8 / 32

七月第五週②

 翌朝、俺はひとりでに目が覚めた。添い寝をしていたはずの汀の姿はなくなっていた。俺は、朝食の時刻を無視し、七時半過ぎまで布団の上で待った。じきに遠慮のない足音が近付いてきて、縁側の障子に影が映った。   「岳斗さん! また寝坊だよ!」    勢いよく障子を開けた汀は、予想に反して俺が起きていたので、少したじろいだようだった。   「おはよう」 「起きてるなら、遅れないで来てよ」 「お前が来るかと思って」    我ながら、何を言っているんだという感じだ。汀は、柱の陰にこそっと隠れた。   「何言ってんの。変な岳斗さん」 「お前、今日は用事あんの」 「今日は部活……」 「お前、部活なんかやってたのか」 「あ、いや、そんなガチのやつじゃないよ。みんなで集まって、ちょっと、遊ぶというか。ボール遊びとか」 「へぇ。楽しいの」 「うん、まぁ」 「それ、俺も行ってもいいやつ?」 「えぇ?」    俺の提案に、汀は怪訝そうに小首を傾げた。    朝は宿の手伝いをし、午前中は宿題のプリントを終わらせ、昼食におにぎりと漬物を摘まんで、汀はようやく遊びに出かけた。俺は自転車の荷台に乗せてもらった。    向かった先は学校だ。田舎ではよくある小中併置校で、同じ敷地内に託児所も設けられているらしい。敷地を囲うのは一般的な平たい石塀で、歴代の卒業生が残していったらしいカラフルな壁画が描かれていた。門柱は珊瑚の石垣で、校舎は古い木造の二階建て、屋根は瓦葺きだった。昭和初期に建てられたような雰囲気だった。    手入れの行き届いた花壇が美しく、グラウンドは、サッカーと野球とテニスを同時にプレイしても余裕がありそうなほど広かった。ブランコやシーソー、ジャングルジム、鉄棒や登り棒、雲梯といった子供のための遊具も、古そうではあるが充実していた。   「なんか、ここまでついてきちゃったけど、これ俺が入っちゃまずいやつだろ」 「なんで?」 「だってどう見ても不審者だろ。いくら校門が開いてたからって、勝手に入るのはまずいよな……」 「んー、じゃあ、挨拶してく?」    職員室では、夏休みでも関係なく、先生方が仕事をしていた。汀の姿を見つけると、教員の一人が窓を開けた。冷房がばっちり利いていて、冷気が漏れ出てきた。    土地柄故か、先生方は大変大らかだった。俺のような、得体の知れない成人男性が突然押し掛けてきても、嫌な顔一つせずに迎えてくれた。それだけでなく、「怪我しないように、準備運動はしてくださいね」と気を遣ってもらってしまった。    体育館は、比較的新しかった。昭和中期以降に建てられた雰囲気だ。既に集まっていた三人の男子生徒――以前、売店でアイスキャンデーを奢ってやったあの三人である――は、バスケットボールで遊んでいた。体育館シューズは隅の方に放置され、みんな裸足だった。   「汀、おせーよ」    一番体格のいい少年が言う。   「ごめんごめん。職員室寄っててさ」 「っていうか、岳斗さん!? まだ泊まってたんだ。長いね~」    いかにも中学生らしい、坊主頭の少年が言う。   「暇すぎて死にそうだって言うから、可哀想だから連れてきた」 「そりゃあそうだよ。普通、せいぜい二泊で帰るよ」    昨日世話になったレンタルショップの息子、眼鏡の少年が言う。   「でも、五人で何する?」 「バスケもバドも、一人余るよ」 「そんで、岳斗さんは何をしてるわけ」    俺は、屈伸と伸脚を終えて、アキレス腱伸ばしをしている最中だった。   「準備体操。お前らもちゃんとやれよ」 「えー……」 「何だよ、その白けた返事は。準備体操しないとなぁ、あれだぞ、大変なことになるぞ。アキレス腱がブヂィッと切れたり、ふくらはぎの筋肉が裂けたり、半月板が割れて歩けなくなったりすんぞ」    脅かしてみても、空気は白けたままだ。   「先生もよくそうやって脅かしてくるけど、そんな風になったやつ、見たことないし」 「そういう怪我するのって、普段運動しない人が調子乗った時だけでしょ」 「だから岳斗さんは気を付けた方がいいんじゃない? 運動不足っぽいし、大人だから怪我すると大変だよ」    本当に、小生意気な子供らだ。大人を舐め腐っている。特に汀。最後の台詞は、汀が言ったものだ。   「てか、どうせやるなら、もっとちゃんとした方がいいよ。色々足りなくない?」 「これやってないよね、これ」「あとこれも」    前後屈運動と、腕を伸ばす運動らしい。俺は、少年らの動きを真似た。   「岳斗さんの学校では、準備体操の仕方、教えてくれなかったの?」 「教えてもらったけど、んなもんとっくに忘れたわ。何年前の話だと思ってんだよ」 「十年くらい?」 「さすがにそこまで昔じゃねぇよ。俺のこと、何歳に見えてんの?」 「あとジャンプもしてないよ」    汀がその場でぴょんぴょん飛び跳ね始めた。他の三人も、「ああ、これね」とばかりにジャンプし始める。掛け声に合わせ、手足を開いたり閉じたりする。「岳斗さんも」と汀に言われ、俺もその場でジャンプした。    自己紹介が遅れたが、体格のいいリーダー格がテツくん、坊主頭の丸顔がダイちゃん、眼鏡を掛けているのがケンちゃんというらしい。