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番外編: 籠を出た鳥は新たな巣を作る

 街中に年明けの浮ついた空気が残る午後、旭はアラタと共に彼の仕事場上にあるマンションの一室へと来ていた。目的は彼の荷物だ。彼が帰ってきて、入籍して、突然の発情期に襲われて……それらがやっと落ち着き、これからの新生活に向けて準備をしなければならない。 「ほら、早く持ってくものまとめろよ。俊輔伯父さんがせっかくお正月休みに車出してくれるんだから」  伯父が来るのは夕方。それまでに荷物をまとめなければならない。突っ立っているアラタに命令してから、旭はベッドに腰を下ろした。  一切抑制剤を飲まずに過ごしたあの発情期のせいで、まだ身体中が気怠い気がする。数日間続いたあの情事をつい思い出しそうになって、慌てて何か気を逸らそうと部屋を見渡した。  早速目に飛び込んできたのは、クローゼットを開けた状態で固まっている大きな図体の男。早くしろと言ったばかりなのに、この変人は気を抜くとすぐこれだ。 「どうした?」  背後から声をかけるが、彼は振り返ることもなくじっと何かを見ている。よく見ると、クローゼット内にある衣類用ケースの引き出し内を睨んでいるようだ。 「違う」 「何が?」 「服の順番が違う」  彼は上から三枚セーターやシャツを掴み、旭に見せつけた。普通の人間ならそんなものを見せられても何も分からない。  しかし旭は違う。なぜなら、旭は過去に見た映像をほとんど覚えていられるから。そしてさらに、服の順番を入れ替えた犯人がまさに旭自身だから。  最初にあの引き出しを開けた時の映像と、それを戻した時の映像を比べると、確かに自分は間違えた。一番上の白いシャツさえ合っていればいいと思い、二番目の黒いシャツと三番目の黒いニットを逆にしている。まさかバレるとは思わなかったから、慎重さに欠いていたのだ。 「そんなの……覚えてるのか?」 「旭ほどではないが、自分の部屋の中のことなら」  彼は鋭い目で自室の中をぐるりと見回した。縄張りの中で起きた変化は絶対見逃さないぞと言わんばかりに。さて、どう宥めるか。 「んー、俺の記憶だと、最初に見た時からこうだったぞ」  記憶力に関してはこちらが有利。アラタの記憶違いという方向性で話を進めようとしたが、彼は余計首を傾げてしまった。 「最初に見た時から……? 旭は俺がいない間に、このクローゼットを開けてこの引き出しの中を見たのか?」  まずい。しかし一度外に出した言葉はもう戻せない。 「っ、そりゃまあしばらくここで生活してたんだから、どこに何があるかくらいひと通り見るだろ」 「引き出しを開けて、服が入っているのを確認して、普通ならその下の順番までは見ないと思うが」 「もちろん一番上の白いシャツだけ見て閉めた。でもそのケースの引き出しが半透明だから、色の順番も覚えてるんだって。上から白、黒、黒」  我ながら辻褄の合った説明だなと思っていると、アラタも大きく頷いた。 「……なるほど、それなら旭の記憶は完璧ではなかったというわけだ。この二番目と三番目はどちらも黒い服だが、俺の記憶と逆になっている」  話が最初に戻ってしまった。しかしここで負けるわけにはいかない。何としても「あのこと」は隠し通さなければ。 「いや、えっと、黒いシャツとニットだろ? 上からニット、シャツの順だった。引き出しの外からでも明らかにそうだった」 「半透明のこのケースではせいぜい服の枚数が分かるくらいで、それ以上の区別はできないはずだ」  彼は持っていた服を戻して引き出しを閉める。確かにそうやってしまえば、黒いニットとシャツはぼんやり一体となって区別がつかない。まるで証拠を見ろと言わんばかりに彼は引き出しを指でコツコツ叩いた。 「あーっ、もう! 