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番外編: 裏0-5

 それから一年は、とにかく忙しいの一言に尽きた。若手だからとあれもこれも手を出せる。普通なら広く浅くなるところだが、従来の勉強漬けの性格のお陰で、新は広く深くできてしまった。  まだ一年目の若手、それもβで、すごい弁護士先生がいるらしい。その噂は各企業の法務へと伝わっただけでなく、メディアからも注目された。新はさすがにテレビ出演は断ったが、雑誌などのインタビューにはよく顔を出して名を売った。  超多忙だが順風満帆の生活がさらに一年半続いた時、久しぶりに母から連絡が入った。彼女とはあの大喧嘩以来あまり接点がない。しかし旭が施設にいるという連絡をもらった以上、彼が今は白峰製薬の研究所に移っていることだけは義理で伝えてあった。 『話したいことがあるんだけど、いつなら来られる? 忙しいのは分かってるけど、旭ちゃんに関する大事なことだよー。白峰製薬の研究所って、ヤバいとこかも!』  付けられた様々な絵文字と内容の深刻さが乖離している。その後少ししてからまたメール。 『本当だからね? 公安の人に聞いたの。間違いない』  訝しんで迷った末、ある土曜の夜に彼女の小さな事務所へ出向くことにした。 「おっ、きたきた~。久しぶりに見た気がする。なんか老けた?」  ドアを開けるなり、奥の席にどっかりと座った母がそう言った。 「用件は?」  新の言葉に、瞳子は「つめたーい」と口を尖らせる。 「私が大活躍して、あのΩ毒殺事件の犯人が無罪になったのは、もーちろん知ってるでしょ?」 「……まあ、一応」 「あいつはね、間違いなく『法律的には』裁かれない人だった。彼には自分の自由意思がなかったんだから」  あの無罪は法律的には正当なものだ。そう聞こえるのは、新も本当は心のどこかでそれを納得しつつあるからかもしれない。 「でも、あいつは首謀者じゃなかったんだと思う。単なる実行犯の手駒」 「じゃあ是非ともそっちを捕まえてほしいもんだな」 「うん、公安の人は捕まえようとしてるよ」  けろっとそう言って、彼女はコーヒーのマグカップをずずーっと啜った。 「で、俺をここに呼びだした件は? 俺は旭のいる白峰製薬の研究所の話を聞きに来たんだ」 「うん、だからね、その佐川を動かしてた奴の巣が、白峰製薬っぽいよって話。あの佐川って人、地元の精神科から白峰十字病院に転院したんだけど、転院後のカルテがメチャメチャ。普通そこまで一気に悪くなるかー? って怪しかったから、公安に伝えたの。いやー、あの病院はヤバいね」 「大した正義感だな」  新の嫌味は瞳子には効かなかった。 「それで、たまに公安に状況を聞いてるんだけどね、あそこは反Ωで、新薬開発の実験のために人を拘束してるかもしれないんだってさ」 「は……なんで」 「詳しくは公安の人から直接聞いたら?」  彼女はコンビニのレシートの裏に電話番号を書き記し、新の手に押し付けた。 ***  待ち合わせしたのは、とある高級レストランだった。受付で名前を告げると、奥にある個室へと案内される。そこには既に一人の男が座って待っていた。  スーツを着た四十歳前後の彼は、短い黒髪を整髪剤で立てている。サングラスでもかければ柄が悪く見えるかもしれないが、髪型をいじるだけで平凡で真面目なサラリーマンにもなれそうな気がする。  彼が立ち上がって軽く礼をしたため、とりあえず頭を下げて返す。新ほどではないが背が高い。彼もαだろうか。 「一条新さん……。一条瞳子さんから話は聞いてます」 「公安の保坂さんですね。母がお世話になっております。ご迷惑をおかけしていなければいいのですが」  仕事モードで話しかけると、彼は目を丸くした。「どうぞ」と椅子を勧められて腰かけると、彼はじろじろと新を観察する。 「彼女から聞いていた人物像とはかなり違いますね。もっと、話し慣れていない、浮世離れした人だとばかり」 「私の方も、母から聞いていた話とは少し違うなと思っているところです。