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番外編: あなたの過去についての話
四季のない地下室から解放されて、初めて迎える夏。木々に囲まれた旭の自宅は、蝉の合唱に包まれていた。
「うー、夏ってこんなに暑かったっけ」
旭はリビングのソファで横になりながらぼやく。子供の頃と比べれば、確かに地球は温暖化しているかもしれない。しかし、暑さを増している原因は別のところにもあるだろう。
旭はぽっこりと大きくなった自分の腹を見下ろした。出産予定まであと一か月になるそこは、まるで自分の身体ではないような気がする。実際自分の身体ではないものがこの中に入っているのだが、まるで実感がなかった。
「旭?」
リビングの入り口からアラタの声が聞こえ、ゆっくりと身体を起こす。
「庭の掃除は?」
「終わった。体調が悪いのか?」
「いや、単にクソ暑い」
Ωはその皮膚も臓器も柔軟にできているようで、胃の圧迫による吐き気や、膀胱の圧迫による頻尿などもなく、お腹が突っ張るような感覚もあまりない。産科の待合室で話す女性たちからは、いつも羨ましがられている。
旭がピピッとエアコンの設定温度を下げると、アラタから思わぬ話が飛び出した。
「そういえば、来週の週末は大学時代の友人に会いに行くんだが――」
「友達!? お前に?」
「何かおかしいか?」
「いや、だって……」
口篭もる旭を見て、アラタが首を傾げる。「お前なんてどうせぼっちだと思ってた」などと言ってしまうのはかわいそうな気がして、婉曲な表現を探した。
「そんな話一度も聞いてなかった」
「旭が何も聞いてこないから」
「べ、別に、キョーミないからな」
ついついそんな強がりを言いながら、旭はゴロンとソファに倒れた。
「俺は旭のことなら何でも興味がある」
「お前な、だからって俊輔伯父さんに何でもかんでも聞きまくるのやめろよ」
「好きな人の過去が気になるのは当たり前だと思う」
そんなことは旭にもよく分かっていた。本音を言えば、旭もアラタの過去が気になる。生まれてきた時からこんな調子だったようなイメージがあるが、彼にも幼い子供だった時期があり、学生時代もあるのだ。
しかし、旭には高校生活も大学生活もなかった。アラタの学生時代の話を聞いたところで、劣等感や嫉妬を刺激されることは分かりきっている。
それに、旭が好きになったのは今のアラタだ。過去のことをわざわざ根掘り葉掘り聞くのは、何か違う気がした。
そんなわけで、聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが、天秤でゆらゆらと均衡を保って今に至る。
「とにかく、その友達? 何でこんな時に会いに来るんだ?」
気持ちを切り替えて話を進めると、アラタは一人がけのソファに座った。
「夏休みでちょうど日本に帰国しているらしい。月末にはもうアメリカに戻るそうだ」
「この時期まで夏休みってまだ学生? ていうかアメリカ人?」
「いや、俺と一緒に弁護士になった同級生だ。今はアメリカに留学しているだけで、おそらく日本人だ……と思う。名前や顔立ちからして多分」
「友達なのに何だそれ」
思わず笑みが零れる。友達がいると聞いて意外だったが、アラタの反応にはやはり彼らしさがあった。
「旭のことで相談に乗ってもらったこともあるから、一度紹介しておこうかと」
「紹介って、誰を?」
その問いに、アラタは旭をじっと見つめた。
「え、もしかして俺も行くの?」
「人の視線が気になるなら、無理にとは言わないが」
行きたい、行きたくない――旭の心が右へ左へ揺れる。その時ふと俯いたアラタがどこか寂しそうで、旭は思わず口を開いた。
「い、行くよ。行けばいーんだろ」
旭のその一言で、アラタは見えない尻尾をブンブン振った。
***
妊娠して明らかにお腹が大きくなり始めてから、旭は外出が憂鬱になった。街中を歩いている時、身長百七十を越える旭がΩだと気付かれることは通常ほとんどない。しかしこの腹では、全力で自分がΩであると自己紹介してしまっている。
歩いていて感じるのは、とにかく視線だ。
元から人目を引く見た目ではあったため、妊娠前にも視線は感じていた。しかし、今はそこに込められた感情がもっと複雑化している。
