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番外編: 裏0-1

 一条新の母、一条瞳子という女は、自由という言葉をそのまま体現したような人だった。弁護士という職業に似つかわしくない、派手な赤茶のショートヘアもまさにその表れだ。 「βの弁護士って、いるんだろうか」  中学入学を目前にし、型検査の結果が出たある夜。自宅マンションの夕食の席で、新はぽつりと呟いた。 「えー? あー、いるいる。見たことはないけど」  母の口から出たのは実に大雑把な回答だ。見たことがないのに、なぜいると言えるのか、そう聞こうと思ったがやめた。十二歳にして、新はもう母のことを分かり切っていたからだ。 「何? 新はやっぱり弁護士になりたいんだ?」  これが子供の将来の夢について聞く態度だろうか、と思うほど軽い調子で彼女は言う。 「母さんにできる仕事なら、俺にもできるかと思って」 「はあ? 失礼しちゃうわ」  彼女はそれだけ言うと、がつがつと茶碗の白米を食べ続けた。いくらαとは言え、女なのに女らしさはあまり見せず、豪快でがさつな人だ。  しかし先ほどははぐらかしたが、時折働く母の姿にかっこいいと憧れる瞬間があった。彼女はいつも他の人が受けたがらないような仕事を笑いながら引き受ける人だと、母の知り合いの人が語っていた。その時、なぜか誇らしい気持ちになったのも事実だ。  食事を終えて席を立った時、口元にご飯粒を付けた瞳子に呼び止められた。 「あのね、私はあんたに弁護士になってほしいわけでも、いい職業に就いてほしいわけでもないから。あんたが好きなことやりなさい。そのために私や私のお金が必要だと思うなら、私に交渉して利用しなさい。ただし、好きにやった結果は良いも悪いも全部、あんたのもんだからね」 「分かってるよ」  自由放任。完全に突き放すわけではなく、サポートはしてくれると言うが、突然広大な自由を突き付けられたところで、まだ十二歳の子供には行く当てもない。彼女は人間として実に正しい人なのかもしれないが、子供の手を引いて導く親としての能力は、最低値を振り切っていた。  親が駄目なら友人を頼ればいい。普通ならそうなるところだが、あいにく新には親しい友達がいなかった。  登校から下校まで誰とも会話をしない生徒というのがクラスに一人はいるものだが、新はまさにその一人だった。だからと言って焦って友達を作ろうとするわけでもなく、友達がいないことをコンプレックスに思うわけでもなく、日々を一人で淡々と過ごしている。図太さは母親譲りだった。  βだと分かったところで、まだ中学生なのだから将来を考える時間的猶予はある。今はとりあえず弁護士を目指して勉強を頑張っておけばいいのだという結論に達した。仮に弁護士以外の進路に行くとしても、勉強をやっていて損になることはない。  中学入学後最初の中間テストでほぼ満点を取り、成績上位者として発表されたことを母に告げた時、彼女はあっけらかんとこう言った。 「あれ? 同じ学年にαいないの?」 「努力しないαと努力したβなら、どちらが勝つかは明白だと思う」 「へえ、やるじゃん」  結果を出せば彼女はしっかり褒めてくれるが、「がんばれ」とは決して言わなかった。がんばるかがんばらないか、それを決めるのも新の自由ということだ。「宿題は?」「勉強しなさい」――そんなよくある親の小言をかけられることすらなかった。  それでも、新は勉強に手を抜くことはない。普通の子供ならば、勉強よりも遊びに興じてしまうところだが、友達も趣味もない新にとっては、勉強だけが友達だったからだ。  高校受験でも相変わらずαを圧倒し、トップの進学校へと入学。中学の頃と変わらず、テストでは常に上位に名を連ねた。  なぜこんなことをしているのか。次第にそれは将来のためではなく、惰性になっていった。惰性になってしまうと、迷いという名のひびが入りやすくなる。  放課後の教室。図書室での自習を終えてから教室に入ろうとした時、部活帰りのクラスメイトの話し声を聞いてしまった。 「一条ってさ、いつもαより成績いいけど、なんであんなに勉強がんばってんだろうな」 「俺の母さんに聞いたけど、あいつ親が弁護士だって。