失礼ですが、ヤクザみたいな男が来ると聞いていたので」  瞳子の顔を思い浮かべたのだろう。保坂はチッと舌打ちして途端に姿勢を崩した。大股を開いて座る姿は、やはりヤクザに近いかもしれない。 「あの人にどこまで聞いた?」  男の口調が変わった。新はこの前母に聞いたところまでを話す。 「あの事件の真犯人があそこにいるかもしれないというのは、母の話から繋がっています。しかし、そこで人を拘束するようなことが起きているという話はどこから?」  保坂は最早取り繕うこともなく、乱暴に足を組んだ。 「ある男から警察に相談があった。白峰製薬の研究所を調べてほしいとな。甥が研究協力として研究所に行ったが、中々会えないのでおかしいと」 「藤堂さん……ですね。確かに、面会の回数が少なく、メールすら通じないことを不審に思っているようでした」 「知ってるなら話は早い。篠原旭は行方不明でも家出でもなく、自ら被害を訴えていないっつーことで、警察は詳しく捜査しなかった。が、我々公安はあんたの母親からの情報もあったから、それに目を付けた。俺の課は、反Ω過激派団体の担当でな」  極左や極右団体の他に、何年か前から反Ω過激派団体が活動しているという話は聞いていた。公安の内部は外からは分かりづらいが、やはり対策本部はあるのだろう。 「普段は連中の集会なんかを見張ってるんだが、参加してた構成員の尾行の結果、あの白峰製薬の研究所に帰っていく奴がいた。こりゃいよいよ怪しいぞってわけだ。少なくとも、大量殺人犯を悪化させた主治医やら、過激派の集会に参加するような連中がいる場所で、Ωの研究協力者がまっとうな扱いを受けてるとは思えない」  旭が、酷い扱いを受けている? もう何年だ? 四年半も、俺は放置してきたのか。  手の平にじっとりと汗が滲んだ時、ウェイターが料理を持って入ってきた。会話が一時中断し、保坂は前菜をバクバクと食べ始めた。 「その話は……一体どこまでが推測でどこまでが事実なんですか?」  食事が喉を通らず、新はぼんやりと呟いた。 「まあ、研究協力者がどのような状態にあるかは今のところ推測だな。あの製薬会社と提携病院、研究所に反Ωがいることは事実だ。これからあの研究所の人間と接触を図っていく」 「そう、ですか」  やっと食事に手を付けた新に、保坂は値踏みするような視線をぶつけてきた。 「他人事みたいに言ってっけど、こうしてあんたに内情を話してるのにはそれなりの理由がある」 「と言うと?」  彼は身を乗り出して真剣な顔になった。 「あんたの事務所、クライアントに白峰製薬がいるだろう?」  それだけで彼の意図を察することができた。 「まあそうですけど、研究部門の人と直接何かをするよりは法務部との作業が多いですよ。でも特許で専門の知識を聞きたい時は――」 「それでもいい。少しでも接点のある人間を辿って、使えそうな協力者を探す」  粗野に見えて、頭は切れそうな男だ。このまま何もできずに待っているよりはと思い、新は彼の期待を背負うことにした。 ***  保坂の役に立てそうな機会はすぐに巡ってきた。  以前白峰製薬とは一度コンプライアンス関係で仕事をしたことがあるが、今回は特許侵害の訴訟案件だった。  あの時は白峰製薬の上層部の人とも食事などをし、かなり気に入られた記憶がある。  先輩弁護士と共に新の参加も決まると、彼らは予想通り話題の弁護士である一条新に興味を示した。βの弁護士というキャラ付けはいつも掴みがいい。  親睦会の場はすぐに用意され、新はその情報を保坂に流した。  仕事の仮面を被れば、酒の席でもそれなりに話せる。多少コミュニケーションに失敗しても、それもまたキャラとして許された。「αの弁護士は無理でもβなら」というハンターの目をした女性に群がられながら、ほんの僅かな罪悪感を抱く。  居酒屋の隅、周囲に溶け込んだ会社帰り風のスーツの男、保坂。公安の捜査員とは、かくも自由に風貌を変えるのかと舌を巻くほどだ。彼はこの後目を付けた社員の誰かの後を尾けるのだろう。  しかしそこから先は保坂の仕事だ。新はなるべく彼を意識しないよう努めた。 ***  めぼしい人間と知り合いになれたと保坂が言ってきたのは、それから二ヶ月後のことだった。彼らは通常、身分を明かさずターゲットと親しくなり、信頼関係の構築後に捜査協力の話を持ちかけるのだと言う。今はまだ親しくなっている途中だそうで、また進捗があれば連絡すると言ってきた。  白峰製薬の仕事案件については粗方やることは済んでおり、何人かを残して新はメンバーから外れている。  もうすぐ秋になろうとするそんなある日、國木田から連絡が入った。 『俺来年から海外留学するわ』  もうすぐ弁護士になって二年、そろそろ進路がばらけてくる頃だった。國木田のように留学する者もいれば、どこかの企業に出向してそのまま企業内弁護士になる者もいる。もちろん、独立して自分の事務所を持つという道もあった。  仕事の忙しさと、旭のことで頭が一杯だった新は、今後についてそこまで深く考えていなかった。このまま今の大手事務所に残り、アソシエイトからパートナーになるのを目指すという強い野望もない。 『あんたの母親、まだ佐川のこと調べ続けてるよ。ドラマに出てくる弁護士でもないのに、よくあんなことするな』  そんなメールを寄越してきたのは保坂だった。自分は進展を保坂に任せきりなのに、母はまだ何かできることを探している。  情けないと思ったし、やはりあの母をいつまでも超えることはできないような気がした。  今後のキャリアについて散々悩んだ結果、新は今の事務所を辞めることにした。そして、母の事務所へと入れてもらった。  彼女に学びたい。彼女を助けたい。彼女と共に、真実を求めたい。 「おー、居候。来たか。じゃあ、お茶」  勤務初日、事務所に入った新を見るなり彼女はそう言って笑った。  彼女と同じように事務所上階の部屋を借りて、上の階と下の階を行ったり来たりする生活は、以前より刺激は少ないものの、どこか充実している気がした。  だが、僅か一ヶ月ほどでその生活は急展開を迎えることになる。 ***  十一月のある日、新は事務所には行かずに自室で書類の作成をしていた。どうせあそこへ行くと雑用を押し付けられるのは分かっている。今はどうしても片付けたい作業があった。  事務所へやっと顔を出したのは午後の二時過ぎだ。部屋には誰もいない。晴海は今日裁判所へ行くと言っていたが、瞳子は一日篭って調べ物と起案だと言っていた。  少し遅い昼食でも食べているのだろうと思ったその時、外から騒がしい気配を感じた。怒号と悲鳴。空耳かもしれないが、新は何の気なしに階段を降りてビルの外に出た。  少し離れた郵便局の方に人ごみができている。いつも通りノロノロと歩いて彼らに近付いた新は、人よりも頭一つ分高い身長で、人々の視線の先にあるものを見た。見えてしまった。 「母さん」  倒れた背の高い女性。見慣れたパンツスーツに、赤毛のショートヘア。いつもと違うのは、その首から胸にかけてが真っ赤に染まっていることだけだ。  人ごみをかき分けて彼女に近付いたその時、どこかから怒鳴り声が聞こえた。思わず振り返ると、取り押さえようとする人々の手をすり抜けて、一人の小柄な男がこちらに向かって来ていた。  新の周りにいた人ごみは、金切り声に近い悲鳴と共に散り散りに逃げて行く。  あの男は刃物を持っている。それを認識したのと、左腕に焼けるような痛みが走ったのはほぼ同時だった。  何となく、理由は分かっている。母はあの事件の裁判以降、世間一般からは目の敵にされている。そして今目の前にいる男は、体格からして明らかにΩ。  新に向かってもう一度刃を構える彼に、一瞬旭がだぶって見えた。  何も抵抗しなければ、脇腹にまた鋭い痛み。  二回切りつけても無表情で立っている大男を前に、ナイフを持った男が怯む。その隙に警棒を持った警官がやって来て彼を取り押さえた。  救急車のサイレンが鳴る中、新はもう一度倒れた母へと向かった。  アスファルトに広がる血溜まりの量からして、彼女は明らかに手遅れだ。あれだけ野次馬がいたのに、止血しようとした気配すらない。恐ろしい社会だ。この世界は、狂っている。  人々への怒りと同時に、新は自分自身にも腹を立てた。