まず、人口の1%しかいない男Ωの、それも妊娠後期という状態に対する純粋な好奇の視線。人口の50%を占める女性の妊娠姿と比べたら、それは確かに珍しいだろう。声を潜めて「初めて見た」と会話するのが聞こえたこともある。
しかしそれだけならまだいい。問題はその後だ。彼らの視線は冷ややかにこう語る――それはどうやって作った子供なのか、と。
彼らにとってΩとは、発情フェロモンでαの自由意思を奪い、その種を無理矢理手に入れようとする獣だ。ヒトが築き上げてきた理性的社会の秩序を揺るがす敵だ。Ωが差別される根源が、まさにその「発情」という一点にある。
事実、自身の発情の力で意中のαの種を強引に獲得し、認知を迫ったり自己満足したりするΩはいるらしい。旭もそれらの行為を肯定はしないのに、Ωというだけで一括りに疑われるのは心外だった。
これは大事な人と合意の上でできた子供だ。自分自身ではそう分かっているのに、周りには分かってもらえないのがもどかしい。だからと言って、すれ違う人一人一人に釈明などできるはずもない。旭自身、以前はαを一括りにして嫌っていたのだから、他人に何か言える立場でもなかった。
結局向けられた視線に無言で耐え続けるしかなく、旭はいつも視線から逃れるように道の隅を歩いた。
そして今も、電車の最後尾車両の角にひっそりと立っている。堂々と優先席へ行く勇気などなかった。
こんな惨めな姿をアラタに見られるのも嫌で、最近彼と一緒に外出することもめっきりなくなっている。病院に一緒に行くという申し出も断ってばかりだ。
この後彼と合流して彼の友人に会いに行くわけだが、その道中が今から心配で仕方がなかった。
電車を降りて駅の改札を出ると、流れる人々の向こうに待ち合わせの人物の頭が見えた。背が高いとこういう時に便利だ。
彼は旭に気が付くと、いつも通りの仏頂面で近付いてきた。変に威圧感があるのか、人混みが彼に道を譲っていく。その様に旭は思わず苦笑した。
「アラタの方が早かったんだな」
「晴海さんが早めに開放してくれた」
仕事帰りのアラタは、長袖の白いワイシャツと黒のスラックスという格好だが、真夏にも関わらず汗一つかいていない。
彼は旭の右手を取って、有無を言わせずそのまま歩き出した。
「あ……」
繋がれた手に赤くなっていると、僅かに前を歩くアラタが視線を寄越す。
「旭?」
「な、何でもない」
慌てて首を振ると、アラタに怪訝な顔をされてしまった。
「タクシーは使わなかったのか?」
「いや、さすがに遠いし、渋滞で遅れるかもしれないし」
「俺が一緒についていられればよかったんだが」
「晴海さんに呼ばれてたんだろ。仕方ないって」
旭の言葉に、アラタは手をギュッと握って応えた。
いつも旭の後ろをくっ付いて歩く彼が、今は手を引いて旭の前を歩いている。そのお陰で人混みの中でも随分歩きやすい。それに、電車の中で向けられていた嫌な視線も、今は不思議なほど消えている。アラタが視線の盾になっているのだろうか。
前を歩く大きな背中に、旭は心の中でそっと感謝した。
アラタの友人と会うことになっているのは、名前を言えば誰でも知っているような高級ホテルだ。高層ビルが並ぶ複合施設内を歩きながら、旭は前を行くアラタに尋ねた。
「なあ、お前の友達ってどんな人?」
「……とにかくうるさい。お喋りな男だ」
アラタとは正反対の、明るくて社交的な人物が頭に思い浮かぶ。しかし、果たしてそんな聖人がこの変人と友達になってくれるだろうか――旭のそんな疑問は、ホテルに辿り着いてすぐに解消されることになる。
ガラス張りのロビーは、モダンな雰囲気でとにかく広い。どこへ行くのかと旭が心配しかけた時、入り口付近のソファから一人の男が立ち上がった。半袖のワイシャツとグレーのスラックスを身に付けたその男は、ひらひらと手を上げて近付いてくる。
「お、一条久しぶりー」
きちんとした格好をしているのに、その茶色く染められた髪は弁護士というよりもホストのように跳ねている。旭が男を観察していると、へらりとした彼の目が、アラタの影にいた旭を捉えた。
「おおお、ナマ旭君だ! スゲー! あ、俺は國木田勇吾……って、一条からもう聞いてるよね?」
「え……と」
「ああ、旭君ももう一条なんだっけ。でも俺こいつのことずっと一条って呼んでたからさ、旭君は旭君ってことで!」
