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第3話

「水と麦茶どっちがいー? 今これしかねぇんだー」 日野の声に夕は息を整えることもしないまま、「み、みずでいい!」と叫んでしまい、喉がごきゅり、と痛んだ。 「はい、水」 「あ、ありがとう」 ワンルームに男2人が肩を寄せ合っている。 片方はドキマギしてぎこち無いが、もう片方はマイペースに麦茶を煽っていた。 部屋の中いっぱいに日野の匂いが溢れていて、ここに居るだけで心が苦しくなる。 あの夏の日の、あのワンシーンは今でも鮮明に思い出せてしまう。 「なあ行光さあ、高校卒業してから何してたん? 地元出てこっち来てから誰とも連絡取ってなかったろ?」 日野の問いに夕はすぐに返せなかった。連絡が取れなかった理由は山ほどあるのだ。それこそ、兄弟と人間の出来の悪さを比べて指摘され続け、親に勘当され、文字通り物理的に家を追い出された所から語らなければならなくなる。だがそんな所から懇切丁寧に語るには、夕は[[rb:訥弁 > とつべん]]だった。 きっと夕の話す速度に合わせていたら、自分の話をするだけで3日はかかってしまう。 そして話し下手が故に、この問いに上手く返す言葉すらも思い浮かばなかった。 こういったところが、夕が親から勘当されてしまう1つの理由であった。 「? 行光?」 「あ、あああの、……あのね、えっとね……」 「あ、いやいいんだ。話したくなければ無理に話さないで。人の人生話をネタだと思うのは失礼だったよな、ごめんな」 眉を寄せて笑う日野。 駄目なのだ、夕はこの笑顔にとても、昔から、非常に、弱かった。 掌をギュッと握って、汗ばんでいるのを感じながらもやっぱり夕は彼の為にどうにかしてあげたいと、思ってしまうのだ。いつもなら、「話すの苦手だから」の一言で相手との会話を断ち切るのに。 「……お、おれ、……話すの、じょうずじゃないし、……そのおれ、しゃべるのも、はやくないから……多分、つまって、聞きづらいし、……えっと……」 「ああなんだそんなこと? 慣れてるでしょ、そんなの」 「あ、……う……」 コンプレックスであるこの、言葉や口の拙さを夕なりに必死で伝えた。吃ってしまうのが恥ずかしくて、詰まってしまう事に憤りと焦りを感じてしまうけれど、やっぱり今でも憧れる彼と、もっと会話したくて必死に伝えた。そうすると彼は、「なんだそんなこと」と一蹴するのだ。夕の長年のコンプレックスを。 やっぱり凄いなあ、日野は。 俺の心を救ってくれるのは、いつも日野なんだ。 気づけば夕は、ふふ、と微笑んでいた。 「なに? なんか俺変なこと言った?」 「あ、いやちがう……その……」 「ん、なあに」 夕が小声でも聞こえるように耳を寄せて、優しく微笑んで安心させてくれる日野は、やっぱり格好いい。 「……あの、……お、俺が……高校の時さ、……」 「うん」 「……いちばん、はじめに、……日野に会った時のね、……」 「うんうん」 「……あの、保健室で、俺がたおれてたときのはなしね……それでね……」 「ああ、あったな」 しっかり聞いて、根気強く相槌を打ってくれて、笑って目を見て話してくれる日野に嬉しくなった夕も、身を乗り出して「あのねあのね、」とにこにこで日野に言葉を続けていた。 「貧血、ひどくて、……あ、それはもうしってる、よね、ごめん、えっとちがくて……」 「うん、大丈夫。それで?」 「あ、あの……ひの、今と同じだなっておもって、……」 「今と同じ?」 詰まりそうなのを促して、優しくあたためて夕が怯えないように、逃げないように、話す事が嫌いにならないように、日野はひたすら待って続きを促して最後までしっかり聞いてくれる。 夕と日野が出会ったのは高校1年の冬だった。 夕は貧血持ちで朝は低血圧が酷く、時にはしゃがみ込まないといけないぐらい目眩や吐き気、視界の白みが激しくなる日があった。