なぜもっと早く事務所へ行かなかったのかと。彼女のすぐ側には血に濡れた封筒が落ちている。郵便局にこれを出しに行くつもりだったのだ。新が事務所にいれば、「これ出してきてー」と一言命じられて、新の時間がほんの数分潰されるだけで済んだ。母の命に比べれば遥かに小さな代償だ。  頭に血が上りかけた時、新はやっとフラついてがくりと膝をついた。サイレンがすぐ側で聞こえる。あまりの音の大きさに頭が割れそうになり、そこでぷつりと意識が途切れた。 ***  病室で目を覚ました時、そこにいたのは保坂だった。 「起きたか」  新はまだぼやけた視界で白い天井を見ていた。 「意識を取り戻して早々悪いんだが、あんたの母親、一条瞳子さんは亡くなったよ」  あれだけ失血していればそうでしょうね。  頭の中にいる冷静な男がそう言う。しかし、現実の新は何も言うことができなかった。無敵に見えたあのおかしな人は、あっさりとこの世から自由になってしまった。全く実感が湧かない。  しばらくして病室に来たのは國木田だった。彼は既に留学のための休みに入っているらしい。 「だ、大丈夫なのかよお……」  一人前の弁護士になっても、彼はまだ学生時代のように子供っぽさを見せる。 「生きてる」 「見りゃ分かるよ!」 「ならなぜ泣く?」 「心配して安心したのも分かんねーのかよー! ていうか、泣いてねーし!」  グスグスっと彼が鼻をすすると、椅子に座っていた保坂がフッと笑った。 「なるほど、仕事の顔をしていない時の一条さんは、確かに少し変わっているようだ」 「……誰? 一条、俺以外に友達できたの?」 「いや、友達ではないな」 「じゃあ、愛人?」  その時、また病室のドアが開いた。入ってきた晴海は、思ったより室内が見舞客で賑わっていたせいか、入り口で足を止めた。 「瞳子さん、別の部屋にいるから。動けるようになったら会いに行ってあげて」  別の部屋。それは生者のための部屋ではない。晴海の目元はじんわりと赤くなっている。新が生まれる前から、晴海と瞳子は友人だった。彼女たちは女同士のパートナーではなかったし、新の片親が晴海だとも思わないが、きっと深い絆のようなものがあったのだろう。  皆が帰ってから一人になると、どうしても母のことを思い出してしまう。親の死。旭は既に何年も前に乗り越えた。僅か十五歳で。もう二十九の自分が耐えられなくてどうする。あの子のことを考えて、自分を叱咤した。  幸か不幸か、母の死を穏やかに考える時間はそうそう長くはなかった。翌日病室に来た医者にこう告げられたからだ。 「一条新さん。βで有名な方だと聞いていたのですが、あなたαですね? 分かってて隠している……?」  寝耳に水。新は呆然としながら否定した。 「いえ、最初の型検査でβと言われたので――」 「しかしその身長にご実績……αを疑って再検査したことは?」 「ありません。私は発情したΩを何度か見たことがありますが、何も起こらなかったので」  少し嘘をついた。本当はたった一度、旭の発情に近付いた時だけ身体に変調があった。しかしあの時は、自分から旭への思い入れのせいだと結論付けていたのだ。  新の発言に医師は大層驚いていた。腕と脇腹の傷がよくなり、そろそろ退院かという頃、「疑っているわけではないが念のため」と、ある空気を吸わされた。  何も感じず首を傾げると、医師たちはザワザワと議論を始めた。何でもあの中には高濃度のΩフェロモンが入っていたらしい。 「もう一度検査したのですが、あなたはやはりαのはずなんですよ。しかし、これは一体……?」  何度検査しても結果は変わらない。彼らの好奇の目の中、新が考えていたのは旭のことだった。  自分がαであの子がΩ。もっと何か感動のようなものがあるかと思っていたが、彼への気持ちの大きさは元から最大級で、正直αだのβだのということくらいでは何も変わらなかった。たとえ彼も自分もΩだったとしても、やはり何も変わらないだろう。  退院予定の前日、いつもの医者とは違う人がやって来た。 「よろしければ、我々の研究にご協力いただけませんか?」  