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七月第三週②
障子紙を透かした朝日が部屋に差し込んで、俺は目を覚ました。使い古された煎餅布団の寝心地は最上とは言い難いが、長旅の疲れは取れた。
「岳斗さん!」
突然、廊下側の障子が開いた。俺が鍵を締め忘れたのではない。元々鍵がないのだ。隣の部屋との仕切りも襖で、プライバシーも何もあったものじゃない。汀は、寝穢く布団と仲良くしている俺を見て、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「おにーさん、今何時だと思ってるの」
「知るかよ。この部屋、時計ねぇし」
「もう八時になるよ。朝ご飯は七時半だって、昨日言っといたでしょ。ほら、行くよ」
汀は、まだ布団から離れたくない俺の腕を掴み、引っ張った。俺は、自分の手が随分汗ばんでいることに気が付いた。汀の手は、さらりとしていて冷たかった。
俺が朝食を取り始めると、汀はさっさと学校へ行った。さっぱりとした清潔そうなワイシャツを着て、黒いスラックスにベルトを締めて、厚地の布製の鞄、所謂ズック鞄というやつを肩に掛けて、元気よく駆けていった。
戸棚の上に小型ブラウン管テレビが置かれ、朝のニュースを映している。アナウンサーは標準語を喋るし、内容も東京と然程変わらないが、ニュースにもローカル枠というのがあって、水族館でイルカの赤ちゃんが生まれたとか、甲子園の地方大会の結果がどうだとか、どこぞの島でどんな祭りがあるとか、そんな風なローカルニュースも流していた。
のんびりと朝食を終える頃には、太陽はすっかり昇り切っていて、容赦のない陽射しが赫々と照り付けていた。おばあちゃんが、せっかくだから色々見て回っておいでと、自宅のママチャリを貸してくれた。暑いだろうからと、薄手の上着も貸してくれた。
集落内は、案外、全く何もないというわけではなかった。それなりの商店や飲食店が営業している。どれもこれも小規模ではあるが、ちょっと立ち寄ってビールを飲んだり、カレーを食べたりすると、かなり満足感が得られた。そのせいで、少し張り切り過ぎてしまった。海岸沿いの道を、風を切って走ったら、さぞかし気持ちがいいだろうと思い立ったのだ。
結果は惨敗である。集落の外は、本当に何もない。どこまで行っても、畑、畑、畑に次ぐ畑。サトウキビ畑を風が通り抜けて、ざわわざわわとさんざめくだけ。空の青は美しく、海の青が遠くに見えるが、視界を占める割合は緑が圧倒的だった。ヤギの放牧場なんかもあったが、やはり圧倒的緑だ。自然の暴力だ。あまりに同じ景色が続くので、方向感覚が狂ってくる。
俺は、己の体力を過信していたらしい。そして、南国の熱さを舐めていた。暑いというより、痛い。陽射しが痛い。アスファルトの照り返しも厳しい。こんなことなら、サングラスを買っておくんだった。後悔しても今更遅い。
いきなり、真っ赤な自動販売機が現れた。何にもない広大な自然の中に、明らかな人工物がぽつんと佇んでいる。砂漠でオアシスを見つけたような気分になったが、そういう場合のオアシスは幻で、水を掬った瞬間に消えてしまうものだ。けれども迷っていられる余裕もなく、俺は即座に百円玉を投入した。
何の変哲もないミネラルウォーターを、砂漠で遭難した人間のように貪り飲んだ。からからに渇いた喉に、冷えた水が沁み渡る。汗までが冷えていく。
「……帰るか」
少々意固地になっていたようだ。別に、絶対に島を一周しなければならないわけではない。これ以上、汗水垂らして自転車を漕いだところで、得られるものは何もないだろう。しかし、今来た道――島の外周道路を戻るのは更なる苦行だ。
俺は、島の中心へと繋がっていそうな、最短距離の道を手探りで探しながら、自転車を走らせた。未舗装のガタガタした道と、農道ばかりが続いていた。サドルが尻を打ち、太腿が悲鳴を上げた。
「あれっ、おにーさん」
やっとの思いで集落へ辿り着き、宿へ向かって走っていると、どこからか少年の声がした。
「こっちだよ。こっちこっち」