怒涛のマシンガントークに、旭は力なく「はあ」としか口を挟めない。
「うーん、本物の方がやっぱ美人! 顔ちっさ! でも思ってたより背高い!」
「片親がハーフだったので身長はそこそこ……」
「ってことは旭君はクォーターか! でも一条と並ぶとやっぱ身長差あるな」
「一応俺、Ωの平均身長より十センチは高いんですけど……」
「でも一条もαの平均身長より十センチ高いからな! 身長差縮まらず! 残念!」
そう言って彼は楽しそうに笑う。
「それにしても、こんな人形みたいな見た目なのに、このおっきなお腹は『生命!』って感じでなんか、うーん……倒錯的? あ、とりあえず上がろっか」
やっと言葉を中断した彼は、「予約したレストランは六階なんだ」と言いながら、エレベーターの方へと向かっていった。
変人の友達はやはり変人――旭はどこか納得していた。
彼が予約を取っていたのは中華レストランで、それも普通のテーブルではなく個室だった。
旭とアラタが並んで座り、アラタの向かいに國木田が腰を下ろした。
「ごめんね、妊夫さんにこんな遠くまで来てもらっちゃって。俺この後もう一つ行かないとならない用事があるからさ」
「は、はい」
「あ、敬語使わなくていいからね。めんどくさいし」
國木田はサバサバとそう言ってから、アラタに目を向ける。
「出産はいつ?」
「来月」
「男の子? 女の子?」
「男の子だそうだ」
「名前はもう決めた?」
「決めた」
「マジ? 何て?」
「ミライ」
「由来は?」
「旭が描く絵はタイトルが全部『未来』だから」
「だから旭君が生む子供もミライ? 単純! それどうせ一条が言い出したんだろ」
「そうだ」
言葉のキャッチボールというよりは、國木田が出した球をアラタがひたすらバッティングしていくような会話だった。
「あれ、旭君……ここ、どうしたの?」
ぼんやりしていたら、國木田の言葉の球が旭に向けて放られていた。彼は自分の首元をちょんちょんと指で示している。その言わんとするところを察し、旭は自分のうなじにサッと手を当てた。
「あ、これは……」
なぜか消えない番の契約時の痕跡。冬場はまだ良かったが、夏になり薄着をするようになるとやはり目立つ。今はマタニティ用に大きめのサイズの服を着ているため、襟ぐりが余計に広く開いていた。
「キスマーク? こいつにヤられたの?」
「な、ちが、これは……っ」
「番の契約の痕だ」
アラタが堂々とそう言うが、國木田は肩を竦めた。
「いやいや、うなじ噛んで歯型くらいはうっすら残るかもしれないけどさ、普通はこんないつまでも赤く残んないって。お前、酷い傷が残るほど強く噛んだんじゃないのか?」
「そこまで強くした覚えはない」
「こっちの証人にも異議がないか聞いてみようか」
國木田が旭に証言を促す。
「俺も、こんな傷痕になるほど痛かった記憶はない、かな。血も少ししか出てなかったし」
旭がモゴモゴそう言うと、國木田が意味深に笑った。
「ふーん……じゃあもしかしたら、アレかもな」
アラタと旭が揃って怪訝な顔をする。
「あれー、二人とも聞いたことない? 運命の番は、契約の時の痕が綺麗な色でくっきり残るって都市伝説中の都市伝説があるんだよ」
旭は大慌てで首元を手で隠した。
「ある意味マーキングってやつ?」
國木田がニヤリと笑いながらそう言うのと、旭がガタンと席を立ったのはほぼ同時だった。
「お、俺、ちょっとトイレに……」
「大丈夫? 顔色悪……いや、真っ赤で血色良さそう」
國木田がケタケタと笑う中、旭は足早に歩き出す。その途中にも、既にテーブルの二人は会話を始めた。
「仕事は今どうしてんの?」
「母の知り合いの事務所で手伝いをしながら、事務所の独立開業について勉強中だ」
「本格的に戻んないの?」
「まだ忙しい」
「旭君の出産のこと?」
「もちろんそれが一番だが、他にも色々と」
「ああ、初公判の準備とかあるもんな。裁判には被害者としてなんか参加すんの?」
「いや、俺も旭も被害者名は匿名にしてもらうつもりだ」
背後から聞こえていた質疑応答は、個室を離れればすぐに聞こえなくなった。
店内にあるトイレへ向かう途中、一人の女性客とすれ違う。その瞬間、先ほど聞いた話が頭を過ぎり、思わず首元を隠してしまった。もしかしたら、今まで外で感じていた視線の一部は、この契約痕へ向けられていたのかもしれない。