差し出された名刺には、白峰製薬の文字があった。 ***  数日後、退院した新は亡き母の事務所で保坂と向かい合っていた。 「灯台下暗し。俺が協力者を探すまでもなくなったな」  今日の彼はどこかの張り込み帰りなのか、チンピラのような革ジャンを着ている。 「月に数日間、茨城の研究所に来るだけでいいと言っていました。監視カメラがあることだけは、申し訳ないが了承してほしいと。旭がいるのと同じ場所ですが、内容はまだ何も教えられていません」 「直接会えなくてもいい。何かしら収穫はあるだろう。ただし、まだすぐには承諾するな。なるべくこちらに有利な条件を飲ませてから入りたい。事前の調べも必要だしな」  その時、事務所のドアが開いて晴海が顔を出した。彼女は一人ではない。後ろにはいつか見た旭の伯父、藤堂がいた。 「保坂さん、研究所に入れそうな協力者が見つかったって……」  藤堂は室内をキョロキョロしている。保坂が目だけで新を示した。 「藤堂さん、私が行けることになりました」  彼をソファへと招きながら新が言う。 「記事になっていませんか? 有名な若手β弁護士が実はαだったと。世間では私は嘘つきと言われていますよ。ましてやあの一条瞳子の息子ですからね」 「藤堂さんはそういうのは読まねーんだよ」  なぜか保坂がそう言う。 「まあ、私は少し変わったところのあるαだったようで、白峰製薬から直々にご招待いただけました。だから、私が行きます」 「それはありがたいですが、あなたにもお仕事があるのでは……?」  見た目通りのお人好しだ。態度が大きい保坂の隣で、藤堂は申し訳なさそうに小さくなった。 「先ほども申し上げた通り、今の私は世間からマイナスの目を向けられている。仕事どころではないでしょう。この事務所は一旦一条の名を下ろし、そこの晴海さんにお願いしようということで、こちらで既に話は進んでいます」 「でも、だからこそあなたにとって今は信用回復に大事な時期で――」 「そんなものはいつでも取り戻せます。旭君を早く助けることの方が、よほど緊急性が高いでしょう。少なくとも……私にとっては」  まっすぐ見つめると、藤堂はさらに戸惑ったようだった。 「なぜ、あの子のためにそこまでしてくれるのか――」 「彼が大事だから。ずっと見てきたと、前にそう言ったでしょう。無事に彼をあそこから出すことができたなら……彼を俺にください。それが報酬だと言えば、あなたも納得しますか?」  保坂も晴海もいることを忘れて、新は思わず言ってしまった。保坂がブッと吹き出し、藤堂の肩を叩く。 「ええ……? もちろん、旭がいいと言うならいいですけど……あの子のα嫌いは手強いから、覚悟した方がいいですよ」  α嫌い――あんな事件もあれば当然そうなるだろう。あの研究所でもっとαへの嫌悪を募らせているかもしれない。  黙った新に向かって藤堂は改めて深く頭を下げ、「どうかあの子をよろしくお願いします」と言った。 ***  世間は薄情だ。有能な弁護士だとあれだけ一条新を持て囃しておきながら、αだと分かった途端に手の平を返す。「αならそこまですごいことではない」と。実力の絶対値では何も変わらないはずなのに、相対的な見方でこうも変わるものかと、呆れを通り越して笑いが漏れそうになる。  これまでαというものにあまりいい印象はなかった。「βのくせに」という本音が透けて見える者。手を抜いても生まれながらのαの力だけでうまくやっている者。  しかし自分がαになって、彼らの気持ちが少し分かったような気がした。どんなに努力したところで「αなのだからできて当たり前だ」と言われ、βに劣るようなことがあれば「αなのに」と言われる。恵まれているどころか、虚しく過酷な道がαなのだ。  生まれつきの才能など実に馬鹿馬鹿しい。小学生の旭でさえ分かっていたこと。新はもう一度あの子の言葉を思い出した。  世間から何を言われようが関係ない。いつか、普通のαでは辿り着けない境地に立てば、旭が褒めてくれる。それが全てだ。それ以外は、どうでもいい。  そう思った時、携帯がメッセージの到着を告げる。 