弁護士様の意義あり攻撃がしつこい! そんな細かいこと気にしてる暇があったらさっさと荷物まとめろよ! ほらあと二時間!」  壁にかかった時計を指差すと、アラタは考えるのをやめて作業を再開してくれた。  ベッドにゴロンと横になり、旭はこっそりと安堵の溜息をつく。まさか彼の服を使って「あんなこと」をしたと知られたら……。  ふかふかのベッドに顔を埋め、旭は少し前にこの部屋で過ごした発情期のことを思い出していた。 *** 「アラタのこと、何か分かったらまた電話でお願いします」  電話越しに晴海の「分かってる」という言葉を聞いてから、旭は携帯の通話を終了させた。研究所から逃がしてもらって二晩経過したが、未だにアラタが出てくる気配はない。一日中部屋の中をソワソワうろうろ歩き回って過ごしている。  やっぱり研究所に戻ろう――何度も何度も玄関ドアの前まで行っては引き返した。その理由はただ一つ。発情期が来るからだ。  この脱出決行日と発情期開始のタイミングはおそらく意図的に狙っていたのだろう。安全な場所に落ち着くまでに二、三日の余裕を見て、その後始まる発情期によってその場へ籠らせる魂胆だ。旭が自分を探して危険な場所へ戻ってこないように。  発情期開始予定日である今日、旭の身体は徐々に体温が上がってきていた。晴海に買ってきてもらった市販の抑制剤も飲んではみたが、果たしてこれがどの程度効くのか分からない。  怠くなってきた身体をベッドに横たえ、ぎゅっと目を閉じた。経験上、発情期をやり過ごすには寝るのが一番だ。夢を見ている隙に時間が進んでくれる。寝付けなくなる前に、旭はそっと意識を手放した。  下腹部の辺りにジリジリと感じる違和感で目が覚めたのは、それから三時間後。思ったより進んでいない時計の針が憎らしい。  市販の薬でも全く意味がないわけではなく、何も飲まない時より少しマシな気がする。もっとも、それも単なるプラセボ効果なのかもしれないが。 「あー、やだなあ……」  何とかもう一度寝られないかと枕に顔を押し付ける。すると、アラタの髪と同じ匂いが微かに鼻を擽った。 「っ……?」  燻っていた体内の熱が急に燃え上がり、後孔がムズムズ反応する。前も突然窮屈になって、慌てて下半身の衣類を脱ぎ捨てた。  身を起こして確認すると、半勃ちだったそこは完全に芯を持っていた。 「なんで、急に……?」  思い当たることはただ一つ。背後にある枕を一瞥し、ゴクリと唾を飲んだ。  もしかして、匂い?  あくまで確認のためだと自分に言い聞かせ、枕へと吸い寄せられるように手を伸ばす。抱き締めてそこに鼻を埋めると、思った通り鼓動が早くなり、あそこへ血液が集中した。  しかしただの匂いだけでこんな状態になるだろうか。今までの発情期を思い返しても経験がない。  うーん、と考え込みながらも、旭は枕から顔を上げることができなかった。発情期特有の本能的な衝動が、この匂いを求めている。  右手は自然と下半身の屹立に向かい、そっと優しく先端に触れる。最初から強く擦って刺激すると、発情期の後半は痛みのせいで触りたいのに触れない地獄になるからだ。 「ん……、あら、た」  枕をずっと抱いてると、まるで彼と抱き合っているかのような錯覚に陥りそうになる。彼の残り香はほんの僅かのはずなのに、敏感になった鼻によって何倍にも増幅されて感じているようだ。  邪魔な上半身の服も脱ぎ去って全裸になると、枕を抱きかかえたままベッドにゴロリと横になった。大きく呼吸して彼の香りを吸い込むと、鈴口からカウパーが雫のように零れ落ちる。この匂いがあれば、あまり触らずとも達せそうだ。枕へとさらに密着して乳首が擦れた瞬間、旭の身体は一度ピクンと震えて白い欲望を吐き出してしまった。  違う。今までの発情期と何かが。  朦朧とした意識の中でふと思い出した。今この身体が出しているフェロモンは、もうアラタ以外の人間には効かないのだ。