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第29話

凪沙を振り返る事もせず、走って学校を後にした。 息が苦しくなっても疲れても走り続ける。 アパートが見えると安心して足を止めて息を整える。 まだ気持ち悪い、吐き気がするがなにかが出てくる感じはしない。 ずっと胃の中でぐるぐるしてる。 「大丈夫かい?君」 「…は、はい…大丈夫でっ」 誰かに心配かけてしまい、顔を上げて言葉に詰まらせた。 優しげな顔のこの人を俺は知ってる。 城戸さんに会いに来て、多分城戸さんに酷い事をした人だとすぐに分かった。 爽やかに笑うが、よく見ると目が笑ってない。 また城戸さんに会いに来たのだろうか。 今度こそ何も言わず帰ろう。 気付かれないように後ろに下がり距離を置くとクスクス笑われた。 もしかして警戒してる事に気付かれた? あからさまだったし、気付くのは当たり前か。 でも男の人は自分の首に触れていた。 「いいもの付けてるね」 「!?」 薄ら笑いで言われ、そういえば凪沙に包帯を取られたままだった事を思い出した。 すぐに手で首を隠すが見られてしまったから無意味だろう。 もう誰も首を締めていないのに、触れると息が苦しくなる。 ーももちゃんーと呼ぶ毒のような声で身動きが取れないように支配される。 今まではこんなんじゃなかった…確かに子供の頃から凪沙の行動は変だったがこんな事する奴ではなかった。 …離れていた空白の時間に彼になにがあったのだろうか。 もし、それが分かれば…凪沙は怖い事をやめてくれるかもしれない。 「恐ろしいほどの執着だね、その手跡」 「しゅ…ちゃく」 「羨ましいな、僕も城戸さんに執着されたい…いっそ殺してくれたらいいのに」 すれ違う時に不穏な言葉を聞き後ろを振り返るが、男の人は振り向く事はなかった。 死ぬなんて、なんでそんなに簡単に言うんだ? 死んだら、そこで終わりなのに… 『もし僕が死んだら、君は泣いてくれる?』 誰かがそう言っていた事を思い出した。 誰だっただろうか、古い記憶で思い出せない。 ただ…あの時、桃の香りがした事は覚えていた。 あれは、何処だっただろうか。 アパートに戻る前に城戸さんが心配になり、喫茶店に入った。 あの人が用事を終わらせて帰る時だからまた酷い事をされてないか心配だった。 鈴の乾いた音を響かせて中に入る。 「いらっしゃ…あ、おかえり和音くん」 「…城戸さん」 カウンターに立ちコーヒーを淹れていた城戸さんは俺の顔を見て柔らかく笑った。 良かった、いつもの城戸さんだ。 店内にいた最後の客が会計して出ていったのを眺めた。 早速カウンター席に座ると水とおしぼりを出してくれた。 あの人は城戸さんに会わなかったのだろう、何しに来たか分からないが城戸さんにまたあんな顔させないためにさっき会った事は内緒にしよう。 城戸さんにも余計な心配掛けたくない。 「今日学校で大変で、お腹空いちゃいました」 「そっか、じゃあ今日は大盛りに…」 城戸さんはこちらを見て顔が青ざめた。 すぐにカウンターから出てきて俺を引っ張りカウンター裏の倉庫に連れてかれた。 今は客がいないけど、何をそんなに慌てて… あ、首… 城戸さんが心配で首の事をすっかり忘れてた。 もしかして不快に思われただろうか。 ダンボールが大量に置かれた倉庫で城戸さんはしゃがんで俺を見つめた。 その瞳は恐怖で揺れていた。 「その、首…もしかして」 「あ、これは…」 「ごめんなさい!僕がちゃんと縁を切らなかったから君にまで怪我を負わせて」 突然城戸さんは土下座した。 何を言ってるのか分からなかったが、この首は城戸さんのせいではなく凪沙に付けられた手跡だ。 城戸さんに顔を上げるように言うが地面に頭を擦り付けるように頭を下げ続けた。 「違うんだって城戸さん、これは…城戸さんに関係ないんだ!凪沙って奴に付けられたもので」 「……え?」 やっと城戸さんは分かってくれたのか顔を上げた。 首の手跡一つでいろんな人に心配掛けてしまう、帰ったらすぐにあまりの包帯で巻いて隠そうと思った。 空気が気まずくなり、なにか言わなきゃと口を開いたところで腹の音に遮られた。 恥ずかしさを誤魔化すように笑うと城戸さんも微かに笑った。 店内に戻り、夕飯を食べる事にした。 目の前には心まであったかくなるシチューのいいかおりが広がった。 城戸さんは隣の席に座りコーヒーを飲んでいた。 二人っきりの店内でのんびりするのは初めてだと感じた、いつもは客が一人か二人はいるから。

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