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「……緑?」  ぼうっとしていると、横から波の顔が目の前に滑り込んできた。 「っ、なななな何」 「聞いてる?」 「……いえ、聞いてません」 「しっかりしてくれよ、もう」  例によって金曜の定例委員会が終わったところだった。  今日はまだ、林藤は来ていない。部活のほうが忙しいのかもしれない。  資料室の長テーブルの隣に腰かけた波が、目の前の用紙を指差しながらもう一度説明を始めた。来週の予定、当日の予定、先生からの伝達事項、パンフレットの概要。  緑はその指先よりも、頬杖をついた波の折れそうに細い手首や、風に吹かれてときおりあらわになるうなじなどに目がいって、まるで集中できなかった。  だめだ、こんなんじゃ。委員の仕事もまともにできない。 「……てわけだけど、質問は?」  またしても聞いていなかったが、今度ははぐらかした。しかたないので、家に持ち帰ってじっくりと読んでおくことにする。さもわかったふうな顔をして、緑は言った。 「いんじゃない、そんな感じで」 「舞台のほうは僕が朝からついとくから、緑は正門の方で生徒会が一般客出迎えるのをまとめて」 「あ、待って。おれが舞台のほうがいい。同じクラスのやつが朝イチで使うんだ。委員長が正門のほう行ってよ」 「……また」 「え?」 「委員長」  ふてくされたように、波は言った。 「それ、やめろって言ったろ」 「あ。えーと、……波」  口にすると、鼓動が跳ね返る。ようやく冷静さを取り戻せたというのに、またしても緊張がたかまってくる。波は、そんなこと気にもとめない。 「よし。じゃ、当日の朝はそれで決まり。緑が舞台で、僕が正門前ね。設営のほうには僕から言っとく」 「……よろしく」  言いながら、緑は波に聞こえないように、小さく息をついた。 「今、林藤だけ?」  科学室にまだ明かりがともっていたので、緑は波と別れた後に別棟に向かった。  窓ぎわの流しで、林藤が実験器具を洗っている。 「おう、めずらしいな。緑が来るなんて。どうせなら波チャンも連れてこいよな」 「来るわけないだろ、委員長は。今日はどうしたんだよ、顔見せないなんて」 「ちょっと顧問と打ち合わせがあってさ。俺も忙しいのよ。部長としてはだね、文化祭でどれだけ科学部をアピールできるかっつー」 「林藤、ごめん」  室内に林藤以外、誰もいないのを確認してから緑は唐突に言った。当然ながら、林藤はぽかんとしている。 「は?」  林藤だけには、言っておきたかった。なぜなら、緑は林藤の想い人を知っている。林藤が隠していないからだ。ならば、緑も林藤に隠したくはない。フェアじゃない、と思う。 「おれ、委員長のこと、好きになったかも」  蛇口から、水がほとばしっていた。  林藤の顔に、驚愕や落胆といった感情は見つけられない。しいていえば、わずかに目を細めている。 「……何言ってんの、緑」 「自分でも、わかんないよ」  林藤が水を止めたので、室内がしんとなった。グラウンドのほうから野球部の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。 「こないだから。おれ、変なんだ。委員長のことばっか考えてる」 「気のせいじゃないの」 「気のせいって、どういうんだよ」 「俺が隣でわーわー言ってるから、感化されたとか」 「そういうのって、感化とかされるもんなのか?」 「さあ」 「さあ、って」  林藤は、かけてあるタオルをとって手をふいた。窓は全開にしてある。心地よい風が吹き込んできて、林藤の白衣を揺らした。 「やめといたほうがいいと思うけどね、俺は」 「え」  林藤にそんなことを言われるとは思ってもいなかったので、緑は素直に驚いた。 「どうして」 「異性愛が普通の社会で、せっかくヘテロに生まれてんだからよけいな苦労せずに済むならそれに越したことはないってことよ」 「……苦労、するかな」 「苦労しかないっしょ」 「林藤も、苦労した?」 「ご想像におまかせ」  そう言って笑う林藤の顔は、いつもの人を食ったような表情ではなかった。どこか穏やかで、だからこそ感情が読めない。  苦労が、なかったはずはないだろう。異性愛が普通の社会、だということを、林藤はよほど痛感しているに違いないのだ。 「……林藤って、そういえば、いつから?」 「何が」 「だから……そういう、男が、好きとか」 「おまえね、頭悪い質問するんじゃないよ。途中から宗旨変えするゲイなんて聞いたことねえよ。物心ついたときからに決まってんだろ」 「……そうか。そうだよな。でもおれ、確かに今まで好きになるのは女の子だったけどさ、やっぱり委員長のこと、気のせいとは思えないんだよ。おれ、変なのかな」 「さあなあ。でもまあ、そういうこともあるのかもな」 「そういうこと?」  林藤は腕を組み、視線を窓の外へ向けた。他人事みたいに、いや、実際には他人事なんだろうけれど、さして興味なさそうな口調で言った。 「おまえは男が好きなんじゃなくて、波が好きなんだろうな」  わかるようで、よくわからなかった。それは同じことではないのか? だって、波は男だ。  緑が答えられずにいると、ついでのように林藤が付け加えた。 「ま、いいんじゃないの。好きなもんは好きで」 「いいのか?」 「何が」 「おれが、委員長のこと、好きでも」  今度こそ林藤は、いつものような人を食ったような笑みを浮かべた。 「なんで俺に許可とらねえといけないんだよ。おまえのことだろ」 「まあ、そうだけど」 「好きにすれば」  そう言って林藤は、その話題から興味を失ったみたいに洗いものの続きを始めた。水が金属やガラスにあたる騒々しい音を聞きながら、緑はさっき林藤に言われたことを、ずっと頭の中で反芻していた。

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