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林藤はいったい、何を怒っているのだろう。
波のことなら、緑は人一倍気を使ってきたつもりだ。波を不快にさせないよう、気まずくならないよう必死だった。それがどうして、彼を泣かせることになるというのだろう。
廊下は静まり返っていた。一般生徒はほとんど帰宅している。
資料室の後片付けも、普通の文化委員ならしなくてもよい。緑は副委員長だからこそ、こうして微妙な心境を持て余している。緑をこの役に指名した波を恨んだ。せめて今日は、会いたくない。落ち着いて言葉を交わせるか、不安だった。
扉を開けると、薄暮の中に波が一人でいた。振り返って緑を確認すると、つめていた息を吐くように、肩が上下した。
「良かった。来てくれたんだ」
ふっ、と、笑みをもらした。その消え入りそうな儚さに、緑はなぜか心を痛めた。
「あ、ごめん。遅くなって」
テーブルの上はもう、だいたい片付いてしまっている。緑ができることなど、ほとんどなかった。
「終わっちゃってるな。ごめん、ほんと、全部やらせちゃって」
「いいよ、全然、たいしたことなかったし」
久しぶりに、波の声を聞いた気がした。いつもの、滑らかな口調だ。何の気兼ねもなかったころのような。
「終わったな」
「……うん。終わった」
しん、とした教室に、穏やかな空気が満ちていた。遠くで野球部の掛け声が聞こえる。文化祭が終わったとたん、グラウンドで練習が始まったらしい。
これで、緑の仕事も終わりだ。二学期はまだ続くが、文化委員としての大仕事はひとまず終了した。委員会も月に一度になるし、波と顔を合わせる機会も減る。それは寂しくもあったが、気楽なことでもあった。波のほうでもそうに違いない。最後だからきっと、気を許してくれるのだ。そう思った。
だから、資料の入った段ボール箱を所定の位置に収め、職員室の担当教諭に報告をすませて玄関まで降りたとき、波の誘いに動揺した。
「あ、あのさ、一緒に帰らない?」
言い出しの音が、上ずっていた。緑は息をのむ。
林藤の言葉が蘇る。
――好きな相手なら、もっとよく観察しろ。
――相手が何を思っているのか全身全霊で考えろ。
「あ、……うん」
緑の返答に、波はぎこちなく笑った。林藤に何も言われていなければ、そのぎこちなさは単純に、緑を疎 んでいるせいだと映っただろう。
でも、深読みすれば、また違った意味合いにもとれた。
波はまさか、緊張している?
おれを誘うことに?
学校を出て並んで歩きながらも、波は何も言わなかった。うつむきかげんに前方をみつめて、緑の歩調に合わせている。
住宅街を抜けると、通りを挟んですぐに駅だ。波と緑はそこから違う路線に乗り込むため、別れてしまう。
このまま何も話さずに、同じ帰路を終えてしまっていいのだろうか。
そんな自問が頭をよぎったとき、不意に波が足を止めた。
「……波?」
振り返りざま、名を呼ぶと、波の肩がわずかに震えた。
おびえているのだろうか。いや違う。
瞬きが、いつもより多い。
「あ、あのさ、み、緑」
「……ん?」
あたりに人影はない。常から人通りの少ない界隈だ。生徒の通学時間もとっくにそれた。
秋口の肌寒い風が吹きぬける。
「……あの」
言いよどむ波の表情に、何度も言葉を飲み込む口元に、緑は唐突に、似た風景を思い描いた。この状況は、あれに似ていないか。
あの、いわゆる、自分に都合のよい妄想にあてはめると、つまり、その。
告白の場面 に。
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