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14.1 幼馴染の男(1)

 警戒期間が解除されれば、アラタはまた仕事に出かけるようになった。 「あー、もう、お前はいつも不器用なんだよ」  前と同じように彼のネクタイを結んでやりながら、前と同じように文句を言う。 「いってきます」  彼から一方通行の挨拶を受け、ガチャンと閉まるドアを見るのも以前と同じ。しかし、この前の主任との一件を境にして変わったこともある。  それは、ストーカーとも呼べるアラタの付き纏いが軽くなったことだ。あれから二日間しか経っていないが、今のところ勝手に風呂を覗きに来ることもなければ、ベタベタと後ろをついて歩くこともない。彼らからの忠告通り、カメラの前で旭への情を見せないようにしているのかもしれない。  いつもグイグイ押してきてたのにピタっと引かれると、なんていうか……寂しい? いやいやいや、寂しいってなんだ? そんなんじゃなくて、調子が狂うって言うか……。  彼のことだから、誰に何を言われても自分への態度を変えることなどないとばかり思っていた。彼があそこまで忠実に研究所の犬になっていることが信じられない。  旭が無意識にリビングをウロウロしていると、室内にチャイムが鳴った。また誰か研究員が迎えに来たのだろう――そう考えてから、ふいに嫌な予感がする。 『これからは専属のαをつける』  旭の中に庸太郎が思い浮かぶのと、彼本人が部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。旭が思わず一歩後ずさると、彼は肩を竦めるようにして笑った。 「久しぶり……って同窓会もできないくらい嫌われてるみたいだな」  当たり前だ。  いつもなら憎々しげにそう吐き捨てていただろうが、なぜか言葉にならなかった。 「崎原先生が呼んでるから午前中はそっちに、午後はエクササイズルームを使わせろ、だそうだ」  上からの指示を告げると、庸太郎は一歩また一歩と旭に近づいた。 「そんなに警戒しなくても……。部屋の外に連れ出す時は必ず脱走されないように捕まえておけ、って言われてるんだから仕方ないだろ」  冷たい大きな手が、旭の腕をシャツ越しに掴む。部屋を出て廊下を歩いている間、庸太郎は何も言わなかった。 ***  崎原医師と会う診察室は、いつもどこか寂しげな印象を受ける。崎原の居室は元より地上階にあるため、この地下の診察室は物が少ないせいだろう。 「発情期の直後にここに連れて来られるのって珍しいよな。いつも身体の検査の方が先なのに」  旭は崎原のデスク正面にある丸椅子ではなく、部屋の隅のソファにどかりと座った。 「ちょっとした雑談をしようかと」 「ここで話してるのっていつもほとんど雑談だろ。で、今日の雑談は?」  いつもと違うことへの警戒心――旭の態度に潜むそれを、崎原が感じ取っているかは分からない。彼はいつもと同じ穏やかな表情を崩さなかった。 「新しくインターンで入ってきた中宮庸太郎さんについて、とか」  ソファについていた旭の手が、僅かに強張る。 「僕は反対したんですけどね。研究員なんていくらでもいるのに、どうしてわざわざ過去に因縁のあった人間を篠原君に近づけるのかって」 「あいつらは何だって?」 「『もう決まったことだから』って」  崎原は呆れた笑いを零した。 「βやΩには何も説明してやる義務なんてないと思ってるからな、あいつらは」  旭が眉間に皺を寄せると、崎原は目だけで頷いた。 「だから僕にできることは、篠原君から話を聞くことだけ」 「話……って」 「ご両親のことほどじゃなくても、君はあの中宮君のことで今もまだ根深い心の傷を持っている。違いますか?」 「……別に。たかがセックスだろ。もうここに来てから何度もヤられてる」 「彼を前にした時、君が何かに脅えているように見えるのはなぜだろう」  そんなの、崎原先生の錯覚だ。  そう言いたかったのに、真っ暗な夜の海のような彼の目を見ていると、口が勝手に違うことを話し始めた。 「あいつは、俺に罰を与える処刑人なんだ。俺にΩとしての劣等感を与えて、俺がΩだってことを身体に知らしめる」 「罰、とは何の?」 「俺より運動も勉強も……何もいいところがなくて地味なあいつを、俺はずっと子分みたいなもんだと思ってた。それが、突然俺がΩであいつがαになって……立場が逆転して初めて、俺はあいつを見下してたんじゃないかって思った」 「年頃の男の子が周りをライバル視して競争するのはよくあることですね。学校の成績というシステム自体が、子供たちに序列を作っている。篠原君はそれに罪悪感を覚えた?」  罪悪感という言葉をあてはめるのが果たして相応しいのか、旭には分からなかった。その代わりに、頭の中にある考えをそのまま言葉にしようと努めた。 「今この世界にはα、β、Ωっていうヒエラルキーがあるけど、そんなものなくたって人は人を見下せるんだ。過去に人類がβしかいなかった時があったとしても、その時だって何かしら差別とか階級があったんだろうなって。だから、そんな人間の汚い気持ちを自覚できるように、神様はαやΩを作ったんじゃないのか? それで、人間の中でも特に汚い心を持った俺は、神様の罰でΩになった」  自分で言っておきながら、旭自身驚いていた。そんな考えが自分の頭の中に潜んでいたことに。 「篠原君は神様なんているわけがないと否定するようなタイプだと思ってました。がさつで口汚いように見えて、本当は誰よりも繊細な感性を持っている。芸術家の血なんでしょうね」  ふふっと微笑む崎原を見て、旭は我に返った。 「とにかく! 庸太郎を見てると、他人を見下して生きてきた俺の汚さを見せつけられてるみたいな気がするんだ。庸太郎は俺に怒っていて、俺に復讐がしたい。だから地獄の鎌を持って俺に執着する。俺はそれが、怖い」  最後の一言だけ、声が震えた。崎原はそれを見逃さずに真面目な顔つきになる。 「なるほど、よく分かりました。確かに、自分の罪と向き合わなければならないのは怖いかもしれませんね。ただ……少なくとも僕は、篠原君が罰を受けなければならないほど汚い人間だとは思わない。友達と勝負して勝ったら嬉しいのは、誰にでもある当たり前の感情です」  普段は同意や質問をして話を聞き出すばかりだった崎原が、少し躊躇ってから吐き出した反論。それはまるで、お世辞ではなく彼の本心である証明のように思えた。 「先生、ありがとう。こうやって話してみて、庸太郎のことでモヤモヤしてたのが少しだけスッキリしたような気がする」 「そのために呼んだんです。もし中宮さんから何か行き過ぎたことをされたら相談してください」  彼はそう言って口元を緩める。やはりこの先生が好きだ――旭は改めてそう実感した。  そしてまた、その好きという感情は、アラタを前にした時のような熱くビリビリする何かとは違うこともよく分かっていた。

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