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1-1 緑

 (なか)校舎の一階の端にある資料室の窓から校庭のほうを眺めていると、別棟にある科学室から林藤(りんどう)が走ってくるのが見えた。  ああ、来た来た。中途半端に伸びた髪と白衣の裾をなびかせながら、早くも大きく手を振っている。あまりにいつものことすぎて、(みどり)は思わずふ、っと笑う。  その様子を目の端にとらえて、(なみ)が小さく息をつく気配がした。 「なっみー! 俺のハニー! 終わった? 科学室に遊びに来ない?」  秋の気配が漂い始めた九月の終わり、開け放された窓からは涼しい風が吹きこんでくる。林藤は駆けてきた勢いそのままに、窓枠に手をつくといつものように波に問いかけた。 「行かない」  書記から受け取った議事録を整えながら、波は林藤のほうを向きもせずに答える。ビスクドールのように整った顔は、少々うんざりした様子である。林藤はまったく気にしない。 「なんでいつもそうそっけないかなあ。別に何もしないからさあ」 「じゃ、何しに誘うわけ」 「まあ、何もしないっつーことはないんだけど」 「誰が行くかっつーの」 「ひどい! なみちゃん!」  毎回のように繰り広げられる二人の会話を、緑はいつもわきから眺めて楽しんでいる。そんな冷たい素振りをしていても、波が林藤のことを心底嫌っているわけではないことを、緑はちゃんと知っているからだ。  毎週金曜日の放課後、文化委員にあてがわれた資料室で文化委員会が行われる。本来は月に一度だけれど、二学期は十一月の文化祭まで毎週だった。その委員会が終わるころを見計らって、科学部の林藤は毎週同じ時間にこうやって、外からやってくるのである。  文化委員は各学年、各クラスに二人ずついて、三年生は基本的に二学期以降は受験のため活動免除となっていた。だから文化祭は新しく選ばれた生徒会と一、二年生だけの文化委員で構成された文化祭実行委員会で作業を進めてゆく。  といっても生徒会と合同で委員会を行うことはなく、文化委員会でまとまった内容を委員長と副委員長が代表して生徒会に持ってゆくという手順になっている。そして、委員長は波で、緑が副委員長なのだった。  そんな面倒な時期に緑が文化委員などになってしまったのは、委員を決めるその日、季節はずれの風邪をひいてぶったおれていたからだった。たとえ風邪だからといって病気のクラスメイトに面倒なことを押しつけるのってどうなんだよと腹立ちはあったのだったが、別のクラスの波も文化委員になっていたことを知って少々溜飲が下がった。そもそも病欠の緑を文化委員に推薦した張本人の林藤が、ひどく悔しがったからである。 「緑ー、波ってばひどくねえ? おまえからもなんか言ってよー」  ふてくされたような声で林藤が緑に助けを求めた。  室内には波と緑以外、誰もいなくなっている。委員会で出された提案や発言をまとめたり、今後の日程を調整したりとやることがいっぱいあって、会が終わってもなかなか帰ることができないのだ。本来ならもう二人、書記の生徒も残らなくてはいけないのだったが、ともに運動部でそうそうに駆け出してゆくのを波は見逃していた。 「なんかって何だよ」 「だからさ、俺がどんなにスバラシイか。波もいっぺん試してみるべきだって」 「だっておれ、林藤がどんなにスバラシイか知らないしさ」 「冷たいのー。同じクラスなのにさ」  そう言って唇をとがらせる。林藤はおどけた態度と口調でいつも本音を巧妙に隠している、と緑は思う。終始こんな調子なので、どこまでが本気なのかよくわからない。 「いいから部室へ帰れよ。これからまだ、打ち合わせがあるんだから」  波はそう言いながら、林藤を追い払うしぐさをした。 「そんな邪険にしないでよー。ジャマしないからさ。ここで波の姿を見てたいのよ」  呆れたように肩をすくめ、波は緑へ向き直った。 「バカは相手にしないでおこうな」  林藤にわかりやすく慕われている波は、誰がどう見ても正真正銘男なのだったが、高校二年生にしては華奢で、人形のように色が白く、確かにキレイな顔をしていて、彼らの通う男子校では少々有名だった。ただその見た目に反して口が悪く、無愛想で応対もそっけないことから、みな遠巻きにしているのが実情だ。こんなふうに率直に愛情表現を示してくるのは林藤くらいである。 「じゃ、二年の喫茶はAとCで決まりだな。Dのやつには僕から言っとく」 「1Cのプラネタリウムは」 「天文部とかぶるからな。詳しい内容を来週までに出せって言っといた」 「後はじゃあ、2Eだけか」  波と緑が打ち合わせするのを、窓枠に頬杖をついた林藤が、まるで尻尾をふる犬のように待っている。 「じゃ、決まりだな」  ひと息ついて、波が疲れたように天井を仰ぐと色素の薄い絹糸のような前髪がさらりと流れた。わずかに開いた桜色の唇から、吐息がもれる。  それほど丈夫そうでもない波に委員長の責務は大変なのではないだろうか、と緑はたびたび思う。ただ、委員長に立候補したのは波なのである。  学期当初の委員会で役決めがなかなか決まらないのを見かねて、波は自ら名乗りを上げた。それで思わず、緑もつられて手を上げた。そのとき波が緑を見て、ほっとしたように目尻を下げたのが印象的だった。ビスクドールのようなイメージを持っていたけれど、そんな顔もするのか。そう思って緑は、今も大変だけれど副委員長に立候補したことを後悔してはいない。 「これ、まとめて打ち出しておくよ」  そう緑が言うと、波が仰いでいた顔を起こした。 「いいの?」 「こういうの好きなんだよ」  そう言って、用紙をひとまとめにして鞄に入れる。 「助かる。ありがとう」  波は屈託のない笑顔を見せた。クールなわりに、ときおりそんな素直な表情を見せる。  それが気に入らなかったのか、林藤が窓ごしに口を挟んできた。 「終わった? ねえ波チャン、仕事終わったのかい?」 「うっせえな。なんだよ」 「もう帰るんだろ? じゃ、ちょっと遊びにおいでよ」 「行かねえっつうの。緑、帰ろうぜ」 「ああ」 「えー、そんなゴムタイな」  うんざりした表情の波に促され、緑はくつくつ笑いながら林藤に手を振った。ぶすっとした顔で林藤は、ガラス越しに手を振り返してくる。いつものパターンだった。  二人で廊下を歩くのも、習慣になった。委員長と副委員長という立場上、文化祭までは行動を共にすることが多い。そのせいで、林藤からは恨まれているけれど。 「好かれてるな、委員長」 「まいるよ、あいつ。まったくなんだって僕なんだか」 「まあ、人の好みはそれぞれだし」 「探せば校内にもいるだろうに。そういう趣味のヤツ」 「そうかな」 「いるだろ、一人や二人」 「仲間だから好きになるってわけでもないんじゃないの?」 「わかったふうなこと言ってんの」  波はふっと笑って目を細めた。そんな顔を見られるのも、副委員長の特権だろうと緑は思う。

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