テツくんの提案で、今日は中当てをして遊ぶことになった。本当はドッジボールがしたいのだろうが、人数が少なすぎてできない。    俺とダイちゃんとケンちゃんが内野、汀とテツくんが外野でスタートした。二人とも現役の中学生だけあって、なかなか鋭い球を投げる。ケンちゃんは軽やかにボールを避けるが、ダイちゃんは体が重たそうだった。    最初にアウトになったのは、もちろん俺だ。汀のボールに当たった。汀は内野に入り、俺は外野に出る。「絶対仕返ししてやっからな」と俺が宣戦布告すると、テツくんは迷惑そうに「捕れないボールはやめてよね」と言った。    次に、テツくんのボールがダイちゃんに当たり、ダイちゃんのボールがケンちゃんに当たった。ケンちゃんに当てられる前に、俺が汀をアウトにしたい。   「ふふ。岳斗さん、顔怖いよ」 「そりゃあお前、このままだと俺だけ情けない感じになるじゃねぇか」 「だって、岳斗さんのボール、弱いんだもん」    足下を狙ってもジャンプで避けられ、体の中心を狙えばもちろんボールを捕られ、頭上を飛ばしてもジャンプして捕られる。捕られたボールは遠くへ投げられて、俺は体育館の隅まで取りに行かなくてはいけなくなる。   「くそっ、またかよ!」 「岳斗さんが弱いのが悪いんだよーだ」    汀は、俺をおちょくるようにベロを出し、捕ったボールを遠くへ投げた。ケンちゃんの方でなく、必ず俺の背後へ投げる。これで何回目だろう。俺が転がるボールを必死で追いかけている間、他の四人は休憩時間である。それもまた腹が立つ。    次こそ絶対に当てる! と意気込んで、俺はボールを投げた。今までで一番勢いのある投球だった。スピードもあるし、狙いも悪くない。ただまぁ、どうせ今回もキャッチされるのだろうと思っていたら、今回ばかりは運の悪いことに、汀は、がっつり顔面でボールを受け止めたのだった。    ボールの当たる鈍い音、床で弾む乾いた音が、がらんとした体育館内に反響した。汀は口元を押さえて、膝から崩れ落ちるように蹲った。   「悪い! 大丈夫か?」    距離的に近かったテツくんとダイちゃんの方が先だったが、俺もすぐさま汀の元へ駆け寄った。   「見せてみろ」    俺は、汀の顔を上げさせた。鼻血が出ていた。汀が、溢れ出る鼻血を手で拭おうとするので、俺はそれをやめさせて、持ってきていたティッシュペーパーで鼻を押さえた。他の三人は、心配そうに見守っている。   「歩けるか?」 「ん……」    俺は、体育館の隅の窓際に、汀を座らせた。幸い、出血量は多くはなかった。   「しばらくじっとしてれば止まるはずだから。あっ、上は向くなよ。普通に座ってろ」 「ん。ありがと」 「俺の方こそ悪かったな。痛いか?」 「ううん。へーき」    ドッジボールは一時中断で、休憩時間となった。体育館の外の水道で、各々水を飲んだり顔を洗ったり、頭まで濡らしたりしていた。俺は、汀に付き添った。休憩の間に、鼻血は止まった。        雲が出て、日が陰ってきた。すっかり聞き慣れた夕方のチャイム、『えんどうの花』が鳴り響き、子供達に家路を急がせる。俺達も例外ではない。テツくん、ダイちゃん、ケンちゃんとは校門前で別れ、俺は汀の自転車を借り、サドルを上げた。   「帰りは俺が漕ぐからな。ほら、乗れよ」 「そんなに気ぃ遣わなくても、おれもう平気だよ」 「別に気ぃ遣ってるわけじゃねぇよ。俺がそんな殊勝な人間に見えるか?」    汀は、ふるふると首を振る。   「だろ。いいから乗れ。早くしねぇと、晩飯の時間に遅れる」    汀は、荷台の端を掴んで跨った。   「でも、あっちの道は駐在所があるから、こっちから帰ろ」 「なんでだよ。遠回りじゃん」 「いいから。早くして」    汀は、俺の背中を肘で小突く。仕方なく、俺はゆっくりとペダルを踏んだ。日頃の運動不足が祟り、腕が筋肉痛だ。太腿も痛い。荷台に座っているだけの汀が羨ましい。   「でもさ、岳斗さんって、いざって時には役に立つよね」 「何だよ、その言い方は。絶妙にムカつくな」 「だって、そうじゃん」 「普段は役に立たないって?」 「そんなこと言ってないけど」 「言っただろ。俺にはそう聞こえたね」    家々の隙間を縫うように走る細い道を、くねくねと進む。夕方のチャイムが鳴ったわりに、夕方にはまだまだ遠いが、それでも、頬を撫でる風は優しく、心地いい。食欲をそそる味噌汁の匂いが、どこからか漂ってくる。    不意に、汀の手が俺の腰に回った。あまり強い力でなく、おずおずとしがみつく。背中に、汀の体温が密着する。俺は、どっと汗を噴いた。シャツに染みるほど汗を掻いたのを、汀に悟られていたらどうしようと思った。   「き、急に何だよ。そんなひっつくな」    汀は黙り込んだまま、俺にしがみついて放そうとしない。ぷにっとしたほっぺたの感触が伝わってくる。心臓の鼓動までが響いてきて、呼応するように俺の心臓も早くなる。背中が熱くて堪らなくて、汗が引かない。尻の方まで、汗が滝のように流れている。   「……岳斗さん。明日も明後日も、おれと一緒にいてくれる?」    胸を打つ鼓動の間隙を縫って、汀の呟きは確かに俺の耳に届いた。

ともだちにシェアしよう!