58 / 66
番外編: 裏0-2
あれから一年、新は結局今までと変わらず勉強の日々だった。いくら考えたところで、弁護士以外になりたいと思える職業もない。勉強のせいで青春を無駄にしていると言われたって、新がたまに思い浮かべるのは篠原旭のことだけなのだ。
高校二年の夏休み明け、前期期末試験を終えた頃、一年ぶりにあの篠原晶と奏多の展示会があることを知った。どこか別の地方でもやっていたのかもしれないが、こうしてまた都内でやるこの機会を逃すわけにはいかない。新はもちろん初日の朝一に足を運ぶことにした。
前回は街中のギャラリーだったが、今回は比較的大きめのホールを使っている。混み合う初日の会場内をぐるりと回ってみたが、目当ての少年どころか、その両親まで姿が見えない。
入り口ホールで待っている間、他の来客が「篠原さんはどこにいるのか」とスタッフに聞いているのを盗み聞きしたところ、控え室でアポの対応をしていると言っていた。
昼頃諦めて一度会場を出た時、裏手の公園のベンチに小さな後ろ姿が見えた。幻かと思いながら少しずつ歩み寄るが、ふわふわの茶色い後頭部や、彼が持っているスケッチブックを見てどんどん確信に近付く。
背後からそっと彼の手元を見ると、目の前の公園の風景が精緻に描かれていた。ただし、見える範囲には大勢の人がいるのに、彼の絵の中には誰もいない。まるで神様が作りたての世界を一人で見ているような、不思議な神々しさがある。
声をかけようか躊躇う。ツンツンした態度で邪険に扱われるのは分かっているから。それでも、最後に会ったあのあどけない寝顔を思い出すと、なぜだか勇気が湧いた。
「何を描いてるんだ?」
声をかけた瞬間、彼の肩が大きく跳ねる。振り返った彼の大きな瞳が、新を捉えた。初めて彼に一人の人間として認知された瞬間だ。そんな喜びも束の間、彼からは予想通り刺々しい言葉が飛んできた。
「お兄さん、誰? 変質者?」
「展示会の客」
「じゃあ展示会の絵を見に行けばいいのに」
それは困る、と慌てて首を振る。
「俺は君の絵の方が気になる」
「あっちはプロの絵。俺はシロート。どっちを見るべきかは明らかだろ」
彼は新を野良犬のように追い払おうとするが、思い切ってその細い手首を掴んでみた。
「プロだとか素人だとか、肩書きは関係ない。君は将来、プロになるつもりはないのか?」
彼は観念したように息を吐くと、新の問いかけに答えてくれた。
「嫌だよ。俺の親、プロの画家だけど、親と同じってなんか嫌じゃん。親の七光りとかって言われてさ」
「そういうものなのか。俺は、親と同じ職業を目指してるのに」
我ながらうまく話が繋がっていると思う。その着地点は全く分かっていないが。
「へー、何になりたいの?」
「弁護士」
「弁護士って具体的にどんなことしてんの?」
母の仕事を思い浮かべるが、彼女が受ける依頼はあまりにも多岐に渡るため、何と答えていいか瞬間的にパニックになった。
「困っている人を……助ける」
下手な応答をしたなと反省していたら、固い蕾が花開くように、少年はふふっと笑った。
「アバウトすぎだろ。弁護士は法律に詳しい人だってことくらい、小学生の俺でも知ってるのに。お兄さん、弁護士になりたいって本当?」
まるで彼が心を許してくれたような気がして嬉しくなった。この流れを止めるまいと、慌てて会話を続ける。
「親と同じ弁護士になることも、そのために勉強することも、疑問に思ったことがない。……ちゃんと考えた方がいいんだろうか」
本当はこのままでいいのか迷っているくせに、見栄を張ってしまった。
「そんなこと小学生の俺に聞くか?」
「君の意見が聞きたい」
旭が可愛らしく「うーん」と唸って考える様を、固唾を飲んで見守る。
「将来について疑問に思ったこともないくらい固い意志なら、それってもうお兄さんの土台の一部みたいなもんじゃねーの? 俺なんていっつも迷ってるからさ、目標に向かって脇見もせずに一直線に進めるのって、すごいことだと思うよ」
「迷う?」
この才能に溢れた彼に迷いがあるとは意外だった。
「うん、サッカー選手になりたい日もあれば、なんかすごい学者になれる気がする日もある。親と同じ画家になるのも悪くないかなって思う日だって、たまーにはある」