『俺はお前のこと、世界で一番正直な奴だと思ってるよ。いつも無表情で嘘はつきやすそうだけどなー。しかしお子様舌で運動能力皆無のお前が突然αってw』  國木田だ。まるで「俺もお前の味方だぞ」と言わんばかりのタイミングで。  彼はαとしてどんな苦労をしてきたのだろうか。てっきりインハウスでのんびりやる道を選ぶかと思っていたのに、留学するとはどういうことか。  彼に話を聞いてもらうばかりで、彼の話はちっとも聞いたことがなかったのを思い出す。旭を助けることができたら、いつか彼に紹介しよう。そして彼の物語を聞こう。  新は彼への返信内容を考えた。  実験で会う相手のΩが篠原旭だと確定したのは、交渉開始から一ヶ月が経った頃だった。彼に直接会えるどころか、発情中の彼と二人きりにされると分かると、新は変に緊張してきてしまった。  晴海の事務所となった部屋の応接間で、いつも通り保坂と打ち合わせを進める。 「監禁の現場を俺自身が捉えて戻って来ればいい……そうですよね?」 「研究所に行って、発情期中だけ交尾用の部屋に入れられて、また直帰するだけじゃ何も分からんだろ。発情期外の篠原旭がどんな生活をしているのか、研究所内部の力関係はどうなっているのか、反Ωなのは一部なのか組織全部なのか、佐川の主治医だった林がどんなことをしているのか……調べることは山ほどある」 「数日間出向いて閉じ込められるだけでは、調べきれませんね」  その機会を使って誰か協力者を得られれば、継続的な情報提供が見込めるかもしれない。消極的にそんなことを考える新を見て、保坂は短い髪をガシガシと掻いた。 「だから、お前が長期潜入すりゃいいだろ」 「長期……こちらから監禁生活を望むということですか。どんな理由で入ればいいんです? 期間中にあなたと連絡を取る方法は? 隠しカメラの充電もしないとならない。うまく考えないと……」 「徹底的に渋ってまずは事前に研究所の情報を引き出せ。監視カメラのない場所があるか、あるなら仕事のためにそこへ行けないか、そこはパソコンや電力が使える部屋か、外の誰かを呼んでもいい部屋か……。監禁生活を望む理由は……自分で考えてくれ。篠原旭が好きだから、という理由は無しだぞ。彼とは無関係を装え」  一番言い訳が難しいところをこちらに投げられてしまった。 「それに不安なのは……この俺の体質の原因があっさり分かってしまうことです。俺はもしかしたら旭相手に発情するかもしれない。そうなれば、単に発情に必要なフェロモン量の閾値が高いだけのαだということになってしまう」 「発情中のΩに反応しない。そう言ったのはお前だ」 「旭だけは別です。以前一度、反応しかけた」  保坂は怖い顔で「あぁ?」と言う。舌打ちした彼は、どこかに電話をかけたかと思うと、勝手に新の検査の予約を入れた。 ***  それから約三ヶ月。新は何度も保坂との打ち合わせを重ねた。黒野製薬というところで検査を受け、α用の抑制剤の協力を頼み、外部との連絡役に晴海を指名した。  三月九日の早朝、ボストンバッグに荷物を詰めていた新は、チャイムの音で手を止める。パジャマを忘れずに後で入れておこうと思いながら、玄関へと向かった。 「いよいよ今日からだな」  ズカズカと見知った風に部屋に上がりながら、保坂が言った。 「何ですか? 何か心配事でも?」  勝手にソファに座った保坂に、新が首を傾げる。 「いや、俺じゃなくて、あんたの方に何か心配事はないかと思って」 「ないですね。晴海さんとはちょくちょく会えるわけですし、藤堂さんもたまに面会で来ると言っていましたから、そこまで隔絶されるという自覚がありません」  晴海には昨夜も会っているが、「若作りしてコンビニ製の愛妻弁当を持っていくからね」と張り切っていた。 「もし、外から何のサポートもできなくなったら? それでもやれるか?」  今更彼はそんなことを言って、事前のインフォームド・コンセントのつもりだろうか。書面での契約でもないのに、どこかかしこまった空気だ。 「やれます。旭を助ける。旭を苦しめたあの事件の犯人を捕まえる。あなたと会わなくても、俺はきっと一人でやろうとしていた」 「じゃあ、その言葉を信じよう。