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第7話
「ここでラストか?」
「……」
すっかり黙りを決め込んだ夕に何度も笑いを零しながら、日野は慣れた手つきで丁寧に夕の身体を手当した。結局あれから、日野が風呂に入ってる間に逃げようとした夕は烏の行水をした日野に捕まり、呆気なくベッドスプレットにぼいんっと放られたのだ。
しかし諦めの悪い夕はそれから何度も、掛布団に閉じこもったり、カーテン裏に隠れたり、何とか日野から距離を取り断固拒否の意を示そうとしたが、全て捕まったのだった。
それ以来夕はせめてもの抵抗、と黙秘し続けていた。
「行光ー? 男に二言はねーっつったろー」
ぷくぷくしやがって、と膨らませた頬っぺたをつんっとつつかれ、ぷぴっと口から変な音が鳴り、日野はまたケラケラ笑った。
「なあいくら黙っててもいいけど、ならこの間のバーテンに詳しく訊くよ? いいの? そうなる前に俺は行光から聞きたいんだけどな」
この間のって、浅倉のこと……!? あの人はダメだ。俺の恋人の全部を知ってしまっている。酔ったこの口がペラペラと気を許して話してしまっているのだから。
ならば自分で答えて誤魔化した方がいい。誤魔化す、なんて大層な真似、夕には出来っこないけれど。
「……わ、わかった、はなす……」
「そ、良かった!」
満面の笑みで返してくる日野に、してやられた、と思った夕だった。
日野はゆっくり夕の手を取り、ぎゅ、と優しく包み込む。いつもの夕を安心させる儀式だ。
「まず行光は、誰にそんな傷つけられたの?」
「……こ、こいびと……」
穏やかに聞かれても、「彼氏です」とは言えなかった。しかし、そのワードを聞いた日野はより強く夕の手を握った。
「……好き同士、ではないの?」
「……おれは、すき……」
訳ありな自分を、わけも聞かずに拾ってくれた恩がある。それに優しい時は優しいのだ。夕の恋人は、不器用なだけなのだ。そう、夕は知っている。
「相手は、行光の事好きじゃないの?」
「……うん」
いや、多分、きっと。
俺はあの人から好かれてない。好かれていたら殴られないし、暴言も吐かれないって分かってる。
「……それは本当に付き合ってるって、言える?」
言えないと思う。言えないと思うけれど、
「でもおれは、那津のこと、好き」
スポットライトを充てずとも、歩いた所が全て舞台となってしまうような煌びやかな日野とは違い、常に闇を履い続け己を傷つけ続けてしまう那津(なつ)。
対極にある2人の思考なんて、分かるはず無いだろう。
それはもちろん、2年付き合ってきた夕にだって那津の考えは分からない。分からないけれど、彼には自分が、自分には彼が、居なくてはいけない。それだけは分かっている。
「それは違うっしょ」
珍しく、怒気を抑えたような声を出す日野に、ぴくり、と肩が揺れた。
「行光さ、それは……その関係は、ちがう」
日野は、怒鳴りたちらしたい気持ちを押し込めて発した。声を上げて怒鳴り散らしても不機嫌さをアピールしてもこれは解決する問題ではないと分かっているから。本当は「それは思い込みで洗脳だ」と言ってしまいたかった。久しぶりに会った目の前の元同級生が、恋人に洗脳されて身体を傷だらけにしているなんて、お人好しの日野には耐えられなかった。
ましてや、日野が学生時代1番気にかけていたのが夕だったのだ。尚更、黙ってはいられなかった。
「行光、違うよ、違うんだよそれは……」
愛なんかじゃないんだ。
夕を傷つけない上手い言い方が分からなかった。夕は「この関係が間違っている」と思いながら続けている。間違いを肯定として生きている人間に、何を言えばいいのか、果たしてそれを自分なんかが崩してしまって良いのだろうか。日野の中には相手の情報が「行光の恋人はDVをする」という認識しか無いが故に、夕に「なんにも知らないくせに」と言われてしまったらおしまいなのだ。
愛を語れるほど大人じゃない。けれど、それが愛であると思える程、人生経験がないわけではない。
夕を下に見ているわけでも貶しているわけでもない。
ただそれは、愛なんかではないと一言、言いたいだけなのだ。
言い方を考えあぐねていると、ふと俯いていた日野の頭上から小さく紡がれた少し掠れた声が降ってきた。