同じ職業になれって言われてんじゃないの?」 「βなのに大変だな。それでもし弁護士になれなかったら、どうすんだろ。せっかくの青春を勉強に費やして、いざ弁護士にはなれませんでしたー、なんて地獄じゃん」 「あいつ顔はいいのに、女子とも全然話さないしなあ」  新はそこで何食わぬ顔で教室のドアを開けた。無表情の新を見て、彼らはなぜか慌てふためく。首を傾げると、彼らはバタバタといなくなってしまった。  聞かれて困るほどの悪口でもないのに、なぜ彼らがあんなに気まずい顔になったのか、理解できなかった。新は特に気を悪くするでもなく、むしろ彼らの会話内容を興味深いと思っていたのだ。  弁護士を目指して勉強しておいて損はない。そう思っていたが、将来のための勉強ばかりに熱中することで、現在の何かを逃しているのかもしれない。脇目もふらず前だけ見ているせいで、見逃している何かが視野の外にあるのかもしれない。中々新しい視点を得ることができた。  その日の帰りがけ、新は自宅最寄駅付近にある母の弁護士事務所に立ち寄った。今日は早く帰れるから一緒に帰ろうと連絡があったのだ。  テキパキと事務所の片付けを進める母を横目に、新は応接スペースのソファで寛いでいた。 「今日は随分早いんだな。俺が高校に入ってから、母さん仕事増やしたって言ってたのに」 「何? 早く帰ってきてくれて嬉しいの? それとも遅い方が邪魔者がいなくていいとか思ってる?」 「別に、どっちでもない」  新の素っ気ない答えに、彼女は「つまんなーい」とむくれた。  会話が続くわけでもなく、なんとはなしに事務所内をぐるりと観察する。いつか自分も弁護士になれたなら、自分の事務所を持つのだろうか。あるいは、母のこの事務所を継ぐのだろうか。いつしか、ここから母の姿はなくなって、自分がこの部屋の主になるのだろうか。  鞄を持って「行こうか」と誘う母に、新は思い切って口を開く。 「母さんは、どうして弁護士をやってるんだ?」 「えー? お金のため?」 「言いたくないならいい」  冗談で躱された苛立ちを抑え、ソファを立つ。さっさと帰ろうと事務所のドアに手をかけた時、彼女はくつくつと笑った。 「私にだって弁護士をやる信念みたいなものはあるよ? でもそれ言ったら、新は私の考えに縛られるでしょ?」 「参考にするだけだ」 「私は私の考えに自信があるし、あんたに何か言われたって反論して論破しちゃうけど、それでも私の意見に染まらないで自由でいられる自信、ある?」  新は何も言うことができず、黙って横にいる母を見上げた。175cmの彼女に、十五歳の新の身長はまだ届かない。βの平均身長は170cmほどなので、一生彼女を見上げることになるのかもしれない。  自由をこよなく愛する彼女が、人を縛る法律を取り扱う仕事をしている。なんとなく理由は見えているが、それが合っているかどうかを確かめたいのだ。彼女は人を法で縛りたいのではなく、法律の中で最大限の自由を広げたいのだと。  そしてその考えに新は賛同できた。母は確かに親として具体的な道は示してくれなかったが、その精神的な面では大きな影響を受けている。βが弁護士を目指してはいけないルールなどなく、自由に進めばいいのだと、彼女に自分の道を肯定してほしい。  しかし、この変わり者の母は「自由にやった結果は良いも悪いも全部新のものだ」としか言ってくれない。「きっと良い結果が待ってるよ」という言葉が欲しいのに。 「ねえ、そういえばこんな絵画展のチケット貰ったんだけど、新も行きたい?」  そう言って彼女が鞄の中から取り出したのは、子ども絵画展と書かれたチケットだった。 「気分転換にはいいかもな」  欲しい言葉をくれない母が、代わりにくれたもの。その薄い紙切れが運命の切符であることを、その時の新はまだ知る由もなかった。 ***  その絵の前に立った時、新は生まれて初めて芸術作品に引き込まれるという体験を味わった。子どもが描いた絵という展示会のテーマも忘れ、絵の中の部屋に魅せられて釘付けになった。  大きな窓からベールのように光が差し込む部屋には、いくつかの画材が散らかっている。