トイレに入ってすぐ、洗面台の鏡をちらりと見ると、首元の赤い模様がいつもより目立っているような気がした。
***
長めのトイレから部屋に戻ってみると、そこには國木田しかいなかった。
「あれ、アラタは……」
「仕事の電話だって言ってちょっと出てったよ」
彼はそう言ってゆるく笑う。
この変人と一対一。テーブルには何やら料理が出始めているが、旭はそれどころではなかった。
「さっき一条から聞いたんだけど、あそこの下っ端研究員達のほとんどが不起訴だって? 示談成立させちゃったって聞いたよ」
来た。彼の質問攻めに旭の心が身構える。
「そう、だけど」
「でも君を監禁してたのは組織ぐるみだろ? あそこの研究員も医師も全員共犯なのに」
彼の言葉に、旭はある人を思い浮かべた。
「崎原先生――俺がお世話になった先生も、監禁を分かってて容認してたから、このままだと崎原先生まで起訴されるかもって言われて、上からの命令で逆らえなかった人達までまとめてっていうのは、どうなんだろうって迷って……」
「逆らえたんじゃない? その崎原先生だって一条と同じくらい君を想ってたなら、いくらでも内部告発できたはずじゃん?」
國木田はあっけらかんとそう言い放った。
「それはそうだけど、あの地下の空間はそういう常識の通じない場所で、俺を軟禁して、監視して、管理するのが普通になってたから……多分皆洗脳されてたようなもんで」
「うん、君も洗脳されかけてたんだね」
彼の一言に、旭は俯きかけていた顔をぱっと上げた。
「俺は、こんなのおかしいってちゃんと分かってた」
「そうかな? 俺からしたら崎原先生って酷い奴だなって思うけど、君はその先生が好きだったんだろ? 他の研究員との相対的な比較で、君から先生への評価が歪んでるように見えるよ」
國木田の表情も声もカラッと明るい。しかし彼の瞳をじっと見ていると、そこはまるで底なし沼のようにも思えた。
「ねえ、あの生活が楽だったと思ったこと、本当に一度もない? 毎日ぐうたら、言えば何でも買ってきてもらえて、健康管理はバッチリ……なーんてさ」
彼の言葉に、旭の肩が一瞬震えた。あの生活の中で「いいところ探し」をしなかったと言えば嘘になる。外に出て自活するようになってから、研究所生活と比べて不便だと感じることは確かにあった。
「あのまま一条が助けに行かなければ、君はどんどん妥協して、あそこでの監視生活を受け入れるようになってたと思うよ」
おそらくそれは正しい。「これくらいならいつものこと」――あの七年の中で、そんな風に妥協し始めることは何度もあった。
「誰も疑問を抱かないディストピアってそうやってできていくんだ。怖いよなあ」
言っている内容とは裏腹に、彼の口調はいたって軽い。旭はまるで金縛りにあったかのように彼の言葉にずっと耳を傾けていたが、きゅっと唇を噛んだ。
「俺は、あなたの方が怖い。なんとなく」
見据えた彼の瞳は、キラキラと明るく輝いているようにも、ただのガラス玉のようにも見える。どちらにせよ、その奥の感情は隠れて見えない。
「お喋りだって言われたことはあるけど、怖いって言われたのは初めてだよ」
彼は大げさに肩を落としてショックを表す。しかしここで止まったらまた彼のペースだ。旭は躊躇いを振り払ってその先を続けた。
「あなたは俺たちに色々と話題を振るけど、自分に質問が飛んでこないように、わざとずっと喋り続けてるような……気がする」
「どうしてそう思うの?」
「何となく、俺があなたをテーマに絵を描いたとしたら、きっと単純に楽しくて明るい絵にはならないだろうなって……」
しどろもどろに曖昧な答えを返すと、國木田が苦笑いを浮かべた。
「はは、すげー感覚的。さすが芸術の天才」
ずっと隙を見せなかった彼が、やっと観念したように力を抜いた気がした。
「アラタと友達になったのは、あいつが余計なこと聞いてこないから?」
「正解。ご褒美に単位をあげよう」
彼がにっかりと笑う。さっきまでと変わらない笑顔のはずなのに、今は少し彼への恐怖心が薄れていた。
「アラタは、あなたのこと本気で友達だと思ってる。話し方がいつものよそ行きモードじゃないから分かるんだ」
アラタはこの男を信頼している。では、國木田の方は? 旭がそれをどう聞こうか迷っていると、頭のいい男はぱちんと指を鳴らした。