αなら誰でもいい訳ではない。この身体が求めているのは、特定のただ一人。番のαだけを求めるように、全身の構造が変わってしまったのだとしたら。  噛み跡が残るうなじに手を添えると、この跡を付けた主のことで意識が占有された。  アラタの匂いが欲しい。もっと、もっと――。  旭の身体は無意識にクローゼットへと向かう。開け放つと、並んでかけられたスーツの匂いが解放されてドキリとした。  衣装ケースの引き出しの中には、きっちりと畳まれたシャツが入っている。鼻を寄せるように抱き締めると、長期間しまわれていた服独特の匂いに混じって、アラタの痕跡を感じ取ることができた。  自分から抱き締めるばかりではなく、彼の匂いに包まれたい。持っていた白いシャツを広げて羽織り、袖口に鼻を押し付ける。旭にとって彼の服は二回りほど大きくて、それがまた彼がαであることを実感させた。 「もっと……」  引き出しの中にあった黒いシャツとニットを取り出し、同じように鼻を埋める。最初の一瞬だけ特に強く匂いを嗅ぎ取れるが、それはすぐに薄れていく。  もっと長く、もっと強く彼の香りに包まれる方法はないものか。ぼんやりと引き出しごと取り出した旭は、その中身をとりあえずベッドの上にぶちまけた。続けて他の段の中身も全部ベッドに移動させる。  山のように積まれた彼の衣類の上にダイブしようとした瞬間、ふと我に返った。 「……っ、駄目だ」  このままでは彼の服を汚してしまう。理性が一度は拒否するが、心の中でもう一人の自分が囁く。  大丈夫、洗濯して元通りにしまっておけば気付かれない。  その瞬間、理性のタガが外れる音が聞こえた気がした。ボスンとベッドに転がり、うつ伏せになって彼の衣類に顔を寄せる。大量の服を集めることで、彼の匂いは確かに増幅されていた。 「あ……そうだ」  解放された空間よりも、密閉空間の方が匂いは強まるはずだ。旭はベッドの掛け布団を捲って中に潜り込むと、上に乗っていたアラタの衣類をせっせと布団の下に運び込んだ。  そのまますっぽりと布団を頭から被ってしまえば、適度な温もりとアラタの匂いに満ちた最高の繭が出来上がる。 「っ、はあ……」  自身の股間に手を伸ばすと、我慢できずに強くそこを握ってしまう。後のことを考えれば駄目なのは分かっているが、一回だけと自分で自分に言い訳をした。  コシコシと激しく手を上下させれば、先端から溢れる透明な液体がその手を濡らした。 「あら、た……っ」  旭の頭の中には、あの部屋で彼と過ごした思い出が蘇っている。抱き合い、彼の大きな手でそこを扱かれた感触――匂いが引き金になって次々と記憶が喚起されていた。  自分でそこを擦りながら、この手がアラタのものだったら……と想像する。  長い指と大きな掌に、絡まれて、覆われる。ぎこちない彼の動きは少しもどかしくて、中途半端な快楽に身悶えてしまう。彼はそんな旭の様子をじっと観察しながら、その手の力を徐々に強めていくだろう。 「……、アラタ、もっ、と」  彼の身体にしがみつく代わりに、そばにあった彼の服の塊を抱き締める。  妄想の中のアラタは、それを合図に扱く力を強めた。チュク、チュク、と水音が響くたびに腰が揺れそうになるのを、彼にしがみつくことで何とか堪える。しかしそのリズムが早まっていくと、もう何も我慢できなくなっていった。 「は、ぁ……、っあ、ぁん」  薄い喘ぎ声を漏らしながら、手の動きに合わせて腰を振ってしまう。グチュグチュと鳴る卑猥な音に混ざって、熱のこもった低い声が「旭」と呼んだような気がした。 「っ……!」  その瞬間、旭のそこは勢いよく快楽の証を放出していた。  こんな発情期、俺は知らない。  肩で大きく息をしながら、ぼんやりと気持ちを落ち付けようとする。しかし発情期の只中では、波が引くまで何度も勝手に身体が昂ぶってしまう。  