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八月第二週①-①

「岳斗さん。がーくーとーさん。起きてよぅ」    甘やかな声が、鼓膜を震わせる。汀が、俺の枕元に座っていた。   「お前……随分お上品な起こし方するようになったな」    客の部屋に勝手に入り込むのは相変わらずだが。   「つか、朝飯には早すぎねぇ? 俺、ぎりぎりまで寝てたい派なんだけど……」    縁側の障子の向こうはまだ薄暗い。枕元に置いている腕時計を確認すると、なんと、六時前だった。真夏のこの時間ならもっと明るくてもいいはずだが、南西諸島の朝は遅いのである。   「岳斗さん、いいもの見に行こう」    汀の漕ぐ自転車の後ろに、半ば強制的に乗せられて、向かった先は港だった。漁港だが、船は漁に出払っており、静かだった。また、石垣島からのフェリーの発着場でもあるが、第一便の時刻はまだまだ先なので、やはりしんみりと静かだった。潮の香りと朝露の匂いが混ざり合う中、汀は、沖へ向かって真っ直ぐ伸びる、長い長い防波堤を駆けていく。   「そんなに急ぐと、滑って転ぶぞ」 「だって、早くしないと――!」    そう言った矢先、汀は足を滑らせた。俺は咄嗟に、汀の腕を掴んで引き戻した。   「ほら、言わんこっちゃない」 「でも……」    汀は、北東の方角を振り返った。俺もつられて振り向いた。遥か彼方の水平線から、燃え盛る紅焔が僅かに顔を覗かせ、仄白い空を茜色に染め上げた。生まれたての清潔な光が、夜の闇を洗い流し、星々は空に溶けていく。    海から昇る朝日を見るのは初めてだった。俺は密かに感動した。俺に腕を掴まれたまま、汀はいきなり腰を下ろした。俺も、足を投げ出して堤防の縁に座った。すると、今の今まで見えていた太陽は海の底に潜ってしまい、しかし数秒も待たないうちに、水平線を滲ませて再び顔を覗かせた。   「綺麗でしょ」 「ああ」 「朝、早く起きすぎちゃって、外見たら、すっごく晴れてていい天気だったから、きっと朝焼けが綺麗だろうなって思って、岳斗さんにも見てほしくて」    汀の小指が、ちょん、と俺の小指に当たる。沖合に、小船が一艘、青煙を吐いて浮かんでいた。朝日を反射して煌めく、深い藍色の海の上を、滑るように走っていく。燃え盛る光の玉は、一呼吸の間にぐんぐん上昇していき、空の色は、茜色から橙色、山吹色へと移り変わる。    汀の手が、俺の手に重なった。小さくて、汗ばんでいて、微かに震えていた。恐る恐る、まるで腫物に触るように、一本一本指を絡ませる。風がやみ、海は凪いでいる。   「なぁ」    俺が口を開くと、汀は、びくっと肩を震わせた。   「今日は、何する?」 「……何って……」    汀は、俺の手をぎゅっと握る。   「……じゃあ今日は、岳斗さんがまだ知らない場所に、連れてってあげる」 「この小さい島に、俺の知らない場所がまだあるか?」 「あるよ。まだいっぱいある」    いまや、すっかり朝である。太陽は高く、薄くたなびく雲と、澄んだ空が広がる。汀は、俺の手を握ったまま立ち上がり、急かすように引っ張った。        宿に戻り、朝食を終え、俺は近所の自転車屋で、一日千円でレンタサイクルを借りた。汀の先導で宿を出発し、集落を離れて、だだっ広いばかりのサトウキビ畑の間を走っていく。青い空、白い雲、熱い風、果てしなく続く緑。この、いつまでも変わらない景色に、俺はいつしか慣れていた。道路でも牧草地でも関係なく、野生なのか飼育されているのか分からないヤギが闊歩している。この光景も、もう見慣れた。    汀は、何もないところでいきなり自転車を停めた。何もないといっても、ここまでの道のりも特に何もなかった。汀は、藪の中の道なき道を、しかし確かな足取りで進んでいった。緩めのショートパンツからにょっきりと覗く汀の脚の、小麦色に焼けた滑らかな肌に、荒れ放題の草木の枝葉が触れて傷を作るのではないかと、俺は内心はらはらした。   「一応、神聖な場所ではあるんだけど、どうせみんな忘れてるから」    まさにジャングルの奥地のような様相を呈していたが、その一か所だけは、明らかに人の手の入った形跡があった。地面が陥没したような感じで、その場所だけ一段低くなっていて、周囲は石垣で固めてある。石垣は崩れかけ、苔生していたが、何かの跡地なのだろうということは推測できた。   「古い井戸だよ。言い伝えでは、神様が使う井戸なんだって。一度も涸れたことがないんだよ」    汀は、ぽっかりと開いた穴の縁に膝をついて、中を覗き込んだ。井戸には、底が透けて見えるほどに透明な水が、今でも満ち満ちていた。俺も、汀の隣に膝をつく。水鏡が、二人の影を映した。汀は鏡越しに俺を見、にっと口角を上げた。   「昔ね、この井戸に向かって願い事を三回唱えると、何でも願いが叶うって噂が、子供達の間で広まったんだ。だけど、その姿は誰にも見られちゃいけないし、誰かに聞かれてもいけないってことになってて、だからみんな、親にも友達にも内緒で、夜中にこっそりここへ来て、こうやって井戸を覗き込むわけ」    そう言って、汀は身を乗り出す。   「おい、危ねぇぞ」 「ある日、まだ小学校に上がったばかりの男の子がね、やっぱり一人でここへ来て、誰にも聞かれないように用心して、井戸にお願いをしたんだって。だけど、三回唱え終わらないうちに、井戸へ真っ逆さまに落っこちた。