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エピローグ

 徐々に秋が深まって、ここ常夏の島にも冬が訪れようとしていた。爽やかな風が吹き抜けて、収穫間近のサトウキビの穂を揺らす。晴れた空は高く、透き通る海は青く輝く。薄荷色の浅瀬と、瑠璃色の沖合、果てしなく続く水平線。いつ見ても変わらない、美しい風景。まさしくこの世の楽園だ。   「岳斗さん、こんなとこにいた」    肌にしっとりと吸い付く、粉雪のような白い砂を運動靴で踏みしめて、汀が手を振った。金色の西日がたっぷりと射して、紺の詰襟やスラックスをじんわりと照らす。   「寒くなったね」 「涼しいの間違いだろ」 「えー、寒いよ」    汀は、俺の隣に腰を下ろした。   「制服汚れるぞ」 「いいよ。ぱっぱってやればいいんだもん。こんなとこで、一人で何してたの?」 「なんにも」 「うそぉ、海見てたんでしょ。最近、一人でそうしてること多いもんね」    ニシの浜の南の端から見える景色は、茫洋とした海ばかり。まるで、世界の一番外れに放り出されたみたいだ。   「……何か唄ってくれよ」 「えぇ、急に?」 「何でもいいから。アカペラでいいから」    俺の突然のリクエストに汀はたじろいだが、軽く咳払いをすると朗々と唄い始めた。出だしだけで、トゥバラーマだと分かる。甘く澄み透る唄声が、秋の空に高らかに響く。しっかりと、鼓膜に焼き付けておかなくては。その生き生きとした唄いっぷりも、網膜の裏に焼き付けておかなくては。真に失ってしまわないように。   「……前に、二人でトゥバラーマの大会に行ったよな」 「ああ、懐かしいね」 「あの時も思ったけどさ、やっぱお前の唄が、俺にとっては一番だよ。誰と比べても」 「えへへ、なぁに、そんなに褒めて。じゃあ、今度は三線弾きながら唄ってあげるね」    汀は三線を弾く手ぶりをしながら、嬉しそうにはにかむ。   「なぁ、今の唄ってさ」 「パイパティローマだよ」 「何かの呪文?」 「ううん。ここよりももっともっと南の果てにあるっていう、伝説の島のこと。天国みたいなところなんだって。昔々、パイパティローマを目指して舟を出した人達もいたんだってさ」    今唄ったトゥバラーマに登場した、『太陽と月が沈む 遥か彼方の海の果てまで』のことを言っているのだろう。『貴方と共に行けたなら 命が尽きても構わない』と続く。こんなにも儚く、情熱的で胸を打つ歌詞は、初めて聞いた。   「でも、幻の島なんだろ?」 「うん。でも、どこか遠くへ行きたくなることって、昔の人もきっとあったんだよ。辿り着けないって分かってても。きっと、おれの母さんも……」    思い返せば俺も、ここではないどこかへ行きたくて、この南の果ての珊瑚の島まで流れ着いたのだ。ここが最果てだと思っていたのに、ここよりももっと遠い場所があるのか。一体、どこまで行けば辿り着けるのだろう。ここがそうなのかもしれないのに。    汀の、惚れ惚れするほど黒々とした髪が、夕風に吹かれてさらさら靡いた。あまり肉付きがいいとは言えない体にオーバーサイズの制服を着けて、健康的な小麦色の肌は大方隠されている。だが、その襟から覗く細い首の温かさや、髪の隙間に覗く耳たぶの甘さや、艶々したほっぺたのマシュマロのような柔らかさを、俺の唇はよく覚えている。   「岳斗さん? どうしたの?」    長い睫毛に縁取られた、猫の目のようにくっきりとしていて濃い、形は平行四辺形に近い、黒目がちのつぶらな瞳を、汀は不思議そうにくりくりさせる。この瞳から溢れる涙の味も温度も、俺の舌はよく覚えているのに。   「お前さ……東京に来る気はないか」    自分のものとは思えないほど、風に消えそうな微かな声だった。しかし汀は目を見張り、薄い唇を戦慄かせる。   「帰っちゃうの」 「……やらなきゃいけないことがあるんだ」 「ここでもできるよ……!」    汀が声を振り絞るのに、俺は黙って首を振った。   