そろりと後ろの孔に触れてみると、そこはぬめった愛液で潤っていた。  そういえば、晴海さんが買ってきてくれた中に……。  布団からモゾモゾと這い出た旭は、アラタのシャツを一枚羽織っただけの格好で部屋の隅へ移動する。そして彼女にもらった袋の中から一つの箱を取り出した。  ヒート対策セットという商品名の下に、火照った顔で辛そうにしているΩのイラスト。しかしパッケージの中身は見えず、具体的な商品内容は裏面にしか記載されていない。箱を開けると、そこには抑制剤や避妊具、そして自慰用の玩具が入っている。  こんなのが薬局にも売ってるんだな……。  旭は感心しながら、男性器型のものを取り出した。睾丸まで作られている本体からはコードが伸びており、その先にボタンが付いている。バイブレーター機能のオンオフや強弱は分かるが、一つだけ用途不明のボタンがあった。  早く巣に戻りたいのを我慢して、ぼんやり説明書を読んでみる。 「Ωの繁殖願望を満たす……な、中出し機能付き?」  箱の中を探ると専用のローションが出てきた。説明書によると、睾丸を模した部分がタンクになっていて、このローションを入れておくらしい。ボタンを押せば水鉄砲の要領で先端からローションが出る仕組みだ。  だ、誰がこんな変態機能……。  無視して普通のバイブとして使おうとしたが、Ωの本能はローションから目を離せない。  い、一回だけ、試すだけなら……。  誰にともなく心の中で言い訳をしながらローションをタンクに詰め、少し重くなったバイブを持ってコソコソとベッドに潜り込んだ。  布団でできたドームの中はアラタの匂いで一杯で、旭の理性を簡単に崩していく。彼の衣類に顔を埋めていれば、旭の前はまた自然と勃ってきた。  そろそろバイブを入れようかと顔を動かした瞬間、自分が今まで顔を突っ込んでいたところを見て赤くなる。そこにあったのはアラタの下着だったからだ。  しかしそんな羞恥心は、すぐに劣情で押し流されてしまう。下着の股間部分を撫でながら、かつて彼のそこに触れた時の記憶を再生した。  熱くて、固くて、大きくて……下の玉に触ると重量感があって……。  内股をもじもじと擦り合わせた中心で、旭のモノはどんどん角度を上向けていく。朦朧とする意識の中、旭は持っていたバイブを彼の下着の中に入れてみた。シリコン製のバイブは、布に包まれると本物の男性器のようだ。  あいつの本物と比べるとちょっと小さいな……。  心の中で文句を言いつつ、下着越しに竿を撫でる。そこに顔を寄せてチュっとキスをし、下着ごと竿を唇ではむはむと刺激してみた。  あいつにこんなことしてやったら、はみ出すくらいデカくなってくのに。  大きさの変わらない張り型を、布の上から懸命に舌で舐める。これが本物なら、旭の唾液だけでなく彼のカウパーで濡れるはずだが、今はそれもない。  そこでふと思い立って、バイブに繋がったコントローラを手に取る。そして中出し発射用のボタンを短く押してみると、先端付近の下着がジワっと濃い色になった。  たまらなくなって湿った先っぽにキスをしてから、手早くバイブを下着から取り出す。ローションを漏らしてぬめったその切っ先を、大きく開いた両脚の間へ。  早く、早く、アラタ――。  目を閉じて想像する。彼はどんな風に自分の中に入ってくるのだろう。  ここから先は未体験。こんな風に離れ離れになってしまうなら、監視カメラなど気にせずあの部屋で彼と最後まで経験しておけば良かったかもしれない――僅かに過ぎったそんな考えを押し潰すように、手の中のバイブをズプリと自分の中へ挿入した。  初めての彼は、きっと恐る恐る慎重に入り込んでくる。それでも中途半端なことはせず、大きなモノの根元までしっかり押し込んでくるだろう。  想像に合わせてバイブをゆっくり挿入していくと、その睾丸部分が双丘にぶつかる。