生で、この白峰製薬のインターンとして共同研究することになった。ここに隔絶されているとイメージしづらいかもしれないが、君と同い年の人間はもうそういう世代なんだ」  最後に見た高一のあの時と比べれば、時の流れは明らかだ。彼の背はずっと伸びていて、顔も幼さがすっかり消えている。通りですぐ気付かないはずだ。短く揃えた黒の短髪は真面目な学生そのもので、地味な彼らしいと言える。  放心する旭を見て、彼は真面目な顔つきを崩して僅かに微笑んだ。 「これからよろしく」  まるで過去のことを忘れたかのような穏やかな声。それでも、庸太郎の瞳の奥には薄暗い何かがある。  ――旭、旭、ずっと好きだった。俺がαで旭がΩだって分かってから、ずっとこうしたかった。我慢するために避けてたんだ。  あの日ベッドに組み敷かれながら耳元で何度も聞いた言葉。聞こえなかったフリで記憶から消していた言葉。  それがなぜか急に耳の奥に蘇り、旭はぞくりと背筋を震わせた。 *** 「……さ、ひ。旭」  自分の名を呼ぶ低い声。身体を控えめに揺さぶられて、ゆっくりと瞼を上げた。見慣れた寝室をぼんやりと見ながら、徐々に頭を回転させる。確か研究員らが部屋を出て行った後、気分が悪いと言って横になったのだ。ベッドの脇からは、アラタが眉間に皺を寄せて旭を見下ろしていた。 「今……何時?」 「もうすぐ十八時だ。起こすのも悪いかと思ったが、随分うなされていたようだったから」  そう言われて先ほど眠りの中で見たものを思い出そうとする。  午後の日差しが入り込む、穏やかな施設の診察室。庸太郎に押さえつけられた力の強さと、少し硬い診察室のベッド。自分の中を異物が出入りする初めての感触。子供たちと助けに来てくれた人々の視線。  あれは、夢と言うよりもただの記憶の再生。旭の脳に刻み込まれてしまった、忘れたくても忘れられない負の記憶の一つだ。 「夕飯作る」  ベッドから出てアラタの横をすり抜けようとしたその時、不意に腕を掴まれた。 「気分が悪いなら俺が」 「いいって。お前、さっきあいつらに言われたこと聞いてただろ? 俺に構いすぎるとまた怒られるぞ。まだ追い出されたくないだろ? 『αの未来のために』」  あてつけっぽく最後に付け足すと、アラタの眉間の谷間が深くなった。庸太郎のことでショックを受けてすっかり忘れかけていたが、あの時のアラタの受け答えにも、引っ掛かるところがたくさんあった。  この研究所を追い出されないようにするために取り繕った嘘も混ざっていただろうことは理解している。ただ、果たしてどこまでが彼の本心なのかが読めない。それに何より、彼が嘘をついてまでここに残ろうとする理由も分からないのだ。元から彼が旭を画家として気に入っていようが、あるいは林が言ったように旭に情が移っていようが、それだけでは軟禁生活を継続したがる理由として弱いように思える。そうなるとやはり、『αの未来のため』なのだろうか。  イチジョウアラタという男の行動原理を理解するにあたって、まだ手持ちのピースだけではパズルが完成しない。そんな気がした。  アラタが何かを言いかけた時、旭は目だけで彼を止めた。 「カメラ、見てるぞ」  部屋の角でカメラのレンズが照明を鈍く反射している。てっきり「そんなことは関係ない」とでも言うかと思ったが、アラタは言われた通り口を噤んだ。  彼から言い訳を聞きただしたい気持ちもあったが、今はなぜか彼の言葉を聞くのが怖い。 『別に特別な感情はありません』  あんな言葉、どうせ嘘だ。あんなにストーキングしてきたくせに。あんなに、優しくしてきたくせに。  でも、もし本当だったら? あれをもう一度真正面から言われたら?  旭は臆病な心の声に負けて、アラタの手を振りほどいた。

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