「悪いけど……。だからお前……お前さえよければ、俺と一緒に……」 「だって、学校は……? 家は? 宿は? 畑は? おれ、そんなの……」    汀はとうとううな垂れる。   「そんなの、無理だよ……」    ぽろぽろっ、と真珠のような涙が零れ落ちた。指先で拭うと、汀は顔を背けた。雫が舞い散り、夕陽を受けて美しく煌めく。   「今すぐは無理でも……学校を卒業したら、とか」 「内地の高校に通うの」 「高校でもいいし、大学でもいい。向こうで就職したっていい。だから、いつか……いつでも、必ず迎えに来る」 「……絶対……?」    丸い頬を、涙が伝う。   「ああ、きっと」 「……約束だからね」 「ああ、約束だ」    肩を抱くと、汀は拒まなかった。しばらく、俺の胸に身を預けていた。        ここ数日フェリーの欠航が続いたが、ようやく旅立ちの時が来た。ぎゅうぎゅうに詰まったトランクケースを手に、俺は港に立つ。汀がくれた星の砂と貝殻は小瓶に仕舞い、リュックに詰めた。   「……岳斗さん」    足下に置いていたビニール袋を、汀は重そうに持ち上げた。   「これ、あげる」 「何、これ」 「鉢植え。庭に生えてたやつ、植え直したの」 「……ありがとう」    異様にずっしりとしていて、持ち手が指に食い込んだ。   「……俺も、これ」    被っていたヤクルトスワローズのキャップを、汀に被せた。汀にはサイズが大きすぎて、すっかり目元を隠した。   「……ありがと」 「うん」 「大事にする」 「俺も」 「うん」 「それじゃあ……」    重厚な汽笛が空気を切り裂き、俺は駆け足で船に乗り込んだ。二階後方の展望デッキに上がると、こちらを見上げる汀と目が合った。   「汀……!」 「岳斗さん……!」    ゆっくりと、船が動き始める。ゆっくりと、岸壁を離れる。汀は、フェリーを追いかけて走り出した。綺麗な髪を振り乱し、細い腕を高く振り、華奢な腿を振り上げて、息を切らして全力で走った。   「岳斗さん……! 岳斗さん! おれ、絶対行くから! 待ってて! 待っててね!」    俺は欄干に齧り付き、身を乗り出した。いっそのこと海へ落っこちても構わなかった。   「絶対、絶対行くから! 絶対……! 母さんがそうしたみたいに、おれも……!」    あの日二人で朝日を見、あの日二人で釣りをした防波堤の、一番終端まで来ても、汀はいつまでも叫び続けていた。やがて、声が聞こえなくなった。表情が見えなくなった。そして、やがてはその影さえも小さく小さく薄れていき、青く光る水平線の向こう側へと溶けていった。    俺は、何も見えない海の彼方を見つめて、いつまでもいつまでも立ち尽くしていた。船は白い波を立て、ここではないどこかへ向かって走り続ける。島からついてきた海鳥達が、船の周りを忙しく飛び回っていた。      ――いつか必ず別れが来るということは、出会った当初から分かりきっていたことだ。だからあれほど、執着しないようにしていたのに。なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。苦しくて、息もできない。    帰り際に汀がくれた袋の中には、庭に咲き乱れていた極彩色の花々のうちの一つ、真夏の太陽をそのまま切り取ったような、目が覚めるほど色鮮やかなハイビスカスが一輪、健気に咲いていた。初めて会ったその日から、毎朝毎晩数え切れないほど目にしていた、あの花の中のたった一輪だ。    泣くくらいなら手放さなきゃよかったのに、私はまだどうしようもなく若く、エネルギーに満ち溢れていて、時が止まったような楽園の孤島に留まり続けることなど、到底選べるわけもなかった。楽園は、失われるからこそ楽園であり、永遠たり得るのだろうか。だが、もしも叶うのなら、決して叶わぬ願いであるが、死ぬ前に一目あの子に会いたい。

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