ローションを蓄えたそこの重みでアラタのモノを思い起こし、身体の奥が熱く疼いた。  コードを手繰ってコントローラを握り、バイブのスイッチを入れる。弱々しい振動と小さな動きが、旭の濡れた内壁を擦り出した。 「……ん、ぅ」  アラタも最初はこんな風に遠慮がちに動き始めるのだろうか。そう思うともどかしいこの刺激が何だか愛おしく感じてしまった。  もっと、強くしていいから――。  そうやって許可を与えてやれば、彼の動きも変わるだろうか。右手でバイブの根元を掴み、抜き差ししようとしたその時。 「ひぁ、あぁ……、んぁ」  旭の中でバイブが激しくウネウネと動き出した。左手に持っていたコントローラで、間違って強度を最大にしてしまったらしい。 「ぁ、あ……ん、や……待、っぁ」  強すぎる快感によって、全身からくったりと力が抜けてしまう。くぐもった静かなモーター音に反してその動きは凶暴なまでに激しく、グチュグチュと旭の中をかき回す。  アラタも「待て」を解除したら急にこうなるかもしれない。これまでも彼の強引な動きに翻弄されることは多々あった。と言うか、いつもそうだった気がする。 「ん、あら、た……っ、ぁ」  予想もつかないところをグリ、グリ、と押され、そのたびにΩの内部は愛液で溢れていく。バイブによってヌチャヌチャと撹拌される音が何よりの証拠だ。  こんなにびしょ濡れにしていたらアラタにも気付かれてしまう。彼はどうせ真面目くさった顔で逐一報告してくるのだ。「旭、濡れている」と。  どうせバレてしまうなら、気持ちいいのを隠す必要もない。旭の中でまた一枚、理性の壁が剥がれた。 「っは、ぁ……ん、もっと、……っ」  快感に慣れたのか、両手に力が戻ってきた。コントローラに添えていた左手でアラタの服をかき集め、右手でバイブを浅く抜き差しする。  しかしもちろんその程度では我慢できなくなり、バイブのピストンをどんどん深く早くしていく。アラタががむしゃらに突いてくれるのを想像しながら。 「ぁ、らた……あらたぁ」  頭の中は番のことで一杯になり、それが溢れて彼を呼ぶ声になる。それに応えて「旭」と呼んでくれる声は、鼓膜を介さず頭の中だけで再生された。  彼の衣類を左腕で強く強く抱き締めたその時、旭の中で暴れていたモノが動きを止め、代わりに先端からビューッと何かが注ぎ込まれた。 「ふ、ぁ……っ、ん、ん……」  予想外の刺激に全身がぞくりと震え、旭の屹立も勢いよく白濁を飛ばしていた。  何が起きたのか分からない。放心状態で自分の中にあったものを引き抜くと、後を追うようにしてドロリと何かが流れ出た。服を抱き締めていた左手からは、ポロリとコントローラがずり落ちる。 「あ……忘れてた」  このバイブに備わった中出し機能――おそらく服と一緒にコントローラ全体を握り締め、その発射ボタン等も全部押していたようだ。  後孔から流れ落ちる液体を人差し指で掬って見てみると、それは少し泡立った白色のローションだった。そのリアルな生々しさに、忘れていた羞恥心が蘇る。  あー、もう! 俺のヘンタイ!  薄暗い布団の中でモソモソと自分の周りを見ると、目に飛び込んできたのはまさに大惨事と言っても過言ではない。  抱き締められすぎてぐしゃぐしゃになった服の塊。旭の唾液とローションで湿った彼の下着。旭の精子が飛び散った彼のシャツ。ローションまみれのバイブは、シーツも何もかもを汚している。  発情期で理性を失っていたとは言え、かなり変態じみたことをしてしまった。自分を責めながらも、本能がまた勝手に彼の服をかき集めて抱き締めてしまう。  ああ、クソ。こんな姿アラタに見られたら、恥ずかしすぎて死ぬかもしれない。でも……全部見られてもいいから、今すぐあのドアを開けて帰ってきてくれたらいいのに。  布団の中からチラリと外を覗き見るが、当然そこには誰もいない。