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番外編: Once Upon a Time

 晴海花恵が一条瞳子と出会ったのは十六歳の時だった。まだ高校生だった花恵の元にやって来た大学生の家庭教師。彼女はあの頃から変わり者だった。  そんな彼女に最も驚かされたのが、出会って八年経ったある日のこと。先輩弁護士である瞳子を家に呼んだら、彼女は突拍子も無いことをケロリと言ったのだ。 「さ、産休?」 「そう、そろそろ独立して個人の事務所持ちたいんだけど、そっち始めたらもう休む暇なんてないでしょ? だから今この隙を使おうと思って」 「でも、結婚もしてないのに……?」  彼女とは単なる先輩後輩という以上の友人だと思っていたが、彼女の方から恋愛に関する話は聞いたことがない。話題になったのはせいぜい、ヒモ希望のβの男に言い寄られたという愚痴だけだ。 「子供産むのに結婚する必要はないでしょ」 「でも、相手は必要でしょう?」 「見つけたの。すごい『相手』をね」  花恵が出したコーヒーを、彼女は遠慮せずにズズーッと飲んだ。その口元はご機嫌に緩んでいる。つまり、何かおかしなことを企んでいるというわけだ。 「あまり、いい予感がしないんだけど……」 「まあ聞きなさいって。先週、高校時代の友達の結婚式に呼ばれて行ってきた訳。あの頃から変人でキモい男だったんだけどさあ」 「それ本当に友達なの?」 「結婚式に呼ばれるくらいなんだから友達でしょ。それでね、そいつに面白い話を聞いたの」  彼女の目は「聞きたい?」と三日月型に細められている。 「なんと、マンモスの冷凍保存よろしく、昔のヒトの卵子がたくさん冷凍保存されてる場所があるんだって」 「まさか、瞳子さんの『相手』って……」 「超古代人の卵子〜」  まるで秘密道具を取り出すロボットのようにそう言いながら、彼女はコーヒーカップを高く掲げた。 「体外受精した卵子を私のお腹に入れまーす」 「や、やめよう?」 「やだ」 「何が生まれるか分かったもんじゃない」 「少なくとも人間が生まれるって聞いたもんね。正直ほとんど今のβ女性と変わんないんだってさ」 「変わらないなら普通のβの卵子を使えばいいでしょう?」  優しく諭そうとするが、瞳子は「あー」と言いながら耳を塞いだ。 「唯一違うのは! ABOの型がどうなるか分かんないの! 下手したらどの型でもなくなるかもしれないの! 楽しいと思わない?」 「楽しいって……」 「αだのΩだのっていう制約を取っ払える可能性があるんだよ? もしかしたら、新しくγとか創り出しちゃうかもっ」  ウキウキする彼女をこれ以上止める気にはならなかった。長い付き合いを経て、こうなってしまえばもう止めても無駄だと分かっているからだ。  この悪魔のような女の遺伝子を継ぐ子供が、果たしてどんな存在になるのか。悪魔になるにせよ、天使になるにせよ、一筋縄ではいかない変人になる予感しかしなかった。 ***  翌年のゴールデンウィーク、瞳子は予定通り出産した。司法修習で忙しくしていた花恵が彼女に会いに行けたのは、産後二ヶ月経ってからのことだ。 「大変だったでしょ? 瞳子さんのことだから、『めんどくさ〜い』って育児放棄してるんじゃないかと心配しちゃった」  ベビーベッドの中を覗き込むと、小さな赤ちゃんが寝ていた。スヤスヤというより、グースカという表現の方が相応しいほど、本当によく眠っている。 「え? そんな大変じゃなかったよ? 言われてるほど泣いたりしないんだよね、この子」 「あ、この子、名前は?」 「アラタ。新しいって字を書いてアラタ。この子こそ、私が生み出した新人類!」 「はいはい」  瞳子が大きな声を出しても赤ん坊は起きる気配がなく、テーブルに移動して彼女が出してくれたお茶を飲むことにした。 「お腹空いた時と、オムツ変えて欲しい時はきっちり泣いて知らせてくるんだけど、それ以外では全然泣かないから助かるよ」 「体調が悪くて元気がないとかじゃなくて?」 「いや、もうバリバリ健康体。私が何度も話しかけてんのにね、なんかじとーっと冷めた目で見てくんの。