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 文化委員になるまで緑は、文化祭のパンフレットに広告が載っていることなんてまるで気づかなかった。  もちろん、目には入っているはずだ。でも意識したことなんかない。ジャマだな、くらいには思っていたかもしれない。学生にとってその程度のものであるのはいたしかたないことだろうと思う。  校内の見取り図や模擬店の配置図、各教室で行われている展示や催しの紹介など、一般の来場者のみならず、在校生にとってもパンフレットは便利なものだ。そのパンフレットの制作費用が広告収入で補われている、ということを緑は今回初めて知った。  そして近隣の会社や店舗がそれを負担してくれている、ということも。  よほどのことがない限り、その広告主の顔ぶれは毎年変わらないらしかった。前もって話は通っているので、学校側から渡された資料にそってその会社や店舗に赴き、広告代を集めてくるのが文化委員の役割だ。  ただ、今年は閉店や廃業したところがあり、新しいところへ広告を取りにいかなくてはならなくなった。どうなることかと緑はいくぶん危惧していたのだったが、学校側が交渉していたおかげで、さほど問題なく済ませることができた。 「本当は僕ひとりでも良かったんだけど」  隣で波がはにかむように言った。商店街を抜け、幅広の水路沿いを歩いているところだった。面倒ごとが解決して安心したのか、その表情はやわらかい。 「やっぱりちょっと、心細くて。緑が一緒にいてくれて助かった」 「何言ってんだよ、別にこれは委員長の仕事って決まってるわけじゃないだろ。誰かに頼んだってかまわないのに。委員長はなんでもひとりで抱えこんじゃうとこがあるからな。おれで良かったらいつでも言ってよ」 「……うん。ありがとう」  見上げるように向けてくる波の控えめな笑みに、緑は一瞬息がつまりそうになる。  色白の頬に、色素の薄い髪が落ちている。細い肩が、突風に揺れる。 「緑? どうかした?」  不思議そうに訊ねられ、見とれていたことに気づいて緑はあわてて目をそらした。 「いや、別に何も」 「変なの」  そう言ってまた笑う。あんまり、笑わないでほしいと思う。普段はあまり笑みを見せたりしないのに、緑相手だとまるで、完全に警戒心を解いたみたいに無防備だ。 「緑?」 「な、何」 「あのさ、前から思ってたんだけど」 「うん」 「緑、僕のこと、委員長って呼ぶだろ?」 「うん」 「それ、やめない?」 「え?」  波が、視線を前に戻したのを横目で確認してから、緑はさりげなく波を見る。長い睫毛がいくぶん(せわ)しく上下している。 「委員長って呼ばれるの、嫌なの?」 「嫌ってこと、ないけど。でも、なんか落ち着かないんだ。下級生に呼ばれるのはいいけど」 「でも、他のクラスのやつも呼んでるよ」  波は、クラスでも学級委員をしているのだ。それも、一年のときから毎学期。ていよく押しつけられているのか、本人もあきらめ半分らしいけれど、だからといって嫌そうでもない。 「まあね」  波は、ちょっとすねたように下唇をかんだ。その表情が子どもじみていて、緑は微笑ましい気持ちになる。 「別に緑が嫌ならいいんだけどさ」 「え、いや、別に」  反射的に、緑はそう答えた。  そう。別に嫌なんかじゃない。委員長と呼ばれるのを、波がやめてほしいと言うのなら。 「いい?」 「う、うん」 「じゃ、緑も僕のこと、波って呼べば。林藤みたいにさ」  とたん、心臓が激しく脈打ち始めた。  波のことを、名前で呼ぶ?  林藤のように?  そんなこと、考えもしなかった。 「緑? 聞いてる?」 「あ、うん。聞いてるよ」 「林藤っていえばさ、いったいいつのまに僕のこと名前で呼ぶようになったんだか。クラスのやつだって名字で呼ぶのに。波なんてさ、女みたいで嫌なんだよな」 「え、じゃあ、おれも名字で呼ぼうか?」 「緑は、いいんだよ」  屈託のない顔で振り返られて、緑はまた息をつまらせた。  それ、どういう意味? 「だって、林藤だけに名前呼ばせとくの、変だろ。他にも名前呼ぶやついないとさ」 「それで、おれ?」 「うん」  うなずくその顔に、緑は遅まきながら自覚した。林藤も、こんな気持ちなのだろうか。  秋の日の放課後、住宅街の通り道。緑はいつのまにか、波の顔をまっすぐに見られなくなっていた。

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