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九月第一週②-①
待ちに待った週末がやってきた。昨晩、汀は来なかった。一週間学校へ行って、疲れてしまったのだろう。しかし、朝食の前に俺の部屋へ顔を見せて、「海行こうよ」と誘ってきた。今日の予定が決まった。
てっきり泳ぎに行くものと思っていたら、汀の荷物がやたらと多い。自転車の荷台にカゴを括り付け、クーラーボックスとバケツ、道具入れらしい箱を乗せて、漕ぎ出した。
「走れってことかよ!」
俺が叫ぶと、汀はくるっと振り返った。
「ニシ浜じゃなくて、港に来てね!」
麦わら帽子を靡かせて、行ってしまった。
ジョギング程度の速さで走り、俺が波止場へ着いた頃には、汀は防波堤の先端で準備を始めていた。程よい曇り空で風も涼しい良い日だが、俺はキャップを団扇代わりにして汗を扇いだ。
「お前な~、自分だけ自転車で楽するなんて、ずるいぞ」
「でも、結構早かったね」
調子のいいやつだ。そして、持ってきた道具を見るに、釣りを始めようということらしい。クーラーボックスは椅子代わりにし、バケツには海水を汲んで、竿の先に簡単な仕掛けを作る。リールのない所謂延べ竿に細い糸を結び付けて、浮きと重りでバランスを取り、針にオキアミを刺す。釣り糸を海に垂らしたら、後はしばらく待つだけだ。
早速、何か掛かった。浮きがぷかぷか沈んで当たりを教えてくれ、汀は落ち着いて竿を上げた。十五センチ弱の、銀色の鱗を持つ平たい魚だった。
「ガーラだよ。アジの仲間」
汀は得意になって釣り糸を持ち上げ、俺に見せた。
「これ、今日の夕ご飯ね」
「どうやって食うの」
「刺身でもいいけど、煮付けとかフライにしてもおいしいよ」
魚から針を抜き、氷と保冷剤を敷き詰めたクーラーボックスに仕舞う。気の毒に、ここでキンキンに冷やされて、帰ってから捌かれるわけだ。汀は、再びオキアミを針に通して、竿を放った。
「お前、釣り好きだったの」
「好きってほどじゃないけど、たまにね。ミーバイとかイラブチャーとか釣れると、ばぁちゃん喜ぶし」
とか言っている間に、またも竿が撓った。さっきよりもかなり引きが強い。竿がU字に曲がり、激しく揺さぶられる。そのまま海へ引きずり込まれるんじゃないかと恐怖するレベルだった。しかし汀は、魚との闘いを楽しむように、竿を握る細い腕に力を込める。腰を落とし、両足で踏ん張って、全身を使って引き上げたそれは、水滴を飛ばして青空を舞った。青い宝石のように輝く鱗を持つ、全長三十センチ弱の綺麗な魚だった。
「イラブチャーだ!」
汀は嬉しそうに言った。
「しかも結構おっきい!」
「ばぁちゃん、喜ぶな」
その後も小さめのガーラが釣れ、グルクンと呼ばれる小魚が釣れ、トカジャーと呼ばれるカワハギの仲間が釣れたが、それを最後にさっぱり当たらなくなった。
飽きたのか疲れたのか、汀は竿を俺に預けて、堤防に横になった。ツバの広い麦わら帽子を顔に載せ、日除けにする。「クーラーボックスに座っていいよ」と言われたが、壊すといけないので遠慮した。
「そんな簡単に壊れないよ」
「分かんないだろ。お前の尻は小さいからいいけど、俺だと重すぎてダメかも」
「岳斗さんのお尻、そんなに重いの」
汀は揶揄うように鼻で笑う。
「尻っつーか、体重がな。お前はチビだから軽いけど、俺はデカいからな」
「おれがチビなのは関係ないでしょー。これから伸びるし。岳斗さんの身長なんか、すぐに追い越してやるんだから」
「まーせいぜい頑張れよ。毎日牛乳飲んでりゃ、可能性はあるかもな」
「牛乳は給食で毎日飲んでるもん」
「でもなぁ、結局、今くらいが一番可愛いんじゃねぇの」
「かわいい……?」
今の発言は完全に藪蛇だったと、今更気付いてももう遅い。汀は嬉しそうに頬を緩ませた。