共同売店の軒下のベンチで、夕焼け色のアイスキャンデーを舐めながら、汀が手を振っていた。学校帰りに、友達と道草を食っているらしい。
「誰?」
「うちのお客さん。昨日から泊まってる」
俺は自転車を停め、一番端に座っていた汀の隣に腰掛けた。他に、制服姿の少年が三人並んでいる。全員中学生だろう。気持ちのいい挨拶をしてくれた。
「岳斗さん、アイスいいの? おいしいよ?」
「甘いものは、今はあんまりな……」
「岳斗さんっていうんだ。内地の人だよね? やっぱ海見に来たの?」
一番奥に座る少年が言った。
「まぁ、そんなとこだな」
「そーだよね。まー、海くらいしか見るもんないか」
「シュノーケルとか、もうやっちゃった? うち、そういうの色々貸し出してるよ」
汀の隣に座る少年が言う。
「あー、悪ぃけど、体動かすのとかはもう……今日だけで十分っつーか」
「なーんだ。残念」
「うちは飯屋だからさ、よかったら来てよ。親に言っとくね」
真ん中に座る少年が言う。しかしまぁ、どいつもこいつも敬語の使い方を知らないらしい。若干バカにされている感は否めないが、そんな些細なことで声を荒げる俺ではない。
「ダメだよ、みんな。岳斗さん無職だから、うちの宿代払うだけでいっぱいいっぱいだもん」
汀が余計なことを言った。汀の友達は、「えーっ!」「うっそー!?」などと、やたらと大袈裟なリアクションで驚きを顕わにした。実に失礼な子供らである。俺は、汀の首に腕を回して小脇に抱え、その頭頂部を拳骨でグリグリ小突いてやった。汀も友達も、姦しく笑う。
「きゃははっ。ぼーりょくはんたーい」
「お前が余計なことばっか言うからだろが」
「だってー、ほんとのことじゃーん」
「無職は無職でも、貯金のある無職だぞ。旅先で使う金なんぞ、掃いて捨てるほどあるわ」
「ほんとに?!」
汀は、俺の腕からするりと抜け出て、立ち上がった。
「みんなっ、岳斗さんがアイス二本目奢ってくれるって!」
「マジで!? あざーす!」
「はぁ? おい、んなこと一言も――」
訂正する間もなく、少年達は喜び勇んで店内へ雪崩れ込んだ。一般的なコンビニよりもずっと品数が少ない、古い駄菓子屋か大学生協のような雰囲気の売店だった。昔懐かしい、内側に霜のついた蓋付きの冷凍ショーケースに、彩り豊かなアイスキャンデーが並んでいて、少年達は、それぞれ好みの味のものを選び取ると、早速レジへと持っていった。物は試しと、俺も一本買った。
アイスを舐めながら帰路に就き、友達とは分かれ道で別れた。二人きりになると、汀は、俺の押す自転車のカゴに鞄を放り込んだ。
「重い」
「ケチ」
「アイス買ってやっただろうが」
「たった百円じゃん」
「お前、ほんとかわいくねぇな」
汀は、かわいくなくていいもん、と言わんばかりに、口を窄めてアイスキャンデーを頬張った。アイスの先端が頬の内側に当たるらしく、頬がぷくぷく膨らんだ。薄いグリーンのアイスが溶けて、唇がいやに赤く見えた。
「何味」
「ゴーヤ」
「ゴーヤ?!」
思わず、オウム返しに叫んでしまった。汀は、迷惑そうな顔をする。
「いちいちうるさいよ、岳斗さん」
「いや、だってなぁ。旨いの?」
「うん。ちゃんと甘いよ。食べてみる?」
汀に差し出されたアイスキャンデーを、俺はほんの一口齧った。シャリシャリしていて冷たくて、前歯に沁みた。
「案外いけるな」
「でしょ」
「別に苦くないし、そんなに甘くもない。さっぱりしてる」
「岳斗さんのは何味?」
「シークヮーサーだ。食うか?」
「うん……」
汀は、何やら含みのある笑みを浮かべた。
「悪い、知らんおっさんの食いかけは嫌だよな」
「え? いや、岳斗さん、別におじさんじゃないし」
「それにお前、この島に住んでるんだもんな。わざわざ俺の食いさしを食わなくたって、いくらでも食う機会はあるわな」
「うん、まぁ……」
甘酸っぱくて、すっきりと爽やかなシークヮーサーの風味が、口の中いっぱいに広がった。汀は、俺を先導するように、自転車の前を速足で歩いた。
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