一方向しか見ていない新の迷い方とは違う。彼は与えられた自由な大地を、360度見回しながら駆け回る野うさぎのようだ。
「君は才能があるんだな」
その瞬間、少年の開きかけた花がまた少し閉じてしまったような気がした。
「俺、才能って言葉嫌い。生まれつきの能力が何だって言うんだ? 才能があれば、できて当たり前だって思われる。才能がなければ、どうせできないから諦めろって言われる。どっちに転んでも不幸なんだ。馬鹿みたいだよな」
彼が何を思ってそう言っているのかは分からない。親の才能を受け継いでいるのだから、これくらい描けて当然だとでも言われたことがあるのだろうか。しかしだからと言って、彼のこの力を埋もれさせるのはあまりにも勿体無い気がした。
「なら、君はその能力でどう生きたいんだ?」
問いかけに、旭は真剣な顔をしてスケッチブックを見つめた。
「生まれつき才能に恵まれてるなら、できて当たり前じゃないところまで行ってやる。生まれつきの能力で負けてても、頑張れば逆転できるかもしれない。そういうのってキツいと思うけど、かっこいいって思う」
スケッチブックを見る彼の双眸は、木陰の中でもキラキラと輝いている。
この子は強い。選んだ道に自ら光を灯して、前へ前へと進んでいく。才能だけでなく、強い意志と努力で。自分の道の先がどうなっているのか、暗くて不安を覚えながらがむしゃらに進んでいる自分とは大違いだ。
息子を自由という名の大地に放り出した母は、旭のような思考の子供を望んでいるのだろう。そして旭もまた、そんな人間をかっこいいと言っている。
「本当は、弁護士になるには生まれつきの俺の能力だと足りないかもしれない。でも、君がかっこいいと言うなら、努力だけで上を目指すのもいいかもしれない」
この子にかっこいいと言われるような人間になりたい。弁護士を目指す理由が一つ増えて、将来の自分の姿が暗闇の中から僅かに見えた気がした。
「俺にかっこいいって言われたところで、特に意味なんてないだろ」
新にとっては大いに意味があるのだが、彼は顔を背けてしまった。「君の絵のファンだから」と言おうとしたのに、彼は軽やかに立ち上がる。
「まーいいや。弁護士になったらさ、困ってる人を助けるんだろ? 俺が何かに困ってたらよろしくな」
まだ話し足りないのに、いなくなってしまう。
彼の後ろ姿を見た瞬間、あの絵のことを思い出した。前向きな少年の裏に潜む、寂しさや不安。この子は強い。しかし強いが故に、折れやすいのかもしれない。
「旭」
思わず名前を呼んでしまった。彼から勇気をもらったのに、自分はまだ彼に何も返せていない気がしたから。
振り向いた彼は、キョロキョロと周りを見てから新に視線を固定した。
「俺の名前……! やっぱりお前、なんかヘンだ。ストーカー! 変態!」
彼はバラの棘だけを残して、走り去っていった。
午後帰宅すると、仕事に行っていたはずの母がなぜか家に居た。
「あれー、どこ行ってたの? デート?」
「違う。母さんこそ早いな」
「んー、依頼者さんと話す予定だったのがキャンセルになってね、家で起案でもと思って帰ってきた」
台所で洗い物をする彼女を横目に、ペットボトルから水分を補給する。冷蔵庫を閉めてから自室へ行こうとしたが、新は意を決して母と向き合った。
「母さん、俺はβでもやれば弁護士になれると思う。だから、弁護士を目指す。なれるか分からないけどやるんじゃない。なれると思うから、やる」
様々な将来を思い描くあの子の眩しい瞳を思い出しながら、新ははっきりとそう言った。
「え? うん、あんたなら弁護士くらい、なれるでしょ。α抜かしていつも成績トップのあんたがなれなくて、誰がなれるって言うの?」
濡れた手を布巾で拭いながら、彼女は実にあっけなくそう言い切った。もしかしたら今までだって、彼女に不安を吐き出せば「きっとできるよ」という言葉を貰えたのかもしれない。
子供の自由意志に任せる放任主義の彼女は、確かに変わり者だ。だが、親に悩みの一つも相談できなかった新もまた、変わり者だった。
呆気にとられた彼女と正面から目が合う。十七歳の新の身長は、もう母に追いついていた。