雨の後で、滑りやすくなってたんだよ。ここね、こう見えて結構深いんだ」    澄んだ井戸が、底なしの沼に見えてきた。井戸の底から手が伸びてきて引きずり込まれることを想像し、俺は身を起こした。   「死んだのか?」 「さぁ。死んだかもね。昔の話だから知らない」 「……お前、また俺をビビらせようとしてるだろ」    汀は、揶揄うように、八重歯を見せて笑った。   「岳斗さん、やっぱすごいビビりだね」 「何だよ。結局作り話か」 「作り話じゃないよ。本当にあったことだよ」    汀は、さらに身を乗り出して、水面に手を差し入れ、水を掬って飲んだ。旨そうに、喉仏のない細い喉を鳴らして飲んだ。   「んじゃ、次行こっか」    そこからかなりキツかった。時刻はちょうど正午頃で、突き刺すような陽射しがとにかく厳しかった。アスファルトからの照り返しも容赦ない。額に浮かんだ汗が垂れてきて目に入るし、帽子の中は汗の海だし、背中を流れる汗は滝のようだし、パンツの中まで汗びっしょりだ。次から次へと溢れる汗を腕で拭いながら、俺は必死にペダルを回した。    汀は、風通しの良さそうなツバの広い麦わら帽子を被っていたが、その額にも大粒の汗が浮かび、顎を伝ってぽたぽた滴り落ちた。タンクトップの緩い袖ぐりから覗く腋の下が、汗に濡れてしっとりと艶めいて見えた。サドルから腰を上げて立ち漕ぎをすると、白のショートパンツが汗でぺったり張り付いて、下着が透けて見えた。紺とグレーの縞模様だった。    いやいや、と俺は頭を振る。一体何を考えているんだ、俺は。暑さで頭がやられたか。熱中症というのは、物理的に脳が茹だるらしいが、俺の脳も茹だってしまったのか。一度茹だると元には戻らないらしい。恐ろしい病だ。   「ここだよ!」    目的の場所を指差して、汀は自転車を停めた。暑さのせいか、あるいは一生懸命自転車を漕いできたためか、頬が少々上気しており、息が上がっていた。   「どうしたの、岳斗さん。ぼーっとして。疲れた?」 「ああ、いや、暑くて」    俺は、共同売店で買ってきたさんぴん茶を飲み干した。600ミリリットルがあっという間に無くなったが、焼け石に水だ。茹だった脳は、そう簡単には冷えない。    ところで、ここがどこなのかという話だが、寂れたローカル線の無人駅を思わせる、小さな平屋の建物の前であった。広い駐車場があるが、車は一台も停まっていない。錆だらけのトタン屋根の上に、辛うじて看板が乗っかっている。看板も酷く錆び付いており、焦げたみたいに赤茶けていた。   「空港?」 「の、跡地」    俺の言葉を受けて、汀が答える。   「昔は飛行機が飛んでたんだけど、今じゃ秘密基地にもならないよ」    見るからに廃墟だった。窓ガラスは無残に割れて、役目を果たせなくなった窓枠は、塗装がすっかり剥げ落ちていた。観音開きのガラスドアは、蝶番が外れて傾いており、動かすとキイキイ嫌な音が鳴った。立入禁止の貼り紙が貼られていたが、日に焼けて変色し、ぼろぼろに破れて、文字が読めないほどだった。    廃屋内は、まるで季節が変わったかのように、ひんやりと涼しかった。足下から冷えた。照明はなく、ぼんやりと薄暗いのに、天井に穴が開いていて、そこだけ光が漏れていた。壁紙は粉々になって崩れ落ち、床はひび割れと穴だらけで凸凹していて、コンクリートの欠片やガラスの破片が散らばっていた。    手狭な受付カウンターや、待合所のカラフルなベンチなど、かつて使われていたものがそのまま残されていたが、表面を触ってみると砂と埃を被ってざらざらしていた。天井に吊られていたはずの誘導看板は、ワイヤーが外れて地面へ落っこちて、壁に貼られていたはずのポスターは、画鋲だけ残して千切れていた。    搭乗口からは、一本しかない滑走路を望むことができた。扉は観音開きのガラスドアで、蝶番が錆びているのか、開け閉めするとギイギイ軋む音がした。滑走路の周りは草本が生い茂っており、放し飼いのヤギや、黒毛のウシが食事をしていた。   「見て見て、岳斗さん。おもしろいの拾った」    汀が、ビニールでできた飛行機の玩具を見つけて持ってきた。中に空気を入れ、膨らませて遊ぶものだと思うが、空気は既に抜け切っており、ぺしゃんこに潰れていた。   「洗ったらさ、まだ使えるんじゃない? 岳斗さんにあげるよ」 「いや、さすがにゴミだろ。それより、俺もおもしろそうなの見つけたぞ。古い雑誌」    大手旅行会社が出版している、有名な旅行ガイドブックだ。現在でも同じシリーズで刊行されている。俺は窓枠に軽く腰掛けて、濡れて硬くなったページを捲った。今はどうか知らないが、当時は、この島のことについては何も書かれていなかった。   「別におもしろくないじゃん。こういう時はエロ本が見つかるもんじゃないの」 「お前、中学生のくせにエロ本なんか読んでんじゃねぇよ」 「別に、普通でしょ」    汀も俺の隣に腰掛けて、雑誌を覗き込んだ。   「本島はこんな風なんだ。いいなぁ、水族館。岳斗さん、行ったことある?」 「ねぇな。修学旅行は長崎だったから」 「長崎? 楽しい?」 「まぁまぁかな」    載っているのは何年も昔の古い情報だが、汀の目には新鮮なものとして映ったらしかった。俺は、汀の読むスピードに合わせて、黄ばんだページを繰った。

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