落胆と共に、また薄暗い巣の中に引きこもる。  恋しさに身を焦がすようなこんな発情期、そう何度も繰り返していたら耐えられないだろう。番のαに捨てられたΩには精神的に大きな負担がかかるらしい――その言葉の意味を今まさに実感している。  勝手に番の契約なんかしといて俺を一人にしたままなんて許さないからな。  大好きな匂いだけに包まれながら、旭は身を丸めて彼の帰りを願った。 *** 「……さひ、あさひ」  どこかから名前を呼ぶ声がする。ずっと聞きたいと思っていた声で。  ゆっくり目を開けると、会いたかった人がそこにいた。ベッドの脇に立って、こちらを覗き込んでいる。これは夢か幻かもしれない。彼が今にも蜃気楼のように消えてしまう気がして、跳ね起きて彼の腰に抱き着いた。匂い、温もり、気配――全部が本物だ。必死にかき集めた彼の抜け殻とは違う。  もっと近くで彼の顔を見たい、キスがしたい。縋るように見上げても、彼は無表情のまま少し困惑した空気を漂わせた。やっと会えたのに、なぜ彼はこんなにも冷静なのだろう。何かが変だ。 「旭、伯父さんが来ている」  その言葉で甘ったるい思考がフリーズした。なぜ伯父がいるのか、ここはどこで、今日は何日なのか。床に置かれた作業中のボストンバッグを見て、急に意識が覚醒した。さらに床から少し視線を上げれば、苦笑いでこちらを見ている伯父の姿が。 「あ、ちが、これは……!」  抱き着いていたアラタの身体をドンッと押して突き放そうとする。が、彼の身体はびくともせず、旭は慌てて彼から身を離した。 「まあ元気そうでよかったよ」  赤い顔でベッドに座り込む旭を、俊輔は優しい顔で見つめた。 「心配かけてごめん。あんまり連絡してなくて」  本当は年末にしっかりアラタと二人で会いに行く予定だったのに、突然の発情期のため「取り込み中」と連絡しただけだった。 「いいんだよ、二人ともまだ大変だろうしね。ほら、世間は製薬会社の不祥事とテロの首謀者の話題で随分騒ぎになってるから……旭はニュースを見ないから知らないだろうけど」 「あ、その、俺ちょっとはニュース見られるようになってる」  クリスマスの街頭で、アラタの無事を確認するために思わず見たニュース画面。あれがきっかけで、旭の中にあるニュースや新聞への恐怖心は嘘のように和らぎ始めていた。  俊輔は信じられないというように目を見開いてから、瞼を閉じて「そうか」と大きく頷いた。 「ところで、荷物を持っていく準備は?」  彼の視線は、床で大きく口を開いたボストンバッグへと向いている。それは明らかに作業中だ。 「だからさっさとやれって言っておいたのに」 「旭が手伝ってくれていればもっと早く終わった」  言い争いを始める二人を尻目に、俊輔は車を駐車場に停めると言って一度出ていった。  ベッドから降りてバッグを覗き込むと、中には少しの服しか入っていない。その代わり、周りには何枚もの服が積み重なっている。 「こっちがこの家に置いておくもの、こっちがこれから仕分けるもの」  彼が後から指差した方が明らかに高い山だ。 「あー、もう、なんで二時間でこれだけしか終わってないんだよ。この家で着るか、向こうの家で着るか、ぱっぱと仕分けしてくだけだろ」  屈んで服を一枚摘み上げたその時。 「……旭を見ていた」  降ってきた言葉にぎょっとして顔を上げた。アラタはいたって真面目な顔で淡々と言葉を紡ぐ。 「いつもあのベッドで一人、旭のことを考えていた。それなのに、今は本物の旭があのベッドに寝ている……それが不思議な感じだった」 「そ、そんなんで二時間も無駄にするわけないだろ」 「俺はする」  彼の大きな手が伸びてきて肩を掴み、そのまま顔を寄せられる。思わず目を閉じると、唇に柔らかな感触。躊躇いなく深く口づけられて、そのまま舌が入ってきた。 