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第1話
一年前に買った奴隷に逃げられた。
そんな噂の的になっているのは竜人の国ーーセオドラ王国の末の王子、コランだ。珍しいアルビノの竜人で、幼少の頃から身体が弱かった。竜人は発情期を迎えることで成人とみなされるが、それまで生きられぬだろうと言われており甘やかされて育った。今年で二十歳になるが、いまだに姿も心も十代前半の少年のままだ。
我が強くわがままな王子に手を焼いた両親は、南の離宮を任せるという名目で城から体よく彼を追いやった。そんな背景から、奴隷に逃げられたと耳にした者はさもありなんと溜息を落とすのであった。
当のコランは大いに不貞腐れていた。いつも機嫌が悪くなると逃げ込む庭の四阿で膝を抱えている。紅玉 に似た虹彩は伏せられた白い睫毛に隠れ、眉間には皺が寄る。そんな表情とは対照的に、南の離宮の庭は麗かだ。張り巡らされた水路からたっぷり水を得て咲き誇るクロッカスやダッホデルの間を風が渡る。
ざり、と石畳と砂が擦れる音がした。その足音は侍従の誰のものでもない。コランは素早く振り返った。
「イアラン!?」
いなくなった奴隷の名を呼ぶ。ただの僕 を呼ぶには切実な響きであった。
「なんて顔してんだよ。だったら迎えに行けばいいじゃねえか」
応えた声の持ち主は大柄な偉丈夫で、コランと同じく肌に鱗が生えている。ただ、肌の色は赤く、鱗はコランのそれよりも凹凸が大きい。コランの鱗は薄く、光が当たるとようやく白く輪郭が浮かぶ程度だ。
コランは華奢な肩を落とした。
「帰れ、クロム」
王太子である兄からふいと顔を背ける。クロムはどこ吹く風で、隣に腰を下ろしたが。
「まあお前は腐っても王子サマなんだから、新しい"嫁"の来手もあるんじゃねえの?」
「馬鹿にするな。イアランはきっと帰ると言った。あいつは僕との約束を破ったりしない」
「そうは言っても、里帰りしてもう半年だろ?本当に逃げられたんじゃ」
「僕も待つと言った。僕もイアランとの約束を守るんだ」
はぁん、とクロムは口の端を上げた。それきり、会話は途切れた。二人が並んで見つめる先には海が凪いでいた。それは待ち人の目とよく似た色で、彼が旅立った故郷に繋がっていた。
イアランと出会ったのは城下の市場だった。
クロムが城下の偵察をすると言うのでコランは駄々をこねついていった。クロムが遊びに行く時の常套句だということを、コランはちゃんと知っていた。外面が非常にいい王太子に周りが融通をきかせてくれることも。
王族の証である首飾り を外し、チュニックの腰にベルトを巻き、庶民と同じように麻のズボンを履いて闊歩する。
セオドラ王国は裕福な国だ。さまざま金属や宝石の鉱脈が領土内で入り混じり、それらを採掘して自国で加工し生活必需品を作ったり、隣国へ輸出したりしている。居住区は緑の山と高い城壁に囲まれた山岳部にあるため、輸出入の際は配送を担う竜人たちが各地に"飛んで"いく。
市場には今日も南の海で獲れた色とりどりの魚や北方で栽培された甘みの強い根菜や果樹が並ぶ。
太陽が空の真上にある時の市場は賑やかだ。昼食にソーダブレッドやじゃがいものパンケーキを買い求める労働者、夕食の買い物をする主婦でごった返す。
人混みの中、コランは東の鉱山で採れるサファイアのような青色と目が合った。
「クロム、あれが欲しい」
コランの白い指先を目で追うと、黒い巨躯が目に飛び込んできてクロムはギョッとした。脂が滲む黒く長い髪に垢だらけの褐色の肌は衛生的とは言いがたい。砂埃にまみれた腰布だけをまとい、足首と手首は鎖に繋がれていた。