その日も夕は、朝起きて登校していたら気持ち悪くなって教室に入る前に保健室に寄ったのだ。しかし、あと少しでベッドに横になれる、という安堵感で気が抜け保健室の入り口でしゃがみ込んだまま倒れてしまっていた。 間抜けな夕が次に目を覚ました時、白い天井とふかふかの布団の中に体を寝かせていた。 ゆっくり上半身を起こせばもう目眩は問題無さそうだったので、そのままゆったりと靴を履き、目眩が起きないようにこれまたゆったりと立ち上がって仕切りを開け、馴染みの養護教諭に声をかけようとした時、 「お、起きたかー?」 と、にっこり綺麗な顔で笑う小麦肌の温和な青年がそこに居た。そうそれが、日野だった。 野球キャップを被り、泥だらけの野球の練習ジャージやジャンパーを着ていた。 夕は当時の方が人見知りも吃りも激しく、友人は愚か先生ともろくに話せていなかった為、唐突に知らない人に話しかけられて固まってしまった。 そんな夕の様子を見た日野は、「あ!」と何か思い当たったような顔をして再びにっこり笑った。 「きみ、もしかして行光 夕くん?」 「……っ」 そうです、ぐらい言えないのだろうかこの馬鹿な喉は。 自分の喉を掻きむしってしまいたい衝動に駆られるも、いきなり目の前でそんなことをされたらきっとこの人は怖がるだろうな、なんて考えていた。すると日野は、座っていた丸椅子からゆっくりと立ち上がって夕の前でかがみ、威圧感が出ないよう夕より目線を下げて再度話しかけてきたのだ。 「きみは、行光 夕くん?」 2回目は酷く、ゆったりと落ち着かせるような声音で聞いてくれた。その声に夕の心臓の鼓動は落ち着いていき、精一杯首を縦に振って肯定する事が出来た。 その無言の返事を見た日野はひどく嬉しそうに顔をくしゃりとさせて笑いながら、わしゃわしゃと頭を撫でこう言ったのだ。 「よく出来ました!」 その言葉はなんでもない有り触れたただの言葉。有り触れた他人を肯定できるただの言葉であるのに、その日、その瞬間、認められた事のなかった夕の心は無邪気な活発青年日野によって柔和になっていたのだ。 それは夕が日野に惚れてしまった瞬間だった。 その日から夕と日野は朝、保健室で会うことが多くなった。……というのも、それは半年、その年度の冬の間だけだった。日野は野球部の朝練が終わったあと、以前壊した肩の調子を毎度診てもらいに保健室に通っていたらしい。怪我の具合が良くなった日野はある日を境にぱったりと来なくなった。それは夕も同じで、春になり暖かくなると貧血も幾分かマシになった。 夕に、嘘をついてまで保健室に行ったり「会いたいから」と言って会いに行ける勇気や技量は持ち合わせていない。従って夕と日野はまた触れ合わない距離に戻った。 しかしまた、年度が変わり冬が来た。 倒れかけた夕が必死に保健室に辿り着けば、そこには日野が居たのだ。扉を開けて、養護教諭が来るのを待っていた日野は、扉を開けたのが先生だと思ったのか、「おっせぇーよ、先生」と口を尖らせて夕を見たのだ。 その瞬間、夕の中から「貧血」の2文字は飛んでいき再び固まってしまった。 しかし日野は入ってきたのが夕だと知るや否やぱあっと顔を明るくして犬のように嬉しげに駆け寄ってくる。 「行光!」 そんなに嬉しそうに名前を呼ばれたのは人生初だった。面倒くさそうに呼ばれるか、呼ばれないか。 やっぱり日野はすごいと思った。 「冬の間は気候のせいか痛むことが多いんだ。春も夏も秋も、お前のこと見てたよ。お互い、冬が駄目だな」 なんて、にっかり笑う日野が夕は大好きだった。 そうしてそんな想いが積もり積もった若かりし頃の夕は、あんな大罪を犯してしまったのだ。 あの綺麗な夕の夏は、穢れて終わった。

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