夕食までまた勉強でもしようかと部屋へ戻る。それでも、あの篠原旭と会話をすることができたという興奮が中々冷めない。
いつか画商にもらった彼ら親子の写真をファイルの合間から探し出し、勉強を始める時にいつも開ける一番上の引き出しに、その写真を入れた。彼の顔を見てから勉強することで、もう何のために努力しているのか忘れることがないように。
しかしさすがに今日は、集中して勉強を始めることができない。あの子は今頃どこにいるのだろうか。まだ展示会は閉まっていないから、あの会場にいるのだろうか。オープニングパーティーには出るか。その後は親と一緒に帰宅して、風呂にでも入って眠るのだろうか。
シャワーを浴びる少年の滑らかな裸体を想像したら、体温が急に上がった気がした。駄目だと慌てて妄想を消し去り、弁護士になれた時のことを考える。その頃にはあの子は何歳だろうか。十九歳かそこらだ。
「βなのに弁護士になれたなんて、かっこいい!」
ピンク色の妄想の中で、彼がぎゅっと抱きついてくる。身長はどれくらいだろうか。あの才能からαだとばかり思っていたが、両親共にΩというレアケースでは、彼の型が想像できない。ΩとΩならやはり……その子供もΩだろうか。
妄想の中で抱き合っていた旭が、急に艶めいた息を吐き出す。発情したあの子を思い浮かべたら、先ほど追いやったはずの邪な欲望がムクムクと大きくなってしまった。
そこまで来れば、若い高校生男子の下半身はもう止まらない。想像の中で十九歳のあの子を裸に剥いて、全身を舐めるように見つめる。「早く早く」と誘う彼に、反り返った欲望を押し付けて、探し当てた入り口から奥へ。そのまま快楽を追って、思うがままに腰を振る。
机の上にノートや問題集を広げたまま、新は取り出した勃起をシコシコと慰めていた。
「だめ、ぇ……赤ちゃん、できちゃうよぉっ、ぁん……ゃぁっ」
聞いたことのある小学生のあの声で、いやらしい言葉を吐かせる。
「旭……旭……っ」
自分の声が現実のものなのか、妄想の中の台詞なのかも分からなくなってくる。
そういえば、自分はβだ。もしもどこかからαの男が現れて、あの子を掻っ攫っていったら――。誰にも渡すまいと、空想の中のあの子を抱き締める。
「ぁんっ、激し……、おっきぃの、もっと、もっとぉ」
都合のいい男の妄想よろしく、あの子が可愛く啼く。
このΩは俺のものだ。孕め。孕め。
「ぁあ、ん……っ」
あの子がいやらしい声を上げて果てると、新の手の中で、若い欲望が白い液体となって弾け散る。うまく受け止めきれなかったものが、あの写真をしまった引き出しにドロリとかかった。
机の上の勉強道具を見て、唐突に自己嫌悪が襲ってきた。勉強をサボって自慰行為、しかも想像相手はまだ小学生の男の子だ。
はあはあと息を整えていると、部屋の中が青臭いような気がして、慌てて窓を開けて換気した。
高校二年、十七歳。それはまだ無自覚な恋心だった。
***
それからの新に敵はなかった。高三はひたすらに受験勉強に打ち込み、国内トップの大学へ入学。
大学一年の時に篠原の個展が開催されればもちろん足を運び、小学六年生になった旭を探す。彼はいつもどこかに居場所を見つけて絵を描いていた。この前話を聞いた感じだと、彼は絵を描く以外にたくさんの趣味があるらしいので、場所さえあれば、本当はサッカーでもしたいのかもしれないが。
初めて彼を見た時から三年、彼は徐々に幼さが抜けてきている。このまま大人になればどんなに綺麗になるだろうと、どこか空恐ろしくなった。
話しかけたいのをいつもぐっと堪えて、遠くから見守るだけに留める。次に彼に話しかけるのは、「君のお陰で弁護士になれた」と報告する時だと決めているからだ。それまではこうやって定期的に開かれる展示会を、彼との一方的な逢瀬にすることにした。
しかしその翌年に開かれた展示会に、彼の姿はなかった。きっと中学に進学して、一人で留守番をするようになってしまったのだろう。そういえば型検査の結果も出ているはずだ。αだと分かって、サッカーの練習でも本格的に始めたのかもしれない。あるいは、Ωだと分かって発情期を警戒しているのか。
寂しくもあったが、彼の両親が個展に顔を出し続ける以上、最悪彼らを通してまたいつか会えるだろうと信じた。
