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七月第三週①
遡ること十五年も昔のこと。私は、既に専業の作家であったが、当時はかなり行き詰っていた。理想と現実の隔たりに煩悶する日々に疲れ果てた私は、休息の旅と称して出奔した。癒しと、安らぎと、ほんのちょっとの刺激を求めていた。
辿り着いたのは、南の果ての珊瑚の島だった。雲一つない、抜けるような紺碧の空と、素肌にしっとりと吸い付く、粉雪のような白い砂浜。薄荷色の浅瀬と、瑠璃色の沖合。果てしなく続く水平線。まさしく、この世の楽園だった。ここを終の棲家にしてもいいとさえ思えた。
「お兄さん。何してんの」
俺は、ヤクルトスワローズのキャップを目深に被って、潮風を感じながら砂浜に寝そべっていた。暗闇の中、少年とも少女ともつかない、若く麗らかな声がした。
「お兄さん。寝てるの?」
子供は、俺の帽子を勝手に取り去り、不躾に顔を覗き込んできた。
「なんだ。起きてんじゃん」
生意気な子供だ。顔付きまで小憎らしい。第一印象はそれに尽きた。
「他人様の昼寝を邪魔するな。学校でどんな教育を受けてんだ」
俺は、体を起こしてキャップを被り直した。
「別に、そんなこと教えられてないし」
見たところ、少年のようだった。くすんだ赤色のタンクトップに、薄いベージュのハーフパンツを着て、足下は黄色い鼻緒の島草履を履いている。
髪は長めで、惚れ惚れするほど黒々としていて、潮風に吹かれてさらさら靡いた。あまり肉付きがいいとは言えない薄っぺらい体で、手足は引き延ばされた飴細工のように細長かった。タンクトップは襟ぐりや腋ががっつり開いて、ズボンの裾もだぼだぼしていて、健康的な小麦色の肌が白日の下に晒されていた。
「お兄さん、内地の人でしょ?」
少年は、俺の隣に、足を投げ出して座った。猫の目のようにくっきりとしていて濃い、形は平行四辺形に近い、黒目がちのつぶらな瞳をくりくりさせる。
「観光?」
「まぁ、そんなとこだ」
「泳がないの? ここ、一番人気のビーチだよ」
「そのわりに、全然人がいねぇけど」
「まだ夏休み前だからだよ」
透き通った波が緩やかに押し寄せて、砂浜で白い泡の粒となって消え、また海へと返っていく。
「フェリー、今日の最終便、もう行っちゃったけど」
「別に、帰るつもりねぇから」
「泊まれるとこ探してるなら、案内してあげるよ」
「泊まるとこならもう決まってる」
「うそだね。もしそうなら、わざわざトランクなんか持って海に来ないよ」
少年は、生意気に鼻で笑い、浜へ下りる曲がりくねった細い坂道を上っていく。俺は、その後ろ姿を見失わないようにしながら、数メートルの距離を保ってついていった。少年は、俺がついてきているかどうかはあまり気にせずに、慣れた足取りでさくさく歩いた。
景色は、とにかく緑色一色だった。道路は辛うじて舗装されていたが、草むらと原っぱとサトウキビ畑ばかりが、どこまでもどこまでも広がっていた。ようやく集落らしい場所に足を踏み入れたと思っても、出会うのはいつもヤギばかりだ。放し飼いにされているヤギが、草木がぼうぼうの空き地で、のんびりと草を食んでいた。時々、猫もいた。
「ここだよ」
少年が振り向いた。そこは、極彩色の花々が咲き乱れ、フクギの巨木が生い茂り、無造作に積まれた珊瑚の石垣で囲まれた、伝統的な赤瓦屋根の民家であった。屋根の上では、漆喰のシーサーが牙を剥いて、空を睨んでいた。少年は軽やかに駆けていって、玄関の格子戸を開けた。
「ばぁちゃーん。お客さん、連れてきたー」
扉の向こうから見えたのは、おばあちゃんと呼ぶにはまだ早いような、若々しい老人だった。白髪交じりの短い髪をくるくるパーマにして、小花柄の前掛けを着けている。年齢は五十代半ばか、せいぜい六十と少しと見え、俺の両親と然程違わない。
「お客さん?」
「ニシの浜で行き倒れてたから、連れてきた」
「行き倒れてたわけじゃねぇけど……」
予約もせず突然押し掛けたのに、おばあちゃんは快く俺を迎え入れてくれた。無事、今夜の宿が決まった。
小上がりになっている玄関を上がり、食堂として使われているらしい大広間へと通された。長方形の座卓が数台並び、端の方に座布団が積まれている。簡素な笠を被せただけの剥き出しの蛍光灯が、天井から吊るされていたが、大きな窓からの採光が良いので、明かりは消されていた。
少年に宿帳を渡され、俺は必要事項を記入した。最近のホテルで宿帳といえば、ペラペラの紙切れ一枚を渡されることが多いが、ここの宿帳は、年季の入った分厚い帳面であった。右綴じで縦書きの、ノートというよりは帳面という雰囲気の代物で、個人情報保護も何もあったもんじゃない。少年は、俺の手元をじろじろ見ては、生意気な口を叩く。
「うっそ。お兄さん、無職なの? 無職のくせに、こんな遠くの島まで遊びに来たわけ? やばいね、それ。お金あるの? 宿代だけはちゃんと払ってくれなきゃ困るからね」
「……とーばるって、どういう意味だ?」
「えっ?」
俺の急な問いかけに、少年は首を傾げた。おばあちゃんは、厨房で作業をしている。
「ここの名前、とーばる荘っていうだろ。どういう意味?」
「あ、ああ、それ。うちの名字だよ。果物の桃に、原っぱの原で、桃原」
「ふーん。変わってんな」
「そう? そんなに珍しくもないでしょ」
「お前、名前は?」
「何、さっきから質問攻めで……。ナギサっていうんだ。さんずいに丁寧の丁で、汀」
少年は、凸凹とした木目の目立つ、手垢まみれのテーブルに、汀と指で書いた。指先まで褐色に焼けていたが、指自体はほっそりとしていて、艶のある薄い爪は淡い桃色だった。
「お兄さんの名前は?」
「ここに書いてあんだろ。字、読めねぇの」
「バカにしないで」
汀は、俺の正面からわざわざ隣に移動してきて、帳面を覗き込んだ。俺の名前を、指でなぞる。
「高、峰……岳斗 、さん?」
「なんでカタコトなんだよ」
「笑わないでよ。合ってるでしょ?」
「合ってる合ってる。ま、これからしばらく世話になるわけだから、お互い仲良くしような。汀クン?」
有難いことに、晩ご飯は宿でいただいた。おばあちゃんは、何も用意がなくて申し訳ないなんて言っていたが、米と汁物とメインのおかずと小鉢二皿という、かなりちゃんとした形式の食事を出してくれた。
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