この先何があっても」  彼は重い腰を上げ、新をじっと見つめた。 「目の下に隈があるから、てっきり緊張で眠れなかったのかと思った」 「今日約七年ぶりに旭に会えるのかと思って、興奮して眠れませんでした」 「……は、そんなに会えないのによくそこまで」 「会えなくても、この人生は彼と共にあったと思っています。あの子の絵を見て、何かが動き出した。あの子の言葉で走り続けられた」 「そんなに熱い気持ちがあんのに、お前ってホント、無表情だな。ポーカーフェイスはスパイにもってこいだ」  彼は玄関でもう一度新を振り返り、「じゃあな」と言った。 ***  地下に降りたエレベーターを出ると、グレーのタイル張りの床と真っ白な壁が出迎える。新薬開発のためにΩを閉じ込めている研究所――そう聞いて想像していたよりもずっとまっとうな建物だ。研究室のあるオフィスです、と言われれば疑う者はいないだろう。  塵一つない、整然とした空間。しかし人によっては、綺麗すぎて非人工的な恐ろしさを感じるかもしれない。  新は胸元で静かに撮影しているであろうペン型カメラのことを考える。先ほどの事前説明と手荷物検査の段階では、ボストンバッグを見られただけで通れたが、まだ緊張が続いていた。  林に連れられて廊下を進むと、白いドアが見えてくる。林はドア脇のチャイムを鳴らしたが、中からの返事を待つことはない。  ロックが外れる電子音でそのドアが開き、中へ通される。驚くべきことに、中にはもう一枚黒いドア。早速分かりやすい監禁状態をカメラに収めることができてしまった。奥のドアを開けた林の背中を見ながら、順調な滑り出しに感謝する。  ドアの向こうには普通のマンションのような廊下が見える。監禁部屋の証拠を撮ることに気を取られていた時、こちらに強い視線を向ける男と目が合った。  ジロジロとスーツ姿の新を観察している、二十二歳の篠原旭。頭の中で何度も成長した姿を思い描いてきたが、そんな想像を遥かに上回る存在感だ。  無造作だが柔らかそうな薄茶の髪と、すらりと伸びた身体。晶側由来の海外の血なのか、Ωという割には身長も170センチはありそうだ。  そして何より美しいのが、前髪の間から見える大きな瞳だ。負けん気の強い、ダイヤモンドのように硬そうな輝きを持つ瞳。小学生の彼の姿が、確かにそこには残っている。 「私の方からお互いの紹介をしてやらないといけないのか? 小学校の転校生でもあるまいし、大人同士きちんと挨拶してくれ」  旭といつまでも見つめ合っていたら、林が呆れたように肩を竦めた。 「まあいい。ここでの生活についてはこのΩに聞くように。それ以外については先程話した通りだ」  林が部屋を出ていく間も、新はずっと旭に見入っていた。  会えた。やっと会えた。会えたどころか、これから彼とこの部屋で暮らすのだ。何か言わなければ。仕事ではあれだけ流暢に会話ができるのに、彼を前にすると何を言えばいいか分からなくなってしまう。 「篠原、旭……」  まずは自己紹介だと思ったのに、なぜか彼の名前を言ってしまう。 「何、あいつらから俺のこと先に聞いてんの? 俺の方はあんたのことαだってこと以外なーんにも知らないんだけど」  喋った。あの頃と同じ、冷たい言葉。触ると痛い、ドライアイスでできた芸術品のようだ。  彼は非友好的な空気で廊下の壁に凭れかかった。靴を脱いで上がる前から、急に前途多難になってしまったような気がする。 「一条、新」  気を取り直してもう一度、自己紹介から。  彼の絵に出会って十三年半後。やっとこの名前を彼に告げるところから、一条新の新しい物語が幕を開ける。囚われた最愛の人を自由にするために。 ------------ 番外編までお読みいただきありがとうございました。 他にも多数番外編がありますので(大体どれもほのぼの子連れ家族ものになってしまっているのですが)、今後こちらにもぼちぼち転載しに来ようと思います。

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