「ああ、旭君が何を心配してるか分かった。俺が一条のこと、何も聞いてこなくて都合のいい奴として利用してると思ってるんだ」
酷い言い草だが、大体合っている。
「だって、普通あんな変な奴と友達になろうなんて思わないし」
「その変な奴と結婚した子が何言ってんの」
確かに変な奴でも、いいところがたくさんあるから結婚したのだ。しかしそんな惚気話をする場面ではない。國木田の視線が旭の左手の薬指へ向かったかと思ったら、彼はふっと笑った。
「安心して。俺もあいつのこと親友だと思ってるから」
「でも、聞かれたくないことは隠したままなんだ」
旭はムッと國木田を睨んだ。アラタの友人関係にまで口を出すのはおせっかいかもしれない。しかし、旭はこの掴みどころのない男がどうしてもまだ信じられなかった。
何秒か、あるいはもっと長い時間二人は見つめ合っていたが、先に音を上げたのは國木田の方だった。
「俺ね、大学入った時は理系だったんだ。それも医者を目指す部類」
突然始まった話に、旭は不意を突かれて相槌を打つことすらできなかった。
「でも、途中でやめた。三年になって学部が決まる時、法学部に行った。うちの大学って入学時に学部が決まってない分、そういうことができちゃうんだよね」
「なんで医者になるのやめたんだ?」
素直に疑問を表すと、國木田は大げさに首を振った。
「そう、それを聞かれるのが嫌だったんだよ。まあ一言で言うなら、医者になる必要がなくなったんだけど」
ついさっきまでコミカルな動きをしていたかと思えば、急に真面目な顔で遠くを見る。
「でも一条は何にも聞かなくて、それがまあ俺には都合良くて」
彼はそこでゆっくりと目を閉じた。嘘をついている様子も、何かを隠そうとする気配もない。リラックスして、おそらく過去を思い出している。
「最初はそんなもんだったんだけど、いつの間にか本気であいつが気に入ってたんだ。嘘なんてつかない、不器用だけど真っ直ぐで、誰よりも信頼できる奴だよ」
アラタのことを褒められると、旭の心も嬉しくなる。現金な話だが、穏やかに微笑む國木田のことを、今なら急に信じられそうな気がした。彼は確かに変人だが、生身の人間だ。アラタと同じように。
「そういう話は、俺より先にあいつにしてやってください。まあ、あいつは鈍感だから、多分あなたのことを単なるお喋りとして疑ってないんだろうけど」
「鈍感って言うより興味ないんだよ。君のこと以外はね」
「え、や、そんなんじゃ――」
旭が慌てると、國木田の唇が横にニヤリと伸びる。
「あいつから君の話、たくさん聞いてたよ。あいつがどんなこと言ってたか聞きたい?」
「き、聞きたくないっ!」
「やっぱ旭君は敬語じゃなくてこういう方がかわいいなあ」
旭が頬を膨らませて抗議しようとした時、アラタが戻ってきた。二人の間に流れる空気に、彼は僅かに眉間に皺を寄せた。
「旭、何かいじめられなかったか?」
「大丈夫」
「そーそー、俺たち仲良しだからな」
アラタはもう一度二人を見比べてから、旭の隣に座った。
「なあ、二人とも結婚式とか新婚旅行とかは?」
話題を逸らすように國木田が尋ねる。
「そういうことする前に、これだから」
旭が自身の腹を見下ろすも、國木田はいやいやと首を振る。
「それは分かってるけどさ、子供産んで少し落ち着いてからやったらどうなのかなーって」
「うーん、子育てがどれくらい大変なのか分からないし、今はまだ考えられないかな」
この先の生活がどう変わるのか、旭にはまだ想像もできない。國木田は渋る旭からアラタへとターゲットを移した。
「ええー、一条は? 旭君が白いタキシードとか着たらどうなると思う? ただでさえ美人なのに、お姫様で王子様になっちゃうよ! 見たくない? 見たいよな?」
「見たい」
「よし、じゃあ来年な? 来年の〜、秋から冬? 赤ちゃんって一年でどんくらい成長するのか知らないけど」
「分かった」
「あ、二人目作るのはちょっと待ってろよ?」
「……」
「あれ、一条君お返事は?」
「……努力する」
二人は息の合った会話をしつつ食事に手を付けようとするが、旭の額には青筋が浮かんでいた。
「おいこら、何勝手に話進めてんだ。んなもんやったところで、俺もお前も呼ぶ人ほとんどいないだろ」
アラタの肩を揺さぶるが、彼は黙りこんでしまう。代わりに助け舟が向かいから飛んできた。