目つき悪いですねってお医者さんも笑ってたんだから」  それは少し見てみたいと思ったが、あいにく彼はぐっすりと眠っている。 「じゃあ今度起きてる時にまた来ようかな」 「うん、来て。仕事も休んでると意外と孤独だなーって思ってたところだから……」  さっきはあっけらかんとしていたくせに、今の彼女にはやはり少しの疲れが見えた。 「そもそも、この子の秘密知ってるの、冷凍卵子くれたあいつと花恵だけだからね」 「他の人には言ってないんだ?」 「言ってないよ。だって私のこんな馬鹿なことに呆れながらついて来てくれるの、花恵しかいないもんね」  瞳子がニシシと歯を見せて苦笑する。どうやら自分が変人の自覚はあるようだ。 「あ、でも来年から花恵も弁護士になったら忙しいか」 「そうかも。まだなれると決まったわけじゃないけど」  そこで、瞳子は少し何かを考えるように一呼吸置いた。 「あのさ、この子がもう少し大きくなったら、自分の事務所立ち上げようと思うんだよね。そん時、花恵もくる?」  いつも自信満々の彼女の声が、ほんの少し小さくなっている。突飛なことばかり言う彼女が、たまに見せる人間らしさ。 「じゃあ、お邪魔しようかな」  誘いに応じれば、彼女はパッといつも通りの笑顔になった。  それからしばらく雑談をして帰る間際、ふとベビーベッドを見ると新が起きていた。 「あれ、起きたの?」  母親にそう言われた彼が、聞いていた通り不機嫌そうな目を彼女に向ける。思わず笑ったら、新と瞳子の両方から睨まれてしまった。 ***  およそ四年後。瞳子の弁護士事務所のドアを開けた花恵は、応接用ソファの上でちょこんと座る新を見つけた。 「あれ? 瞳子さんは?」  ソファの前で屈んで新に視点を合わせる。 「お腹痛いって、トイレ」 「そっか」  彼女に確認したいことがあったのだが、少し待たなければならないようだ。とりあえずデスクに向かおうとした花恵は、新が持っている絵本に目を止めた。彼は膝の上に乗せたその本の表紙をじいっと見つめている。 「その絵本は? 新しく買ってもらったの?」  彼はコクリと頷いた。少しだけなら、と彼の隣に座った花恵は、彼の膝の上の絵本を開いた。 「じゃあ、瞳子さんがトイレから戻ってくるまでね。  ……とある森の中に、狼の群れが住んでいました。  狼たちは、安全な縄張りを探して旅をしています。  とても足の速い狼の中に、一匹だけ足の遅い真っ黒な狼がいました。  ノシノシとゆっくり歩いていた黒い狼は、いつの間にか群れからはぐれてしまいました。  一人でも、きっといい住処を見つけられるんだ。  黒い狼は一人で旅を続けます。何日も。何年も。  でも本当にそんな場所が見つかるんだろうか。  黒い狼が不安に押し潰されそうになっていたある日、一匹の兎がやって来ました。  一匹狼さん、そんなところでどうしたの?  兎は首を傾げました。  行きたいところがあるんだけど、本当にこの道で合ってるのか分からなくなったんだ。  じゃあ、ぼくが先に行って見てくるから、ついて来てよ。  兎はそう言って軽やかに跳ねて行き……」  トイレのドアが開く音で、花恵は朗読を止めた。 「あ、花恵戻ってきてたんだ」  瞳子は花恵と新の覗き込んでいた本をチラリと見た。 「その本、昨日の夜も読んであげたじゃない」 「あれ? 新しく買ってもらった本だって――」 「この前の土曜日に買ってもらった。まだ新しい」  新はしれっとそう言うと、閉じた絵本を両手で抱え込んだ。 「あんたその話がそんなに気に入ったの? じゃあ、さっきの続きをダイジェストで朗読してあげよっか? その後、先に行った兎が悪い狼に捕まって、主役狼が兎を助けてから、二人はお花畑に行きました。めでたしめでたし」  四歳の少年は、眉間にぎゅーっと皺を寄せて母親を睨むと、トイレにバタンと閉じこもった。 「ダイジェストは駄目だった?」  瞳子に尋ねられ、花恵は小さく肩を竦めた。 「そういえば新君、幼稚園はどう?」 「あー、あんまり話さないけど、普通に集団生活してるって。なんか、本当に普通の子なんだよね。ちょっと仏頂面だけど」 「……つまらない?」  