「おれ、かわいいの? 今が一番かわいい?」
「あー……世間的にはそうなんじゃねーの」
「何それー。岳斗さんがどう思ってるのかが大事なんじゃん」
「俺がどう思ってようが、大して関係ないだろ」
「ケチんぼ」
俺は汀の指を解いて、小さい掌に竿を握らせて、立ち上がった。
「どっか行くの?」
「ちょっと買い物。ターミナル行けば、何か売ってんだろ。お前、ずっと腹鳴ってんだもん」
「あ……聞こえてた?」
汀は恥ずかしそうに腹を押さえる。
「聞こえるに決まってんだろ」
「何にも言わないから、気付いてないのかと思った」
「何がいい」
「何でもいいけど、飲み物はオレンジジュースにして」
「はいはい」
長い長い防波堤は、広い海を切り裂いて真っ直ぐに伸びる。目指すべき陸地は、随分と遠くに見えた。
「岳斗さん!」
汀が大きな声で呼ぶので、振り向いた。防波堤の先頭で手を振って、何か叫んでいる。
「こっちじゃなくて、海見てよ! 海!」
今いる位置からは、ちょうどニシの浜が一望できた。珊瑚礁の陰影が揺れる、限りなく透き通った、輝くエメラルドグリーンの海。
「そこから見えるのが、本当の海の色だよ!」
超一級の芸術品でも敵わない。溜め息が出るほど美しい。紛うことなき地上の楽園が、俺の眼前に広がっていた。
「綺麗でしょーっ!」
汀が得意げに叫ぶ。俺は振り返って、手を振った。
「すぐ戻るから」
寂れたローカル線の駅よりも人気のない、ひっそりとした旅客ターミナルだが、昼の便が出発したばかりのためか、幸いにも売店が営業していた。俺は、売れ残っていたポーク卵おにぎりを二つと、冷えたオレンジジュースとコカコーラを買って、汀の待つ海の真ん中へ舞い戻った。
太陽が燦々と降り注ぎ、海からの照り返しが一層眩しい。汀は麦わら帽子を目深に被り、つまらなそうに釣り竿をしゃくっていた。俺は、忍び足で汀の背後に近付いた。細いうなじを砂糖蜜のような汗が流れ、襟足がしっとりと濡れていた。そっとジュースの缶を押し当てると、汀はびくっと首を竦めて振り向いた。
「びっ……くりしたぁ……」
「缶しかなかったけどいいか?」
「うん。ありがと」
プルタブを開ける爽やかな音がする。汀は思い切り喉を晒して、勢いよくジュースを飲んだ。喉にも汗の玉が光っていた。
「おにぎりもこれしかなかったけど」
「いいじゃん。おれこれ大好き」
ラップに包まれただけの手作り感満載のおにぎりを、俺達は堤防に並んで座って頬張った。おにぎりと合わせるならコーラよりもお茶の方がよかったなと思ったが、おにぎりにオレンジジュースを合わせている汀が平気そうにしているので、細かいことは構うまいと思った。
「でも、おにぎりもいいけど、おれ今お魚が食べたい気分――」
にわかに、浮きが沈んだ。糸が突っ張って、竿が撓う。汀は咄嗟に、おにぎりを口いっぱいに頬張った。リスのように頬が膨らんで可愛い。なんて、悠長なことを言っている場合ではない。引きの強さからして、小魚ではなさそうだ。
汀は立ち上がり、腰を入れて釣り竿を引っ張った。竿は大きく曲がり、あっちへこっちへと行ったり来たり。まるで運動会の綱引きだ。水面近くに、小さく魚の影が見えた。それは右へ左へと泳ぎ回り、逃げ回り、闇雲に竿を振り回したけれども、とうとう汀との力比べに敗れて、海上へと釣り上げられた。
「ミーバイだぁー!」
汀は満面の笑みを浮かべ、歓喜の勝利宣言をした。南国の太陽をそのまま落とし込んだような、鮮やかな赤い鱗が光沢を放つ。全長四十センチはあろうかという大きな魚が、華麗に空を飛んだ。胸鰭をバタバタさせる様が、鳥の羽ばたきのようだった。
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