「大丈夫だよ」
「え?」
日野がぱっと顔を上げると、夕は日野の手を震えず握り返して微笑んだ。
色白の頬が血色良くなると、薄ら桃色に染まってより幼く見える。昔も、そう思った。
「おれ、大丈夫だよ。痛くないし、かなしくもないよ」
柔らかく微笑む夕に、日野は泣きたい気持ちになる。いつもそうだ。行光はいつだって日野を泣きたい気分にさせるのだ。
高校の時だってそうだった。夕が保健室前で倒れていたのを見た時、血の気が引いた。
噂で聞いたことがあった。「同じ学年に誰とも話さない暗い奴がいる」という話を。
廊下をすれ違う度に誰かがそう囁くので、必然と日野は勝手に行光を認知していたのだ。
その彼が目の前で真っ青な顔して倒れていた。
問答無用で抱き起こし、痛む肩を押し殺して行光を抱え急いで保健室のベッドに寝かせて意識を確認した。
運動部では特に夏場倒れる人間が続出していたので、体が丈夫な日野はいつもマネージャーと共に介抱する立場だった。
であるから今行光は眠っているだけなのか、意識を失っているかの判別は容易かった。しかし念の為、行光の脇腹や首や唇をちょんちょんとつついて、ちゃんと僅かでも反応するかは確かめた。
脇腹は無反応だったけれど、首と唇に触れた時僅かに「ん、」と吐息を洩らしていたのを今でも覚えている。
そんな行光を1人放っておく事も出来ないし、かと言って養護教諭はいつもこの時間保健室に居ないので、自分の怪我の具合も含め診て貰わないといけない。
それにこのままサボりたい気分でもあったので、行光を仕切りで囲って自分は生徒用の丸椅子に腰掛けて、ぼんやりグラウンドを眺めていた。
30分くらい経った頃、物音がした。
きっと行光が起きたのだろうと彼が出てくるのを待っていると、噂通り行光は仕切りのカーテンを開け日野を視界に入れた瞬間、目を丸くして固まっていた。
日野に名前を訊かれ、更に体を硬くしていた。
そんな行光の行動が、11歳下の妹に重なってその日から日野は必要以上に行光を構いたくなってしまったのだ。日野の妹は6歳。小学1年生になるが、吃音症があり話す事に自信がなく、加えて人見知りも激しい。
そんな妹と戯れる時、日野は必ず妹の目を見て、しっかり相槌を打って、手を握って目線を低くして、必ず全ての言葉に返事をするように心がけている。それは誰に習ったとかでは無い。もし自分だったら、こうされたいと思ったことをしていただけだ。
その時の癖がつい行光相手にも出てしまい、それが運良く行光にも嵌ったというたったそれだけの出会い。
養護教諭が来るまで、暫く行光と話をした。
行光は吃音症は無いものの、言葉を話すことに自信が無いらしく、常に心臓をバクバクさせて切羽詰まってる様子で、話させるのが見ていて痛々しく思うような奴だった。それでも行光は一生懸命ゆっくりではあるが、日野に伝えようと頑張ってくれているのが分かる。
日野は努めて優しく、穏やかに、まるで自分が行光より大人になったような気分で会話をした。
「行光は、丁寧に話してくれるから分かりやすい」
初めて会ったその日に、何気なく発したその言葉。日野にとってはお世辞でもなんでもない、本当の思いだったのだが、行光にとっては大切な言葉だったようで、一瞬顔を歪めたと思ったら、次の瞬間、ふわり、とまさしく花が咲いたかのような愛らしい笑みを見せてくれたのだ。
その笑顔に心を奪われた─……否、そんな優しいものでは無かった。心を鷲掴みにされ、酷く悲しい気持ちになってしまったのだ。恋に落ちたとかそんな、言葉で言い表せるものではない、とにかくただただ悲しくて、今目の前にいる行光をぐちゃぐちゃ抱き込めたくて堪らなくなった。そうして言ってやりたかった。
大丈夫、お前の声、聴こえてるよ。
鼻の頭がツン、と痛んだその瞬間、保健室の扉が開き、行光と2人だけの時間は終わってしまった。
けれど日野はその日から行光を目で追い、何とか話したくて、今日は元気か、ご飯は食べたか、昨日のお笑いは観たか、今日の音楽なに歌った、体育のマチダセンセイ転けたんだよ─……
けれど行光は、保健室以外では話してはくれなかった。
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