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「今、林藤だけ?」  委員会が終わったその足で、緑は科学室へ向かった。  窓際で、林藤が実験器具を洗っている。 「おう、めずらしいな。緑が来るなんて。どうせなら波チャンも連れてこいよな」 「林藤、ごめん」  誰もいないのを確認して、緑は率直に言った。 「……は?」  林藤だけには、言っておかなくてはいけないと思った。 「おれ、委員長のこと、好きになった」  蛇口から、水がほとばしっている。  林藤は首だけで振り返った。その顔に、驚愕や落胆といった感情は何も見つけられない。しいていえば、わずかに目を細めている。 「……何言ってんの」 「自分でも、わかんないよ」  林藤が流しに向き直って水を止めたので、室内が、しん、となる。グラウンドのほうから野球部の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。 「だめなんだ。こないだから。おれ、変なんだ。委員長のことばっか考えてる」 「気のせいじゃないの」 「気のせいって、どういうんだよ」  林藤は、かけてあるタオルをとって手をふいた。窓は全開にしてある。心地よい風が吹き込んできて、林藤の白衣を揺らした。 「……やめとけよ」 「え」  親身な響きだった。でもまさか、林藤に言われるとは思ってもいなかった。 「どうして」 「あとにひけなくなる」  一重の瞼を伏せて、林藤は続けた。 「タイヘンだぜ。そういうの」  緑は、二の句が継げずに押し黙った。林藤も、それ以上は何も言わない。  彼だって、こうして黙っていれば、見た目はけして悪い方じゃない。共学ならば、多少はモテただろう。いや、女子からモテても意味がないのか。林藤は、ゲイなのだから。 「……林藤って、そういえば、いつから?」 「……何が」 「だから……そういう、男が、好きとか」 「さて。一言じゃ話しきれねえな」 「でも、タイヘンだからって、やめとけなかったんだろう? だから、今でも」 「俺とおまえは違うよ」  いつにない、林藤のまじめな声だった。 「おまえは、普通だし、俺がわーわー言ってるからそんな気になっただけだ」 「でも」 「やめられる。おまえなら」 「ムリだよ」  話は、平行線になりそうだった。  緑は林藤に背を向けた。答えなど、始めからない。  おれは、委員長のいったいどこが好きなんだろう。  顔? 性格?  でもおれは、いったい委員長のことをどれだけ知っているというんだろう。  林藤のように、話せば長い話などまるでない。  ただ、委員長のことを思い出したり、委員長のそばにいるだけで、心臓が異常な速さで脈打つだけだ。  それだけじゃ、理由にならないんだろうか。  単なる気のせいで、すんでしまうのだろうか。  朝、ホームルームの前に緑の教室に委員長が来た。出入り口のわきで緑の名を呼び、小さく手を上げる。 「な、何」 「パンフレットの目次のところさ、手直ししたいんだ。緑が原稿持ってただろ? 放課後までに返すからさ、借りていい?」 「あ、……悪い。忘れた」 「マジ?」 「ごめん」 「しょうがないな。じゃ、明日持ってきて。忘れるなよ」 「わかった」  会話が終わっても、委員長は立ち去らなかった。どこかしら、挑むような眼差しを向けられて、緑もその場を動けなかった。 「な、何?」 「……最近さ、緑、変じゃない?」 「え」  指摘され、緑は表情を固くした。まさか、心中まで気づかれてはいないだろう。 「そうかな」 「うん。なんか、いろんなこと上の空って感じ。なんかあった?」 「……何も」 「文化祭、もうすぐだぜ」 「わかってる」 「悩み事あるんなら、きくけど」 「え」  心配そうに覗き込んでくる委員長の目を、緑は正面から見られなかった。彼に対する想いまで、見透かされてしまいそうで。 「僕なんかじゃ頼りないかもしれないけど、話せばラクになるってこともあるぜ」 「親切なんだな」  ごまかすようにして茶化すと、委員長は照れくさそうに弁明した。 「まあほら、副委員長がしっかりしてないとさ、僕も困るし」 「……そうだよな。うん。しっかりするよ」 「でも、心配してるのは本当だからな。文化祭の心配じゃないぜ。緑の」 「……うん。ありがとう」  予鈴がなる。それを機に、委員長は踵を返した。線の細い後ろ姿を目で追いながら、緑は胸が苦しくなるのをどうにかこらえた。  やめとけ、と林藤は言った。気のせいだと。  じゃあ、この感情はどこへ行けばいいんだろう。高まる鼓動が気のせいなら、このもやもやとした落ち着かない気持ちも、そのうちどこかへ行ってしまうんだろうか。  それは、嫌だ。  たとえ一時の気の迷いだったとしても、委員長に対するこの想いが消えてしまうのは、嫌だった。  どきどきするのも、そわそわするのも、誰かを好きになれば当然のことだ。その一瞬一瞬は簡単に消してしまえるようなものじゃないし、抱いた感情は正真正銘、自分のものだ。  もしこれで、仮に林藤のいうように、後へひけなくなったとしても、それがなんだというのだろう。それが自分であるなら、それでいいように思う。偏見や思い込みで本当の自分が隠されてしまうなら、間違っていてもいい。  緑は思う。  やっぱり、委員長が好きだ。

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