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 まさか。そんなわけはない。  きっと何か、言いにくいことがあるのだ。もしかしたらそれは、緑にとって非常に辛い内容かもしれない。妙な期待など頭の中から消し去って、緑は何を言われてもショックを受けないように覚悟を決める。 「な……波?」 「あの、あのさ、あの」  波は、たえまなく視線を動かしながら、やがて意を決したようにまぶたを閉じた。  それから、大きく息をはいて、開いた目を一心に緑へと向けた。 「あの、今さら、って思うだろうけど、緑にもう、彼女が、好きな人がいる、って知ってるけど、でも、もう、言わないと、く、苦しくって、勝手だと思うし、迷惑だろうけど、でも」  緑は、たどたどしい波のセリフを聞きながら、頭の中を真剣に整理していた。  こんなの、都合がよすぎる。  いくらなんでも、たとえ妄想でだって、ありえない。  けれども、波は言った。 「僕、す、すす、好き、な、んだ。み、緑のこ、こと」  言いながら、波は口元を押さえた。  感極まったのか、眦から涙がこぼれる。 「あ、ごめ、こんな……。かっこ悪」  緑は、立ち尽くした。  全力で自分を制御した。  だめだ、ここは公道だ。  波は涙をぬぐうようにして、なおも心境を吐露した。 「……だ、だめなんだ。もう、たまんないんだ。み、緑のことが、好きで、好きで、たまんないんだよ」 「も、言うなよ」  弱々しい声で、遮った。波が顔を上げる。  色白の頬が、紅潮している。うるんだ瞳が緑を見上げてくる。 「……ごめ……、僕」  申し訳なさそうに顔を伏せる波に、緑は一歩近寄った。素早く辺りを見渡す。今、通行人が現れないことを祈る。 「波」  細い肩を、思いきり抱きしめた。耳元で波が息をのむのがわかる。 「っそんなふうに言うなよ。こんなことしたくなっちゃうだろ。外なのにっ」  一瞬だけ、波の体温を感じてから、すぐに体を離した。すぐさまもう一度、辺りを確認する。人はいない。 「……緑?」  放心する波に、緑は小声で言い立てた。 「そんなふうに言われたら抱きしめたくってしょうがないよ。泣くなよ。めちゃめちゃ」  かわいいだろ、という言葉は、飲み込んだ。波はぽかんと目を見開いている。 「……だって、緑、彼女」 「誓って言うけど、嘘じゃないからな。昨日、別れたんだ。電話して。波のことまだこんなに好きなのに、それをごまかすためにつき合うなんて彼女に悪いと思ったから。絶対、嘘じゃないから」 「……ほんとに?」 「だから嘘じゃないって」 「そこじゃなくて、その」 「え?」 「まだ、僕のこと……」 「あ、当たり前だろ」  そこだけは、自信を持って断言した。波はまだ、事態が飲み込めないでいる。 「……僕、緑はもう、とっくに心変わりしてるんだと思ってた……」 「そんな簡単に忘れられるわけないだろ。まだひと月も経ってないのにさ」 「だって……」  まだ納得していない波に、今度は緑が言い寄った。 「でも、波はいったいいつからなんだよ。あのときは、断ったじゃないか」 「それは……」 「おれはすっごく落ち込んで、でもなんとか波を忘れようとして、必死だったんだぜ?」 「だって、緑が」 「おれが?」 「名前、呼ぶから……」 「名前?」  波の顔が、見る間に赤くなってゆく。その表情の変化を、緑は楽しんだ。 「だって、波が呼べって言ったんだろ」 「そ、それはそうなんだけど」 「名前呼ばれたから、好きになったの?」 「そ、そういうわけじゃないけど」 「じゃ、どういうわけさ」  つい、口元がほころんだ。にやにやと笑ってしまう。  それに気づいて、波は抗議の目を向けてくる。 「か、からかってるな、おまえ」 「とんでもない」  かわいくてたまんないだけだ、と言ったら、きっと波はもっと怒るだろう。 「おれ、マジで、すっげ嬉しい」  波は? と、表情で訊いた。まだ泣き出しそうな危うさを残した顔で、波はうなずいた。 「ぼ、……僕も」 「あー、もうほんとやばい」 「何が」  緑は両手を戒めるように腕を組む。 「悔しいなあ。おれ、すっげ波にさわりたいよ。手ェつなぎたいし、抱きしめたい。くっそう。こんなとこじゃ何にもできないや、ちきしょう」  ようやく落ち着いたのか、波もやわらかな笑みを浮かべた。  右手がゆっくり持ち上がって、緑の前に差し出される。 「……じゃ、握手」 「え?」 「これなら、普通だろ?」  角を曲がって、郵便配達のバイクがやってきた。二人のわきを通り抜けてゆく。 「……ま、しょうがないか」  右手を出して、波の手に重ねる。秋風に冷えたのか、指先が冷たい。けれども、波の手だ。  波の手は、滑らかで心地よかった。できることならずっと、触れていたい。 「じゃ、これからも、よろしく、ってことで」 「こちらこそ」  顔を見合わせて、二人は笑った。  さて、林藤になんて報告しよう。  緑は幸福な気持ちで、友人のことを思った。                                                                 -了-

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