62 / 66
番外編: 不幸を塗り替えるもの
旭が七年も世間から隔絶されている間に、技術は大きく進歩していた。
「いやー、最近の携帯ってすごいな」
先月、アラタが帰ってくる少し前に購入した最新式の携帯電話。一か月以上経ってもまだ使いこなせている気がしない。
「……旭が年寄り臭い」
「うるさいな。携帯なんて高一以来持ってなかったんだからいいだろ」
リビングのソファに座る旭は、隣のアラタから携帯の画面を隠すようにしてむくれた。
「ムカつくからお前の名前検索してやる。同姓同名の変な人のプロフィールが出てきたりし、て……」
検索して出てきた内容に、旭の口が自然と止まった。
『βのイケメン若手有能弁護士・一条新インタビュー』
一番上にはそんな記事が上がってきているが、二番目以降は突然トーンが変わる。
『β弁護士一条新、実はαだった!? 型隠しの意図とは?』
『弁護士がβ詐欺! それって合法? 一条新のケースについて同業の弁護士が解説』
金属を爪で引っ掻いたような音を立てて、見ている画面が脳裏に刻まれていく。携帯をぎゅっと握り締めたその時。
「旭」
穏やかな低音で名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。
「今日の夕飯は?」
「あ……えっと、今日、は……」
「オムライス?」
「それは一昨日食べただろ」
彼への突っ込みで、何とか平常心を取り戻す。何も知らないで騒ぎ立てる――マスコミなんていつもそんなものだ。両親が死んだあの時から、分かり切っていた……はずだった。
「旭はこれまでたくさんの不幸があった。俺の不幸まで旭が気にする必要はない」
旭が何を見たのか、彼には分かっているようだ。
「そう、だけど……」
「だけど? こんな醜聞のある男と結婚して後悔している?」
「そんなわけないだろ」
隣に座るアラタにしがみ付いて反論すると、彼はほんの少し笑った。
「じゃあ、旭はマスコミが嫌いだから、彼らに憤りを感じている?」
「そうだよ! 分かってるなら変なこと言うな」
身体を離そうとしたが、今度は彼に抱き込まれてしまった。
「つまり、そんな変なことを言って旭をからかう余裕があるほど、俺は自分の外聞について気にしていない、ということだ」
「なんでだよ、ムカつくだろ……あんな、わざと隠してたみたいなガセ撒き散らされて。お前は何も悪いことなんてしてないのに」
「……困った」
アラタは突然そう言ったかと思うと、旭の首筋に顔を埋めた。
「ほら、そうだろ? 業務妨害とかで訴えてやれよ」
「え? いや、俺が困ったのは……俺のせいで旭を悲しませたくないのに、旭が俺のために怒ってくれているのも嬉しくて、どうしようかと」
「はあ!?」
「マスコミが俺を叩けば叩くほど、旭は俺のことを想って怒ってくれる……でも旭を悲しい気持ちにはさせたくない……困った……」
「困るな! ふざけてないで、本気で――」
「ふざけてない」
アラタの唇が、番の契約の跡が残るうなじに触れた。
「世間にどう思われていようと、俺には本当にどうでもいい。どれくらいどうでもいいかと言うと……旭のいるバスルームに鍵がかかっているかどうかくらいどうでもいい」
「それはどうでもよくない。外から開けられるからって勝手に入って来るな」
ぺしぺしとアラタの頭を叩くと、うなじの跡を濃くするようにガリッと噛まれる。
「っ、駄目、だって……」
彼の髪をぐしゃぐしゃにすると、やっと首筋から顔を上げてくれた。
「旭が分かってくれないのが悪い。俺は旭に好きになってもらえればそれで良かった。旭に認めてもらえる人間になろうとして生きてきて、旭を手に入れた今、他人からの評価なんてどうでもいい」
彼の目はまるで「そうだろう?」と同意を求めているかのように、旭をじっと見ている。それを分かっていても、旭はほぼ無意識に首を振っていた。
「たった一人俺がお前を認めたって、世界中の何千万の人がお前のことを誤解してる」
「人数の問題じゃない。旭一人の方が大事だ。だから、俺の不幸や理不尽を嘆く代わりに、旭に俺を褒めてほしい」
「ほ、褒めるって……」
まだ釈然としないが、期待の眼差しを向けられ、旭はゆっくりと腕を上げた。
「こう?」
照れ臭くなって、雑に彼の頭を撫でる。それでも彼は十分嬉しそうに、旭を抱き締める力を強めた。
「仕事、いつまでも本格的に復帰しないから、こういう世間の評判を気にしてるのかと思った」
「まさか。単に旭との新婚生活に浸ってるだけだ」
「ま、まあ、お前やたら貯金あるみたいだし、俺もあの実験でもらった給料がたくさんあるからな」
「でも、旭が俺に働いてほしいと思っているなら、俺はすぐにでも元通りの忙しい生活に戻るつもりだ」