恐る恐る聞くと、瞳子は「まさか」と笑った。 「あの子は面白いよ。何気に入るか分かんないし。あの絵本と、あとお子様ランチがやたら好きなの。変だよね」  閉じられたトイレのドアを見ながら、瞳子が眩しそうな顔をする。見たことのない、母親の顔だ。 「たとえあの子がαだのβだのΩだの分かっても、あの子はきっと不機嫌そうな顔して、そんなの無視するんだろうなって……何となくそんな気がする」 「出生の秘密について、あの子には言わないの?」 「言ったらあの子、それに引き摺られるかもしれないじゃない。自分は人と違うんだって、それを知ること自体があの子に影響するのは嫌……かな」  自由な彼女は、いつもニュートラルな状態を好む。可能な限り手を加えずに、息子が自力で行く道を見るのが楽しいのだろう。親としてそれが正しいのかは分からないが。 「あ、でも……あの子が立派になって、なりたい自分になれたと思った時、最後に種明かしするのは面白いかもね」  晴れ晴れした顔でそう言った瞳子は、急にウッと顔を顰めた。 「また、お腹痛い……。花恵、古いプリンは捨ててって言ったのに……」  呻きながらトイレに向かった彼女は、中にいる息子に向かって「ここのトイレは鍵かけてても外から十円玉で開けられるんだよ」と笑った。 ***  十月の秋の風には、僅かに冬の気配が混じっている。高く青い空に、細い巻雲が美しく流れていた。  バスを降りて山をせっせと登った先に、その墓地はあった。およそ四十年という時間を共に過ごした友人は、二年前からそこに眠っている。  一条の名前が付いた墓標を前に、花恵は心の中だけで「久しぶり」と声をかけた。  彼女のことだから、本当はこんな狭い墓になど閉じ込めず、海にでも散骨してあげた方が良かったのかもしれない。しかし、彼女が亡くなった当時は息子の新もバタバタしており、花恵は無難な方法しか選ぶことができなかったのだ。  ねえ、信じられる? あの一条君……新君が、先月パパになったなんて。  もし瞳子が生きていたなら、何というだろうか。  あいつに父親なんてできると思う?  彼女のセリフはすぐに思い浮かんだ。 「うわ、晴海さんもう来てる」  その声に振り返れば、陽の光を浴びてキラキラと薄茶の髪を輝かせた青年が立っていた。篠原……一条旭。あの新が見付けて、手に入れた幸せ。 「ほら、チンタラしてないで早く! 晴海さんに墓の掃除させてどうすんだよ」  美しい外見に反して、彼は自分の背後に向かってそう怒鳴った。 「あー、晴海さんすみません。ちょっと子供がグズって出るのが遅くなったのと、相変わらずアラタがノロノロしてて……」 「いいの。私も今来たばっかりだから」  オロオロする旭にそう言うと、彼はホッと息を吐いた。 「それより、まだ未来君一ヶ月ちょっとでしょ? 見てなくて大丈夫?」 「あ、車の中で今は伯父が見ててくれてるので……すぐ戻んないといけないんですけど」  そこでやっと旭の向こうに新の姿が見えた。 「遅い! ほら、お花」  新の持っていた花を回収した旭は、テキパキとそれを墓前に飾る。母の墓を前にした新は相変わらずの無表情で、何を思っているのか分からなかった。 「一条君、父親になった感想、瞳子さんに伝えたら?」 「……我ながら上手くやっていると思う」 「ミルク作るのだけは完璧にさせたけど、他はそうでもないだろ」  新の自己申告は、旭によってあっさりと否定されてしまった。 「この前なんて、未来がお子様ランチ食べられるようになったら、ファミレスで注文して自分が食べるとか言い出すし」 「いいアイデアだと思ったんだが」 「どこが!」  彼らのやり取りを見ていたら、いつも瞳子のおかしな発言に振り回されていたことを思い出してしまった。  瞳子さん、新君はやっぱりあなたの好奇心が作った新人類なんだって。ねえ、今なら彼の出自について種明かしをしてもいいと思う? 「んー、いいんじゃないの? 花恵が好きに決めてよ」  耳の中で、彼女の声がやけにリアルに再生された。

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