「あのさ旭君、そんな大々的にやんなくていいんだって。お互いの家族やごく親しい人しか集まらないような小規模なのも、最近はアリなんだよ」
「そんなこと言ったって、俺が呼べるの……」
旭は頭の中で知り合いを一人ずつ数える。まずは伯父。伯父を呼ぶとなると、おそらく公安の保坂という男がついてくるだろう。崎原や、高校時代の友人だった茂樹は呼べば来てくれるだろうか。
そして次にアラタの方を考える。彼が呼べるのは、晴海と國木田くらいだろう。いや、國木田のこともつい最近まで知らなかったのだ。旭の知らない友人関係がもっとたくさんあるのかもしれない。
「おー、考えてる考えてる。旭くんも意外と乗り気だ。良かったな」
國木田の言葉に我に返った旭は「別にそんなんじゃない!」と否定した。
***
「あの、美味しかったです。ごちそうさまでした」
食後、ホテルのロビーで旭は國木田を見上げた。
「お口に合って良かった。まあ、食事で一番面倒なのはこっちのお子様舌だけどな」
國木田に話題を振られたアラタは、ぷいっと顔を背ける。旭もそれはよく知っていたが、この國木田という男も実はエキセントリックな舌を持っているような偏見が拭い去れない。
旭のそんな疑惑など気付かず、國木田が軽やかに手を振る。
「じゃ、俺次の行き先ここの二階だから。同じ大学の同級生、かつ同じ事務所だった弁護士仲間が結婚してね、その二次会だけ顔を出そうかと」
それはつまり、アラタとも大学時代同級生だったということだろう。その二次会とやらに集まる人々も、きっと過去のアラタを知る人たちなのだ。
旭が複雑な感情に襲われていると、ちょうど三人組の男女が入口からロビーへと入ってきた。國木田は彼らに気が付くと「おー」と声を上げて近付いていく。合流して何やら会話をしながら、國木田がチラチラとこちらに視線を投げかける。
もしかしてアラタのことが話題に出ているのだろうか――そんな予感通り、彼が小走りでこちらへ戻ってきた。
「なあ、こいつちょっとだけ借りていい?」
そう言って彼はアラタの腕を掴んだ。無表情で岩のように動かないアラタに、旭が肘で小突く。
「行ってこいよ」
「……めんどくさい」
「今後仕事に復帰した時に繋がりはあった方がいいだろ」
何も気にしていないという風にそう言うと、アラタは渋々國木田に連れられていった。
國木田とアラタが向かう先には、男性が一人と、女性が二人。女性陣が口元に手を当てながらきゃあきゃあ声を上げる。
高身長、高学歴、高収入。おまけに外面はいいため、外では変人度が薄れる。コミュニケーション能力に弱冠難ありなのはバレていそうだが、その他でカバーできるレベルだ。
……そりゃ、モテるよなあ。
旭は近くにあったソファに座り、心の中でそう独りごちる。今までも実は何度も女性から言い寄られたりしたのだろうか。勝手にそんなことを考え始めて、勝手に落ち込む。
アラタの表情は背を向けていて分からない。アラタを見ながら楽しそうに笑う男女を眺めながら、旭は学生時代の彼らを心の中に描いてみた。
待ちくたびれて欠伸を噛み殺した頃になって、國木田がそそくさと抜けて旭の方へやってきた。
「ごめん、姿消して今何やってるんだって、話が長くなってるみたいで」
彼は旭の隣に「よっこいしょ」という掛け声と共に座った。
「……あの人たち、同じ大学だった人なんだよな?」
「うん」
「あいつ、大学時代にそんなたくさん友達いたの?」
「いや、ほとんど俺としかつるまなかったね」
旭の予想通り、アラタはそこまで社交的ではなかったらしい。
「じゃあ、なんであんな……」
「そりゃ、あいつそこそこ有名だしね。当時話しかけられなかったけど内心気になってた人は多いんだよ」
言われてみれば確かに、アラタと向き合う女性陣は、打ち解けていると言うより、ニコニコ笑顔を作って少し緊張しているように見える。
「あれあれ〜? 旭君、ちょっとモヤモヤしてる?」
「べ、別に」
彼女たちが何を考えていようと、アラタはもう既婚者だ。それももうすぐ一児の父になる。旭が心配したり嫉妬したりする必要はどこにもない。どこにもないはずなのに、何となく寂しい。
「あいつの学生時代がそんなに気になるんならさ、自分であいつに聞けばいいじゃん」
「キョーミない!」
「じゃあ何で今俺にあんなこと聞いたの〜?」
「せ、世間話……?」