正直、旭にとっても今の幸せな毎日は手放し難くなっている。返答に迷っていると、アラタが言葉を続けた。
「仕事でまた世間を見返してやれと旭が言うなら、俺はその通りにするだけだ。周りが何を言おうが、俺には旭の声しか聞こえない」
「……宗教」
旭の言葉に、アラタは何も反論しなかった。その代わりに、旭のシャツの裾から彼の手が滑り込んでくる。
「こら、夕飯の準備があるんだって」
「……最近全然していない」
「今日か明日にはまた発情期が始まるって言ってるだろ?」
この後、嫌と言うほどセックスするのは分かり切っているのに、その前からやろうと思うΩはいない。
「それにこの前も話したけど、最近あんまり体調良くないんだって」
「病院は?」
「発情期終わってからにしようと思ってまだ行ってない。何となく気持ち悪いのって、内科で風邪かどうか診てもらえばいいのか?」
「分からなければ大きめの総合病院に行くといい」
彼はさっさとそう言って、また旭の下腹部をまさぐり始める。
「それは駄目」
お預けをくらってしょぼくれる彼に、旭は触れるだけのキスをあげた。
***
病院に行った帰りのバスの中、旭はぼーっと流れていく歩道を見ていた。身体のだるさのせいだけではない、何だか不思議な感覚だ。
「少し前から吐き気があって、あと発情期が予定から五日過ぎたのに来ません」
「先月の発情期、誰かと性交渉がありましたか?」
医師の質問に恥じらいながら「はい」と返事をしたら、内科ではなく産科に回された。そこでの検査の結果、旭は絶句することになる。なぜなら、「妊娠していますよ」と笑顔でお祝いを言われたからだ。
「一条さんはΩなんですよね? 発情期のΩがαと交渉を持てば妊娠する――すぐそちらに思い当たりませんでしたか?」
「そんなはずない、と思って……」
「なぜ?」
自分の不可思議な体質のことを話したら、「白峰十字病院と連絡を取ってみるので、また三日後にパートナーと来てくださいね」とのことだった。
これまでの研究が嘘のように、あっさり妊娠したこと。このお腹の中に、今新しい命があること。そして、それらをアラタにどう伝えるべきかということ。
全てが一気に頭の中を満たした結果、旭はただただぼんやりするしかなかった。
旭が帰宅して三十分ほどしたら、玄関から鍵の開く音が聞こえた。晴海の事務所で軽く仕事をしてきたアラタが帰ってきたのだ。
いつも通りの顔で「おかえり」と言えるだろうか。夕飯の支度をしていた手を止めて迷っていると、リビングのドアが開いた。
「おか、おかえり……」
キッチンの方から声をかけると、彼はリビングからこちらにやって来た。
「ただいま。旭、病院には行ったのか?」
「うん……」
「どうだった?」
アラタはマフラーやコートを脱ぎながら、軽い世間話のようにそう尋ねた。
どうしよう。何て言えばいい? おめでとう、元気な赤ちゃんです! ……それは生まれた時の台詞か。童貞一発命中おめでとう? ……いや、全然一発じゃなかったな。
先月の発情期を思い出して真っ赤になっていたら、アラタがすぐ目の前に来ていた。
「旭……何かあったのか? 何か悪い病気でも見つかったのか?」
アラタがぎゅっと眉を顰めて不安を露わにする。思わず安心させてあげたくなって、旭は重い口を開いた。
「いや、悪いどころか逆。多分、いいこと」
「いいこと? 血糖値が下がったとか、コレステロールが下がったとか?」
「……アラタが年寄り臭い」
「病院で分かる良い事と言われて思い浮かべただけだ」
焦るアラタを前に、旭は思わず笑いを零した。
「旭……?」
「妊娠、してるんだってさ、俺」
赤くなった顔を隠すように、アラタの胸にコツンと額をぶつける。
「ニンジン?」
「違う。デキちゃったってこと」
「何が……できたんだ?」
「……子供」
「どうして?」
「発情期に避妊なしでセックスして卵子と精子が――」
「いや、子供ができる仕組みは知っているが……」
彼の混乱ぶりは、つい一時間ほど前の自分を見ているようだ。
「言いたいことは分かる。俺もそんなはずないって思ったんだけど、病院でそう言われた。今週の金曜日、その、仕事とかなければ、一緒にまた病院に来てくれって、言われてて……」
「行く」
彼の即答に、旭はふっと身体の力を抜いた。
「嬉しい……? 嫌じゃない?」
アラタの左手がいつもより慎重に旭の頭を抱いて、髪を撫でる。
「……実感がなくて、変な感じがする。嬉しいだとか、嫌だとか思う以前に、まだ驚いている」
「うん、俺もそんな感じ。元から子供作る計画だった人なら嬉しいって思うんだろうけど、俺はずっとお前と二人きりのつもりだったから」
