12 / 12
***
まさか。そんなわけはない。
きっと何か、言いにくいことがあるのだ。もしかしたらそれは、緑にとって非常に辛い内容かもしれない。妙な期待など頭の中から消し去って、緑は何を言われてもショックを受けないように覚悟を決める。
「な……波?」
「あの、あのさ、あの」
波は、たえまなく視線を動かしながら、やがて意を決したようにまぶたを閉じた。
それから、大きく息をはいて、開いた目を一心に緑へと向けた。
「あの、今さら、って思うだろうけど、緑にもう、彼女が、好きな人がいる、って知ってるけど、でも、もう、言わないと、く、苦しくって、勝手だと思うし、迷惑だろうけど、でも」
緑は、たどたどしい波のセリフを聞きながら、頭の中を真剣に整理していた。
こんなの、都合がよすぎる。
いくらなんでも、たとえ妄想でだって、ありえない。
けれども、波は言った。
「僕、す、すす、好き、な、んだ。み、緑のこ、こと」
言いながら、波は口元を押さえた。
感極まったのか、眦から涙がこぼれる。
「あ、ごめ、こんな……。かっこ悪」
緑は、立ち尽くした。
全力で自分を制御した。
だめだ、ここは公道だ。
波は涙をぬぐうようにして、なおも心境を吐露した。
「……だ、だめなんだ。もう、たまんないんだ。み、緑のことが、好きで、好きで、たまんないんだよ」
「も、言うなよ」
弱々しい声で、遮った。波が顔を上げる。
色白の頬が、紅潮している。うるんだ瞳が緑を見上げてくる。
「……ごめ……、僕」
申し訳なさそうに顔を伏せる波に、緑は一歩近寄った。素早く辺りを見渡す。今、通行人が現れないことを祈る。
「波」
細い肩を、思いきり抱きしめた。耳元で波が息をのむのがわかる。
「っそんなふうに言うなよ。こんなことしたくなっちゃうだろ。外なのにっ」
一瞬だけ、波の体温を感じてから、すぐに体を離した。すぐさまもう一度、辺りを確認する。人はいない。
「……緑?」
放心する波に、緑は小声で言い立てた。
「そんなふうに言われたら抱きしめたくってしょうがないよ。泣くなよ。めちゃめちゃ」
かわいいだろ、という言葉は、飲み込んだ。波はぽかんと目を見開いている。
「……だって、緑、彼女」
「誓って言うけど、嘘じゃないからな。昨日、別れたんだ。電話して。波のことまだこんなに好きなのに、それをごまかすためにつき合うなんて彼女に悪いと思ったから。絶対、嘘じゃないから」
「……ほんとに?」
「だから嘘じゃないって」
「そこじゃなくて、その」
「え?」
「まだ、僕のこと……」
「あ、当たり前だろ」
そこだけは、自信を持って断言した。波はまだ、事態が飲み込めないでいる。
「……僕、緑はもう、とっくに心変わりしてるんだと思ってた……」
「そんな簡単に忘れられるわけないだろ。まだひと月も経ってないのにさ」
「だって……」
まだ納得していない波に、今度は緑が言い寄った。
「でも、波はいったいいつからなんだよ。あのときは、断ったじゃないか」
「それは……」
「おれはすっごく落ち込んで、でもなんとか波を忘れようとして、必死だったんだぜ?」
「だって、緑が」
「おれが?」
「名前、呼ぶから……」
「名前?」
波の顔が、見る間に赤くなってゆく。その表情の変化を、緑は楽しんだ。
「だって、波が呼べって言ったんだろ」
「そ、それはそうなんだけど」
「名前呼ばれたから、好きになったの?」
「そ、そういうわけじゃないけど」
「じゃ、どういうわけさ」
つい、口元がほころんだ。にやにやと笑ってしまう。
それに気づいて、波は抗議の目を向けてくる。
「か、からかってるな、おまえ」
「とんでもない」
かわいくてたまんないだけだ、と言ったら、きっと波はもっと怒るだろう。
「おれ、マジで、すっげ嬉しい」
波は? と、表情で訊いた。まだ泣き出しそうな危うさを残した顔で、波はうなずいた。
「ぼ、……僕も」
「あー、もうほんとやばい」
「何が」
緑は両手を戒めるように腕を組む。
「悔しいなあ。おれ、すっげ波にさわりたいよ。手ェつなぎたいし、抱きしめたい。くっそう。こんなとこじゃ何にもできないや、ちきしょう」
ようやく落ち着いたのか、波もやわらかな笑みを浮かべた。
右手がゆっくり持ち上がって、緑の前に差し出される。
「……じゃ、握手」
「え?」
「これなら、普通だろ?」
角を曲がって、郵便配達のバイクがやってきた。二人のわきを通り抜けてゆく。
「……ま、しょうがないか」
右手を出して、波の手に重ねる。秋風に冷えたのか、指先が冷たい。けれども、波の手だ。
波の手は、滑らかで心地よかった。できることならずっと、触れていたい。
「じゃ、これからも、よろしく、ってことで」
「こちらこそ」
顔を見合わせて、二人は笑った。
さて、林藤になんて報告しよう。
緑は幸福な気持ちで、友人のことを思った。
-了-
ともだちにシェアしよう!