大学三年になり、法学部へと進学先が振り分けられ、キャンパスも変わる。そして新にとって最も大きな変化は、友達と呼べる人間ができたことだった。というより、無理矢理友達にされたのだ。
午前中の授業が終わった後、隣に座ったその男はべったりと肩に凭れかかってくる。
「一条、昼飯は? 中央? メトロ?」
「……中央」
あからさまに煙たがっても、彼はいつだって笑顔を崩さない。
「おっし、行こー!」
まだ鞄の口も閉めていないのに、彼に引き摺られるようにして大教室を出る。彼の名前は國木田勇吾。この大学の法学部生に似つかわしくない、ツンツンと茶髪を立てた彼は、とにかくよく喋る男だ。
出会いは三年に上がってすぐ、大教室での初回授業だった。新は何の迷いもなく最前列の席を陣取り、授業の開始を待っていた。大教室の初回講義というものは、やる気のない者が後方を埋め、目立ちたくない者が真ん中を埋めていく。そして大抵最前列の席が余り、遅れてきた者はそこに座らざるを得なくなる。その日も授業開始後に慌てて入ってきた者が、新の側に座った。それが國木田だった。
「なーなー、授業の最初何言ってた?」
終了後に彼にそう話しかけられたのが始まりだ。懇切丁寧に教えてやったつもりなのに、彼はおかしなものを見るような目を向けてきた。
「お前さ、聞かれたことにだけきっちり答えるのな。俺、國木田。お前の名前は?」
「……一条、新」
「よし、一条は俺の友達な」
「友達? なぜ?」
新はぎゅっと眉を顰める。
「俺、進振りで文転してきたから、友達いねーの。それに俺よく喋るからさ、あんま喋んなさそうな奴と一緒がいい」
なんとも強引で酷い理由だ。しかし二年次の進学振り分けで、理系から法学部へ来られる定員はほんの僅か。彼の成績が優秀なのは間違いない。
「友達になって何になるんだ? 勉強は一人でするものだ」
「勉強以外で友達とすることもあるだろ?」
「勉強以外はしない」
新の回答に、國木田は何かおかしなスイッチでも入ったのかと思うほど笑い転げた。
「っは、何、お前なんでそんな勉強好きなの」
彼は笑いすぎて苦しそうにそう言った。
「……βだから、勉強しなければすぐに置いていかれる」
「べーた!? マジで? そんな背高いのに? 身長何センチ?」
「もうすぐ190だが、まだ毎年少しずつ伸びている」
「意味分かんねー、スゲー!」
言葉では褒めているくせに、彼はとにかく笑い続け、しばらくしてヒィヒィと呼吸を整えた。
「この大学にいるの、ただでさえ九割αなのに、その中でも上位の法学部っつったら、そこに入ってくるβなんて宇宙人だろ。いや、俺絶対お前と友達になるから! よろ!」
てへっと敬礼する彼に、新はふうと溜め息をついた。
「何か……試験のために利用されそうになっている気がする」
「お前、やっぱ頭いーな! 正解! 単位やる!」
それからと言うもの、授業で最前列に座る新の隣は、いつもこの男が陣取るようになったのだ。
食堂で席を確保し、ピラフセットを前に待っていると、麺類の配膳コーナーから國木田が現れた。正面の席にガチャンと置かれたトレイには、真っ赤な粉を山盛りにしたラーメン。見ているだけで口の中が辛くなりそうで、新は自分のピラフに視線を戻した。
「はー、法学部やっぱしんどいわ。砂漠と呼ばれるだけはある」
「そうだな」
「今お前の台詞の後ろに(棒)って文字が見えた! この勉強マシーンめ!」
新は黙々とピラフに手を付け始めたが、目の前の男のマシンガントークは止まらない。
「そういえばお前実家住みだっけ? 家事をやらない分、一人暮らしの俺より勉強時間あるよな!」
「いや、最近はほとんど一人暮らしみたいなものだ」
「何で? 弁護士のかーちゃんどうした?」
「事務所があるビルの上の方の階に、部屋借りた。俺もそろそろ自活できるだろってことで、あっちに住んで仕事も増やすって」
「じゃあ今度遊びに行くわ!」
「嫌だ」
「何でぇ!? 前俺の家に一度ご招待しただろぉ?」
「あれは勉強会だと騙されて連れて行かれただけだ」
新がどんなに冷たくしても、彼はめげずに構ってくる。新が本当に嫌がるところには決して踏み込んでは来ない。それはどこか居心地が良かった。
ともだちにシェアしよう!