アラタの胸に顔を埋めていると、視界の下の方に彼の手が見えた。いつも無遠慮に旭の腰に纏わり付いてくる彼の右手。それが今は旭に触れるのを躊躇うように、ふらふらと彷徨っている。
「何だよ、この手」
笑い混じりに茶化して、彼の右手を掴む。
「……触ってもいいものかと」
「この前まで何も知らずに触りまくってたくせに」
彼の手を自分の腰付近まで持って来て解放すると、アラタはその大きな手を恐る恐る旭の腹部に当てた。
「まだ大きくない」
「当たり前だろ」
彼の手は旭の服の中に入り込むと、まるで壊れ物に触れるかのようにそっと旭の肌を撫でた。その擽ったさに、思わず笑いが漏れそうになる。
「旭は……いいのか?」
唐突に聞かれ、旭は「何が?」と優しく答えた。
「子供を産むこと。旭はΩという自分の性質にコンプレックスを持っている。これからもっとお腹が大きくなって街中にでも出れば、皆旭がΩだと分かるだろう。旭はそういうのが嫌なんじゃないかと思って」
「ああ、うん。少し前の俺なら多分そうだったと思う。俺は男だ、誰が妊娠なんかするかって、怒ってただろうな」
かつての旭は、閉じ込められた狭い檻の中でキャンキャン喚いて反抗していた。それが随分昔のことのように思える。
「でも、何か今はどうでもいいんだ。周りが俺のことを男だと思おうが、Ωだと見下そうが、そんなの関係ない」
「どうして?」
「言わないと駄目なのかよ」
「この前俺も話した」
不平等だと言わんばかりに彼が言う。確かにその通りだ。彼にはいつもたくさんの行動や言葉をもらっているのに、旭は中々それに返せないでいる。
腹部を撫でる彼の手に、旭はそっと自分の掌を重ねた。
「お前一人が俺のこと好きでいてくれるなら、Ωでも妊夫でもなってやる。周りからどう見られたって構わない。『Ωで良かった』って笑ってやるよ」
旭は彼の胸に抱かれたまま、穏やかに微笑んだ。子供を産むことで彼に何かを返せると言うのなら、子供を産める身体に生まれたことにただ感謝しかない。Ωであることに絶望していた過去も不幸も、まるで下書きだったかのように塗り潰されて、もう何も見えなくなってしまっていた。
「旭にも俺の気持ちが分かってくれたようで嬉しい。俺もαで良かった。周りにどんな誤解をされようとも」
今なら彼の言葉がしっくりと胸に染み込んでくる。そう伝えようと思って顔を上げたら、違うことを考えたアラタに唇を塞がれてしまった。
甘い甘いこんな時間も、子供が生まれたらなくなってしまうのだろうか。
アラタのことだから、子供の前でも堂々とこんなことをしてくるのかもしれない。
そんなことを考えていたら、彼の唇がゆっくりと離れていった。
「旭、今夜の夕飯は? ちなみに、めでたい時のご飯の色は赤がいいと思う」
「そう言うと思ったからオムライス作ってる」
「体調が悪くなったら俺が食事を作る」
「妊娠中毎日お粥は勘弁な」
笑いながら身体を離し、作業中だったまな板の前へと戻った。
「……そういえば、妊娠はいつまで?」
手伝うわけでもなく隣に立ったアラタが、ふと疑問を口にする。
「えと、九月とかそんくらい?」
「それまでセックスは?」
「え……やめた方がいいだろ」
旭が顔を顰めるも、アラタはじっと何かを考え込んだ。
「……そうだ。してもいいか、今度聞いておこう」
「だ、誰に?」
「三日後に病院で」
「や、やだよ、恥ずかしいな」
「何が?」
「何がって、その、妊娠中もそういうことしたいんだなって思われるのが嫌って言うか」
旭が口籠ると、アラタはわざとらしいほど大きく首を傾げた。
「周りにどう思われても構わない……と、旭はさっき言った」
「……っ、そうだけど」
「あれは嘘?」
「嘘じゃない。でもそんなこと恥ずかしげもなく外で言うような男は、俺、嫌いになる、かも……」
旭がアラタを嫌いになることなどありはしないのに、彼の顔色を窺いながら嘘をついてみた。
「分かった。じゃあ恥らいながら聞く」
「駄目!」
プリプリと怒りながら夕食の支度に戻った旭を、アラタはその場で忠犬のようにじっと見守っていた。
「そうだ、旭が病院に行きやすいように車の運転免許を取ろうと思う」
「持ってなかったのか?」
「忙しかったから。今ならちょうど時間がある。Ω向けのマタニティウェアも探さないと」
気が早い彼が、旭のために必死で何かをしようとしてくれている。その姿がなんだか胸を一杯にして、涙が溢れそうになった。それはもしかしたら、今切っているタマネギのせいかもしれないけれど。
彼とここで新生活を始めてまだ一か月。幸せはこれからも際限なく上塗りされていくのだろう。
そして旭が臨月を迎える頃、街中を歩くアラタと旭の姿が世間で話題になり、「一条新」の検索結果がおめでたい記事で塗り替えられるのは、また別の話。
ともだちにシェアしよう!