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「緑」
移動教室のため、廊下を歩いているところだった。後ろから名を呼ばれた。
「あっ、マイハニー!」
隣を歩いていた林藤が先に反応する。
「おまえに用じゃないんだよ」
その声を聞いて、緑はおもむろに振り返る。
委員長がいた。まっすぐに近づいてくる。
「今日の放課後さ、あいてる?」
「なんだよ波―、デートなら俺を誘ってよ」
「ばーか」
委員長は、林藤を軽くあしらって緑を見た。
「パンフレットの広告、こないだ分担しただろ? それがまだ足りなくてさ、新規のとこ、とりに行かなくちゃいけないんだ。一緒に行ってくれない?」
「あ、うん。いいよ」
「俺も行こっかな」
「おまえは来なくていいっての」
そう言う委員長の横顔を見て、なぜだか一瞬、緑は息がつまった。
どうしてだかはわからない。
委員長がいつものように、幾分乱暴な言葉と、眉をしかめた表情で、でもとてもやわらかな声音で、林藤に向かっているだけだというのに。
「緑?」
「え?」
振り返った委員長から、緑は思わず目をそらした。
「どうしたんだよ、具合でも悪いの?」
「あ、べ、別に」
「えー、緑、なんかあった?」
林藤が、間の抜けた声を出す。運よく、そこでチャイムが鳴った。
「あ、やばい。行こう、林藤」
緑は逃げるようにして駆け出した。林藤は委員長に別れを惜しみながらついてくる。背中に、少し高めのハスキーヴォイスが聞こえてくる。
「じゃ、緑、放課後な」
緑は振り向くことなく片手を上げて返した。
どうしたんだ、いったい。
自分の中で何が起こっているか、さっぱり理解できなかった。
誰かが間に入っても余裕で歩けそうな距離を開けて、緑は委員長と並んで歩いた。その不自然さに、委員長はまだ気づかない。
緑は、道路に向けた視線をそっと委員長の横顔に移してみた。伏せた瞳、長い睫毛。すらりとのびた鼻梁、薄い唇。
林藤は、委員長のこの容姿に惚れたんだろうか。
色白の頬に、色素の薄い髪が落ちている。
細い肩が、突風に揺れた。
「緑?」
不意に、見とれていた顔が自分へと向けられた。緑はあわてて目をそらし、咳き込んだ。
「な、何」
「前から思ってたんだけどさ」
「うん」
「緑、僕のこと、委員長って呼ぶだろ?」
「うん」
「その、……名前でいいから」
「え?」
委員長が、視線を前に戻したのを横目で確認してから、緑はさりげなく委員長を見る。
「委員長って呼ばれるの、嫌なの」
「嫌ってこと、ないけど。でも、なんか落ち着かない。下級生に呼ばれるのはいいけど」
「でも、他のクラスのやつも呼んでるよ」
「まあね」
委員長は、ちょっとすねたように下唇をかんだ。
「別に緑が嫌ならいいけど」
「いや、って、嫌じゃないよ」
「そ?」
「う、うん」
「じゃ、緑も僕のこと、波って呼べば。林藤みたいにさ」
「わ、かった」
とたん、心臓が激しく脈打ち始めた。
委員長のことを、名前で呼ぶ?
林藤のように?
そんなこと、考えもしなかった。
「林藤っていえばさ、いったいいつのまに僕のこと名前で呼ぶようになったんだか。クラスのやつだって名字で呼ぶのに。波なんてさ、女みたいで嫌なんだよな」
「え、じゃあ、おれも名字で呼ぼうか?」
「緑は、いいんだよ」
「え?」
屈託のない顔で振り返られて、緑はまた息をつまらせた。
それ、どういう意味?
「だって、林藤だけに名前呼ばせとくの、変だろ。他にも名前呼ぶやついないとさ」
「それで、おれ?」
「うん」
うなずくその顔に、緑は遅まきながら自覚した。林藤も、こんな気持ちだろうか。
秋の日の放課後、住宅街の通り道。緑はいつのまにか、委員長の顔をまっすぐに見られなくなっていた。
人を好きになるのが、初めてだとは言わない。中学のころは、ごく自然に当たり前に、同級生の女子に思いを寄せていた。だから、誰かを好きになったときに抱く感情のとりとめのなさは知っている。それがまさか、男子校である高校で体験できるとは思っていなかっただけだ。
「……緑?」
ぼうっとしていると、横から委員長の顔が目の前に滑り込んできた。
「っ、なななな何」
「聞いてる?」
「……いえ、聞いてません」
「しっかりしてくれよ、もう」
会議室の長テーブルの隣に腰かけた委員長が、目の前の用紙を指差しながらもう一度説明を始めた。来週の予定、当日の予定、先生からの伝達事項、パンフレットの概要。緑はその指先よりも、頬杖をついた委員長の折れそうに細い手首や、風に吹かれてときおりあらわになるうなじなどに目がいって、まるで集中できなかった。だめだ、こんなんじゃ。委員の仕事もまともにできない。
「……てわけだけど、質問は?」
またしても聞いていなかったが、今度ははぐらかした。しかたないので、家に持ち帰ってじっくりと読んでおくことにする。さもわかったふうな顔をして、緑は言った。
「いんじゃない、そんな感じで」
「舞台のほうは僕が朝からついとくから、緑は正門の方で生徒会が一般客出迎えるのをまとめて」
「あ、待って。おれが舞台のほうがいい。同じクラスのやつが朝イチで使うんだ。委員長が正門のほう行ってよ」
「……また」
「え?」
「委員長」
ふてくされたように、委員長は言った。
「それ、やめろって言ったろ」
「あ。えーと、……波」
口にすると、鼓動が跳ね返る。ようやく冷静さを取り戻せたというのに、またしても緊張がたかまってくる。委員長は、そんなこと気にもとめない。
「よし。じゃ、当日の朝はそれで決まり。緑が舞台で、僕が正門前ね。設営のほうには僕から言っとく」
「……よろしく」
言いながら、緑は委員長に聞こえないように、小さく息をついた。
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