「でもさ、旭君の知らない一条を、あいつらは知ってるんだよ? それってなんか……モヤモヤしなぁ〜い?」
「……っ!」
図星だった。ふざけた口調なのに、やはりこの男は侮れない。
先ほどから旭がなんとも言えない焦燥に駆られているのは、アラタの過去に触れて急に彼を遠くに感じたからだ。この國木田という変な男とどんな学生生活をしていたのか、今話している彼らとはどんな距離感だったのか。旭の知らないアラタが急に目の前に広がって、大学というものすら知らない自分が置いてきぼりにされたような、嫉妬、不安、寂しさ。
俯いていると、急に足元に影が落ちた。見上げると、ほんの少しだけ眉を顰めたアラタがいた。
「うわー、ごめんごめん、いじめてないから!」
大慌てで言い訳する國木田を無視して、アラタは旭の腕を掴んで立たせた。
「旭、ちょっと」
そのままアラタに引っ張られて歩き出す。
「な、何だよ」
「どうして仕事に戻ってこないのかと聞かれたから」
仕事に戻らない理由は、確かに旭を見せれば一発で分かるだろう。
「言葉だけで説明しろ!」
「めんどくさい。話すのは苦手だ」
「俺無理だって。あんなαのエリートな人たちと話すとか」
コソコソ話しているうちに、彼らのすぐ近くまで辿り着いてしまった。三人の視線が、アラタの横にいる旭に集中する。
「えー、もしかして!」
旭と同じくらいの背の女性が、胸の前で両拳を握りながら興奮する。
「この通り、結婚して新しい生活を始めたので、落ち着くまで仕事はしばらく軽くしてもらっています」
アラタは普段とまるで別人のようにスラスラ喋ってから、旭の肩をさり気なく引き寄せた。
「おめでとうございます」
旭よりも背の高い、黒髪の女性が丁寧に会釈してきて、旭も慌ててぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、い、一条、旭、です……」
舌を噛みながら自己紹介したその時、横で見ていた男性が「あ」と声を出す。
「もしかして……画家の篠原さんの息子さん? 去年テレビに出てた」
「は、い……」
やはり、記憶力のいい人は気付くものだ。弁護士だからこそ、あの事件に興味を持って覚えていたのかもしれないが。
「そうか、あの事件で犯人を弁護したのが一条さんのお母さんだったから、その時遺族の彼とお知り合いに?」
「いえ、それより何年も前から私の片思いです」
アラタの聞き慣れない喋り方に、旭の顔がどんどん赤くなる。変人っぽくもなく、惚気っぽくもなく、どうして急にこんなさらっとスマートな感じで答えられるのか、世界の七不思議の一つだと思う。
「へえ、そりゃすごい大恋愛だね」
「でも確かに見るだけで分かります。一条さん、旭さんのことすごく大事にしてる」
黒髪の女性が柔らかく微笑む。旭はあまりの恥ずかしさに、つい首元を触ってしまう癖が出た。そのせいで、そこにある赤い印に皆の視線が余計集まる。
「妊娠してるってことは、Ωなんですよね。お腹が大きくなかったら気付かないかもっ」
背が低い方の女性はすっかり旭の存在に興味津々のようで、前のめりに話しかけてきた。コミュニケーションが苦手なわけでもないのに、旭は返事に詰まる。
「旭君はクォーターなんだってさー」
背後から呑気な声が聞こえたかと思ったら、旭とアラタの間から國木田がひょっこり顔を出した。
「ところでさー、もうすぐ受付始まるんじゃないかな。会場のフレンチって二階だよな? 皆もう二階にいるかも」
國木田のうまい誘導で、三人組もそろそろ移動するかという空気になる。
「一条さんたちも飛び入りでどうかな?」
「だめだめ、どうせお酒ばっかりなんだから、妊夫さんが行くところじゃないでしょ。ただでさえ俺がさっきまで拘束してたのに、これ以上は疲れちゃうよ」
國木田がそう笑い飛ばして、彼らを先にエスカレーターへと追い払った。
「助かった」
アラタの言葉に、國木田は「いいってことよ」と返す。その二人の何気ない会話に、旭はなぜかホッとした。
「それじゃあまた来年な。俺もその頃には日本帰ってるし、結婚式忘れるなよお〜」
彼は満面の笑みで敬礼のポーズを作る。第一印象の通り、やはりどう見ても変な男だった。
***
バラバラに最寄り駅へ集合した行きとは違い、帰りはアラタと二人で電車に乗る。休日の夜の車両はそこそこ空いていた。
