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第6話

日野が玄関を開ければ、ぱっと鼻腔を蕩かすような甘い日野の香りが広がり、夕は大きく深呼吸をして、走ったせいで鳴った鼓動と、手を掴まれてドキドキした鼓動を落ち着かせた。 日野は床が濡れるのも厭わず、ずんずん部屋の中に入って行く。そして、浴室からタオルを3枚取り出して2枚を夕にぽいっと放り投げた。 夕は慌てて靴を脱いでタオルをキャッチすると、日野はにっこり笑う。 「それで拭いてここまでおいで。そんで風呂入って来な。沸いてはねーけど、シャワーで温まって」 まさかの言葉に夕は目を見開いて思わず、ぶんぶんと首を大きく横に振った。すると日野はキョトンとした顔で「え? なんで? さみーっしょ?」と首を傾げる。 夕は柔軟剤の匂いがするふかふかのタオルに口元を埋め、ゆっくり言葉を発した。 「……も、もうしわけない、から……かえる、たおるだけ、……ごめん」 「なにが?」 借りるね、という夕の言葉はまた、飲み込まれた。 「……す、水道代、とか……た、たおる、とか……」 「とか?」 「……あ、えっと、……じ、時間……とか、」 「とか?」 「……あ、……ぅ、……や、……優しさ、とか……」 自分が何を伝えたくなったのか分からなくなり、思考がぐるぐるした。 なんでか今日は日野が少し冷たい気がした。けれど、夕にとってこれは普通の反応で、日野以外の人から常に受けている対応だった。日野が特段優しいだけで、普通の人はこうなる。日野は普通に戻っただけだ。……なのに、優しくされないと怖くなるなんて、我儘になったもんだ。 しかし日野はいきなりケラケラ笑いだした。時折、「時間と優しさって……!!」と言っている。 「ごめん! 行光。意地悪言ったわ」 「えっ」 い、意地悪!? 意地悪だったの……? 「あのさ、実はずっと透けてんのよ、行光の身体。シャツの下、何も着てねぇのな」 「えっ!?」 「お、珍しい大声」 日野の言葉にばっと自身の身体を見下ろすと、白のカッターシャツをチョイスしてしまったせいで、あろう事か全て、丸見えだった。こんな事になるなら、黒のTシャツにすれば良かった、と激しく後悔する。 「……だからさそれ、手当てさせて。あと出来れば、話も聞かせて」 ……そうか、だから日野は、途中薬局に寄ったのか。 恋人からつけられたこの傷達が、あの土砂降りの中屋根の下で見えてしまったから。 また迷惑、かけてしまった。 「い、いたくないから……」 「うん」 「いらない」 「うん」 まるで拒否される事を分かっていたかのように日野の返事は早かった。夕は次なんて拒否しようか考えていると、いきなり肌と肌が吸い付くかのように……隙間を埋めるように、ぎゅっと夕の体は日野の体に引き寄せられた。 突然のことに夕は声も出ずに固まる。 「……お前が頷くまでこのまんま離さねーから。お前がいつまでもやだやだ我儘言ってっと、俺もお前も風邪引くなー」 「な……っ!? ず、ずるい……っ」 「狡くて結構。こうでもしねぇとお前逃げんだろ。前みたいに」 昔の事を持ち出されてしまったら、夕はもう否定出来ない。 なんせ逃げまくっていた前科があるのだから。 「わ、わかった! わかったからはなして!」 「男に二言は?」 「な、ないから!!」 よし、と満足気に頷く日野はやっと太く逞しい腕と胸から夕を解放した。夕は咄嗟に自分の胸に手を当てて、頬も真っ赤になっているのを自覚しつつ、恨めしげに日野を睨み上げた。 「はいはい可愛いお顔で睨んでもダメでーす。はよ行ってこい。あ、次俺も入っから籠城すんなよ」 「し、しない!!」 「素直でよろしい!」 ケラケラ軽快に笑う日野に顔だけで反発しながら夕はユニットバスに繋がる中折れ戸を開けた。

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