一目見て、奴隷だと分かった。
「お前に人間の面倒が見られるのか?俺たちよりずっと脆いし話す言葉も違うんだぞ」
クロムが最後まで言い終わらないうちに、コランは奴隷と奴隷商人の元に駆けていってしまった。
奴隷に繋がれた鎖を手にしてクロムのもとに戻ったコランはすこぶる機嫌がよかった。
「見てくれクロム、僕の"目"に狂いは」
「ああ待て待て!まだそいつに触るんじゃない!ったく、先に南の離宮に連れて行くぞ」
クロムはこっそり城壁の門番に金を握らせ、外に出た。城壁の外は鬱蒼とした森で、商人や旅人が乗ってくる馬車の轍が固まって出来た道が伸びている。
クロムは深く息を吸い、魔力を体に巡らせる。瞬きする間に巨大な赤い竜が現れた。
牙の並ぶ細長く突き出た口の先に一瞬魔法陣が光り、そして言葉が竜の身体に宿った。竜の姿のままでは言葉を発することができないためだ。
「ほう、悲鳴ひとつあげないとはな」
クロムの目は奴隷に向いていた。相手が竜人とわかっていても、実際に竜になった姿を目にすると慄いてしまう人間は少なくなかった。奴隷の分厚い唇は、未だ閉ざされたままだ。
「肝の座ったやつだ。ますます気に入った」
コランはクロムの背に飛び乗り、奴隷に手を伸ばす。
「ほらおいで」
おずおずと伸ばされた褐色の手は節が目立ち、まめだらけの手のひらは分厚かった。
「すごい、戦士の手だ」
昔取った杵柄なのか、奴隷の身のこなしは軽い。コランの力を借りずひょいと竜の背に跨る。クロムが猛烈な勢いで風を裂いて空を飛んでもびくともしない。
あっという間に南の離宮に到着した後は、奴隷を侍従に引き渡し風呂に放り込んだ。不衛生な格好であったのも確かだが、コランは未だに身体が丈夫な方ではなく感染症を防ぐ為でもある。
セオドラ王国に奴隷制はあるが形骸化している。基本的に使用人と同じ扱いで賃金や休暇も与えられ、十年仕えれば市民権を申請できる。かつてあった戦で、捕虜となったが国に帰れぬ者を奴隷にするという名目で引き取った名残りである。職にあぶれた者が悪さをすることを防ぐ意味もあった。
コランは奴隷が身繕いされている間、仕事部屋に篭った。黒檀の机の上には小さな布袋がたくさんならび、産地の名前がついている。
コランの住む南方ではオパールやアクアマリンが採れる。カッティングしたそれらの鑑定をし、品質の精査や値段をつけるのが彼の仕事だ。クロムとそろそろあの坑道は閉めるべきだの、品質はいいがカッティングが甘いなど語るうち侍従に呼ばれる。
離宮から見える海が夕日に焼かれるころ、コランたちの前にあの奴隷が再び姿を現した。
見違えるようであった。クロムと同じくらい上背がある立派な若者がそこにいた。
豊かに波打つ黒髪は後ろで一括りにされ、袖のないチュニックから伸びる腕や脚は筋肉に覆われていた。顔は彫りが深く、きりりとした眉が精悍な印象を与える。
そして大きな目の色は、鮮烈なサファイアブルーであった。
コランは駆け寄って、ぴょんと飛び上がり、褐色の太い首に腕を巻きつけその目を覗き込む。
「見ろクロム、あの海の色とも違う、神秘の青だ」
「それだけでソイツを買ったのかよ」
クロムは呆れたが、たしかに見事な深い青色で、ソイツの目がサファイアだったらひと財産築けていただろうな、などと思った。
「名はどうする?」
この国では主人が奴隷に新しい名を付けることで主従関係が結ばれる。
「やはりサファイアに関する名前がいい。そうだな、お前はーー」
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