まるでその部屋の主が突然いなくなってしまったかのように。そしてそれをじっと見つめる一人の背中。  写真と見紛うほどのその画力にも驚かされるが、この絵から伝わる喪失感や不安、寂しさといった感情が、新には手に取るように分かった。この後ろ姿の人物だけが、写真のような世界の中で浮いているように見え、もしかしたらこの人物は絵の中に入り込んだ自分なのではないかと、おかしな想像が沸き起こる。  なんとか絵から視線を引き剥がし、その下に書かれたプレートに目をやる。タイトルは『未来』、作者は篠原旭。  そう、この絵は未来への、変化していく世界への不安だ。もう一度絵に視線を戻すと、そこは一瞬母の弁護士事務所に見えた。 『もし弁護士になれなかったら、どうすんだろ』  クラスメイトの声が蘇る。なれなかったら、母の弁護士事務所は空になり、自分はそれを静かに見つめるのみだ。この絵のように。  弁護士になるために勉強をすることに、これまで何の迷いもなかったはずなのに、なぜだか急に不安が増幅された。何か他に保険をかけた方がいいのかもしれないという焦りに駆られるのだ。この絵の描き手に引っ張られ、同じ不安に突き落とされるような衝撃。  この作者がまだ九歳の子どもだと言うのだから、はっきり言ってこの篠原旭という人物は化け物だ。まだ型検査も受けていないのだろうが、溢れんばかりの才能からするに、篠原旭はきっとαなのだろう。 「新、まだそれ見てたの?」  母の声で現実に引き戻される。気が付けば、この絵の前には多数の人だかりができていた。 「こういうのを、神童って言うんだろうね。自分の子どもがもしこんなだったら……画家になりなさいって将来に口出ししちゃってたかも。この子の親は何て言ってるんだろ」 「もしも俺がαで優秀だったなら、母さんは弁護士になりなさいって口出ししたくなってたのか?」 「……さあ、どうかな」  母とそんな会話をしながらその場を離れる。しかしあの絵の印象がいつまでも頭にこびりつき、他の絵を見ていてもまだ後ろ髪を引かれるような気がした。 「ごめん、先帰ってて」  ギャラリーの出口で母と別れ、新は売店スペースへと向かった。並べられたポストカードの中には、今回展示されていた絵もいくつかある。今回のイベントはチャリティーの特別企画展だったようだ。  新は先ほど魅入られたあの絵のポストカードを手に取り、レジで購入する際に思い切って聞いてみた。 「あの、この絵について詳しく知りたいんですけど」  自分でも具体的に何を知りたいのか分からない。しかし店員は律儀にどこかへ消えてから、恰幅のいい男性を連れて戻ってきた。  新を見た彼は少し意外そうな顔をする。新が商談をしにきたビジネス関係者でないのは、年齢からして明白だ。そのまま追い払われるかと思ったが、彼は人のいい笑みを浮かべて応接スペースへ新を招き入れてくれた。  彼は徳光という名の画商であり、今回のイベントの主催なのだそうだ。 「あの、このポストカードの絵は……本当に子どもが描いたものなんですか?」  何を言えばいいか分からずに、思わず変な質問をしてしまう。しかし彼は変な顔をするどころか「そうだろう、すごいだろう」と、まるで我が子を褒められたかのように笑った。 「お知り合い、ですか?」  新の問いかけに、彼は少し躊躇ってから、「誰にも言わないでほしいんだけど」という前置きで話してくれた。この画商は篠原晶と奏多という有名な画家を、彼らが高校生の頃から育ててきたのだと言う。新は芸術に詳しくないので知らなかったが、篠原と言えば有名な人らしい。新の見た絵の作者、篠原旭は彼らの公表されていない息子なのだそうだ。  今回の展示会でも、彼らの親子関係は伏せるようにと言われていたらしく、「これは絶対内緒だよ」と画商は両手を合わせた。 「内緒なのに、どうして話してくれたんですか?」 「僕も旭君の才能を買ってるんだよ。本当はこんな小さなイベントじゃなく、大々的に売り出してあげたい。でも晶君も奏多君も、あまり子供の進路に口出ししない人でね。いつもほんわかした人たちなんだよ。だから今回の展示をきっかけにして、もっと他の人から旭君に画家の道を勧めてもらえないかと」 「勧めると言っても、本人がいません。