「ん、んむ……」  口腔内を彼の舌が丁寧に撫でていき、旭の身体から力が抜けていく。その隙に彼は旭の身体を押すようにしてベッドへもつれ込んだ。  仰向けに押し倒されたかと思うと、彼の唇はゆっくりと離れていく。 「こら、何考えて……っ」 「空想の中ではこのベッドで何度も旭とセックスしたのに、現実では一度もしていないな、と考えている」  まるで何でもないことのようにそう言うと、彼は旭の身体を包むように覆いかぶさってきた。  彼の匂いと温もりに満たされて、あの日このベッドで作った巣のことを思い出す。しかし今のこの状態こそ、旭が本当に欲しかった居場所だ。どんな巣よりも、こうして彼と抱き合っている方が居心地がいい。  彼は至近距離で旭をじっと見つめたまま、これ以上何もしてこない。旭からの「待て」が「よし」に代わるのを忠犬のように待っている。  ついつい抱き締め返して彼の願望を受け入れてしまいそうになった時、彼がふと呟いた。 「旭はこのベッドで発情期を二回経験しているはずだ。どんな風に過ごしたのか、興味がある」  その一言で、ムードに流されかけていた気持ちにストップがかかる。それだけは絶対に教えられない。 「はいはい、これ以上は駄目! 伯父さん戻ってくるから!」  伯父の存在を思い出させてやると、さすがのアラタもそれはまずいと理解したようだ。渋々身体を離した彼は、旭の手を引いてボストンバッグの前へと戻った。  置いていく、持っていく、持っていく――旭の見せた服をアラタが仕分ける。 「あれ? 下着はいいのか?」  クローゼットに取り残された引き出しを見てふと疑問を口にする。 「そのままでいい」 「ふーん、ていうかこの部屋随分たくさん下着が残ってるんだな」  研究所に来た時、確か彼はスーツやシャツに加えて下着はきちんと持ち込んできた。それなのに、この部屋には忘れられたパジャマと共に大量の下着が残っている。 「研究所に行く時は、全部新品の下着を用意したから」 「初体験前の処女かよ」 「いや、初体験前の童貞だ」  彼の訂正は聞かなかったことにして、服の仕分け作業に戻る。  と、その途中でアラタの手が止まった。彼が持っているのは白いシャツ。発情期中に旭が勝手に羽織っていたアレだ。彼は手の中にあるシャツを顔の前へと持っていき、警察犬のように臭いを嗅いでいるようだ。 「旭の匂いがする」  彼の一言でびくっと肩が跳ねた。 「は? 洗濯したのに――」  しまった。口を閉じるが時既に遅く、アラタはじっと疑惑の目を向けてきた。 「洗濯……。どこに何があるかひと通り見たというさっきの証言とは随分違う気がする」 「クソ、お前今カマかけただろ」 「? 本当のことしか言っていない。旭の……発情期の時と同じ甘い匂いがする」  腐ってもαだ。いつもぼんやりと鈍いように見えて、この男はしっかり頭が回るし、旭のこととなるとさらに敏感なセンサーを備えている。 「一昨日まで発情期でずっとくっ付いてたから鼻がバカになってんじゃねーの」  この窮地を抜け出すため必死でごまかそうとするが、アラタは無慈悲に首を振った。 「鼻はそうでも、耳はおかしくなっていない。さっきの『洗濯』という言葉について詳しく説明を要求する」 「拒否だ。黙秘する」  あんなことをしていたなんて知られたらどうなるだろう。考えるだけで穴を掘って埋まってしまいたくなる。  次の発情期が来ても絶対にバレないようにしなければ。旭は心にそう誓うが、おめでたい話によって、翌月の発情期はしばらく先まで持ち越しとなるのだった。 ---- 夏頃に予約を受け付けていた同人誌版が発行されました。予約分とは別途通常在庫もありますので、ご興味のある方はTwitterやブログへどうぞ。

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