旭の手を引いて前を行くアラタは、車両の端にある四人がけの椅子が空いているのを見て、その一番隅に旭を座らせた。
隣にアラタが座っただけで、同じ並びにも向かいの椅子にも他の客は来ない。
「旭、この車両は少し寒いと思わないか?」
「んー、確かに少し冷房効きすぎてるかもな」
旭が適当にそう答えた途端、アラタはピッタリ旭の方へ詰めて座り直した。まるで体温で旭を温めるように。
「この温度は……設定が混雑時のものになっている気がする」
お前は人間温度計かよ――旭が心の中でツッコミを入れていたら、すぐ横の車両連結部のドアが開いた。空席を求めて他車両からやって来た何人かは、旭たちの向かいや横の席を埋めていく。
お腹の大きな旭と、身体の大きなアラタ――その組み合わせを、彼らはチラリと確認した。
またΩへの冷たい視線が送られるんだろうか。アラタの前でそれは勘弁してほしい。
旭はあれこれ怯えたが、彼らは本当に一瞥しただけで終わった。
「旭、我慢できなかったら弱冷房車に移動しよう」
「え、あ、うん……大丈夫」
過保護な奴。でもまあ、俺のこと気遣ってくれてるのは分かるから、文句言うのもかわいそうだよな。
旭がそんなことを考えていたら、不意にある女性の声が頭を過ぎった。
――見るだけで分かります。一条さん、旭さんのことすごく大事にしてる。
今周りにいる人たちも、彼女と同じように感じているのだろうか。身を寄せ合って座る二人の姿を見て。
ああ、そっか。何も言い訳なんかしなくても、黙ってこいつと一緒にいるだけで伝わってるんだ。このお腹の子が、Ω側の一方的な手段でできた子じゃないんだって。
視線が痛くない理由に辿り着いて、旭は目元にじんわりと涙を浮かべた。
アラタと一緒なら、大嫌いなこの世界も歩いていける――そんな直感はやはり間違いではなかったようだ。
***
自宅に帰り着いてみると、昼間はあんなに煩かった蝉も寝静まっていた。室内の空気だけは、昼間の熱の名残で生暖かい。
「ただいま」
誰もいない家に声をかけて、玄関から上がる。さっきまで前を歩いていたはずのアラタは、旭の後ろをくっ付いて歩く子供に戻っていた。
「……つかれた」
リビングに入って開口一番にそう呟いたアラタは、旭に背後からぎゅっと抱きついて来た。社会人として振る舞う彼はもういない。まるで魔法が解けたシンデレラのようだ。
「はいはい、すぐお風呂用意するから」
「いや、それは俺がやるからいい」
彼は旭のうなじの痕にキスをして、少し強めに吸い上げる。疲れた身体に旭を充電するように。
「アラタ?」
問いかけるも返事はない。アラタは旭の身体を自分に向けさせると、今度は唇を塞いできた。それも軽いキスではなく、深く舌まで吸い尽くすように。こんなに強引なキスは、妊娠が分かってから久しぶりかもしれない。
「……どうした?」
唇が解放されてからそう尋ねると、アラタは少し不機嫌そうに旭を見下ろした。
「外で我慢した分」
「我慢って――」
「皆が旭のことを見ていた。俺のモノだからジロジロ見るなと言いたいのを何とか我慢した」
偉いだろう、と言わんばかりの言い草に、旭は思わず脱力する。
「いや、俺がお前の……って、一緒にいるの見れば丸分かりだと思うんだけど」
アラタの手を取って、大きくなったお腹に当てる。アラタはここに触る時、いつもおっかなびっくり撫でる。そういえば以前触らせた時は、タイミング良く中から蹴られて無表情で驚いていた。
「あのさ……。やっぱ後でいいや。風呂の準備は?」
まだ離れたくなさそうにするアラタに「風呂、一緒に入る?」と追い打ちすると、彼はすぐに風呂場へ向かった。
アラタにしては早い歩き方に笑いながら、旭は一人ソファに腰を下ろす。
彼が戻って来たら聞いてみよう。彼のこれまでの人生について。今日出会った人々との思い出について。
今の旭は驚くほどすんなりとそう思えた。あんなに迷っていたのが嘘のように。今日出会った人々、今日改めて感じたアラタの愛情――色々なものが重なって、ずっと揺れていた天秤に自然と決着が着いていた。
彼に大事にされている分、自分も彼の過去ごと全部愛してあげたい。そして明日からは、なるべく一緒にどこかへ出かけよう。
大きくなったお腹を撫でながら、旭はそっと笑った。
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