いや、顔が分からないだけで、実はもう会ってるのかも知れませんが」 「ああ、そうだね、こっちには来ないかな。ご両親の展示会の方にはたまについて来るんだよ。個展の初日と最終日には絶対いるかな。あと中間にも多分……」  彼はそう言いながら手持ちの封筒やファイルをガサゴソと漁り、一枚の写真を取り出した。  どこかの画廊で撮ったものだろうか。二人の綺麗な男性とその間に可愛らしい少年が立っている。大人の二人はにこやかなのに、真ん中の少年はどこか不服そうだ。しかしそんな冷たい表情でも、親譲りの美しい見た目は保持されている。 「ご両親の方は旭君とは真逆の抽象画だけど、彼らの絵も素晴らしいから、是非そっちもよろしく頼むよ。そこでもしこの子を見かけたら、絵の感想を伝えてあげて」  視界の端に、画商が差し出した展示会のチラシが見えた。まだ写真の中の少年と見つめ合っていた新は、ハッと顔を上げて頷いた。 ***  翌々週の日曜日、玄関で靴を履いていると母の瞳子が訝しむような視線を向けてきた。 「休日に出かけるなんて珍しいじゃん。どこ行くの?」 「別に」 「彼女とデート?」 「まさか」 「だよね。あーあ、せっかくそこそこいい顔に産んでやったのに、勿体無い」 「確かに俺は色々切り捨てすぎて、勿体無いことをしているのかもしれない。だから、新しいものを見に行くんだ」  鞄を手にドアノブに手をかけると、背後から「そっかー、行ってらっしゃーい」と呑気な母の声が聞こえた。  画商からチラシで案内された篠原晶と奏多の個展は、初日ということもあって中々の人出だった。ギャラリーに入るまではあまり人がいるような気配はなかったのに、入ってみれば多くの人がじっくりと絵を見ている。  真っ白な壁に点々と絵が掛けられている中を、一枚一枚見ながら進んでいくと、一つ目の部屋から一旦ロビーのような場所に出た。順路標識によれば、ロビーの向こうにもう一部屋展示が続いているようだ。しかし新は真っ直ぐそちらには向かわずに、ロビーの一角に集まっている人々に目を向けた。  人の輪の中心にいるのは、篠原晶と奏多だ。まるで西洋風と和風のドールが二体並んでいるかのように見えるが、くるくる変わる表情は彼らが人間であることを示している。周りにいるのは会話の順番を待っているファンか何かだろうか。皆ソワソワとその場に待機して、主役二人に近付こうとしている。  しかし新の目当ては彼らではない。サッと辺りを見回すと、ロビーの隅にあるアンティーク調の長椅子に、目的の人物が座っているのを見つけた。  あれが、篠原旭。  晶と奏多に興味があるファンのフリをして彼らに近付きつつ、横目で旭を観察する。何かスケッチブックのようなものを広げて、クレパスだか色鉛筆だかを黙々と動かしている。  両親の美しさを二乗して生まれたような、天使のように愛らしい顔。特に印象的なのが瞳だった。濃い睫毛に縁取られた大きな瞳は、目の前のスケッチブックを見ているはずなのに、本当はここではないどこかを見ているような気がする。  何を描いているの? そう聞きながら話しかければいいのに、なぜか身体が言うことを聞かない。新は確かに友達は少ないが、元来誰かに話しかける時に物怖じするような性格ではない。ズケズケと図太く話しかけることができてしまう性格のはずだ。なのに、今はそれがうまくできない。  新は彼の描いたあの絵を思い出していた。 あの絵を見た瞬間に感じた様々な思いが蘇り、あそこに座る天才的な子供に畏れのようなものを抱いている。  その瞬間、少年の目がふっとこちらに向けられた。ギクリ、と心臓が止まり、時間が止まったような気がした。 「あの子、何だろうね?」  その声にハッと我に帰り、周囲の時間が流れ出す。人ごみから出て来た若い男女は、躊躇いもなく少年の元へと近付いた。彼らは長椅子の空いているスペースに座り、チラチラと少年のスケッチブックを気にしている。 「何?」  喋った。可愛らしい顔に似つかわしくない強気な声で。 「何を描いてるのかなと思って」 「何だっていいじゃん」  白い頬をムッと膨らませて、彼はスケッチブックを隠すように胸に抱いた。  まるで棘に守られたバラの花だ。今の新には、その花びらに触れられる自信がない。男女がまだ何か彼と会話しようと四苦八苦しているのを尻目に、新はすごすごとその場を立ち去った。 ***  個展の会期が終了する最終日、新はもう一度勇気を出して会場に足を運んだ。  今日は入り口付近に主役の二人と取り巻きがいる。少年の姿は見えない。親子関係を隠しているというのだから、側にいないのは当たり前だ。  もう夕方の終了間際ということもあり、会場内の人の数は疎らだ。どうやらこの後別の階でクロージングパーティーが行われるらしく、既にそちらへ移ってしまった人も多いようだ。あの子もそちらでジュースでも飲んでいるのかもしれない。  そんなことを考えながら、もう一度展示中の絵を順に見ていく。キャンバス一杯に極彩色が舞い踊るその作品には、全て『新世界』というタイトルが付いていた。彼らには常人には見えない世界が見えているのだろうか。  思いの外ゆっくりと見ていたせいで、周りに人はいなくなっていたが、追い出されないので、引き続き静かなロビーへ出た。この前来た時と違い、そこは誰もおらずガランとしている。  あの子を初めて見た椅子に目を向けると、今日も彼はそこにいた。ただし、スケッチブックを閉じてコックリコックリとうたた寝をしている。  眠るライオンに近付くように、新はソロソロと彼の前に立つ。小さな口を少し開けてスヤスヤと寝息を立てる姿は、抱きしめたくなるほど愛らしい。そんな衝動を抑え、新はこっそりと彼の隣に座った。 「……ん、ぅ」  座った振動で起こしてしまったかと緊張した瞬間、彼の身体は新の膝の上にふにゃりと倒れこんで来た。  細い。軽い。温かい。  瞬時に頭の中がそんな感想で埋め尽くされる。  震える指で顔にかかった前髪を退けてやると、また天使の寝顔が見えるようになった。手を引こうとしたその時、彼のほっそりとした手が追い縋ってきて、新の手をきゅっと握ってきた。新の手をぬいぐるみか何かと間違えているのか、彼は新の手にスリスリと頬ずりをしてくる。彼の唇が手の甲に当たって、まるでキスをされているような気になった。 「旭ー?」  どこかから透き通った声が彼の名を呼んでいる。今ここで彼が起きたらどうなるのだろうと、心臓が急に脈を早めた。  ロビーの入り口に現れたのはやはり彼の両親だった。展示会の客の膝の上で眠りこけている息子を見て、彼らは申し訳なさそうに走り寄ってきた。 「すみません、ほら旭」  晶が細い腕でよいしょと旭を抱き上げる。しかし幼い子供は全く目を覚ます気配がない。 「本当にすみません」  奏多に深々とお辞儀をされ、新は「いえ、大丈夫です」と言うのが精一杯だった。 「昨日夜遅くまでゲームしてたのがいけないんだよ」 「庸太郎君に新しいゲームでも勝つんだって必死だったから」 「とりあえずパーティーの間は徳光さんに預かっててもらおうか」 「うん。早く一人で留守番できるようになってくれないかなあ」 「旭は留守番できるって言うんだよ。でもね、鍵もかけずに外に出てって、お土産も持たずに庸太郎君の家に上がり込むんだから……」  彼らがロビーを出ていくまで、新はただその背中を見守っていた。彼らの周りだけ、春が来たかのようにポカポカと暖かい気がする。楽園に閉じこもって生きているような家族だと、なぜかそんなことを考えた。  その日の帰り道も、新はまだズボン越しに旭の体温が残っているようなふわふわした状態だった。この気持ちは何だろう、と考えてみると、アイドルと握手した手を洗えないでいるファンの感覚に近いのかもしれない。つまり、これはファン心理というものだ。  旭もまさに、限られた一時しか会えない存在で、もちろん簡単に触れることも叶わない。彼と普通に会話ができる友達がこの世にいるのかと思うと、何だか不公平な気がした。ヨウタロウという先ほど聞いた名前は、既に新の中で嫌いな名前一位になっている。  羨んでみたところで、新が彼に名前すら認知されていない事実は変わらない。彼の両親の個展が終了してしまった今、次にどこで彼と会えるかも分からなかった。

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