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第36話 逃避
僕は恐怖でパニックになるのをなんとか堪えて蒼司に背を向け、自室に戻った。深呼吸をし、クローゼットから適当に引っ張り出した服を着て、財布とスマホの入ったバッグを掴む。
(蒼司くんがあんなことするなんて――。僕のフェロモンのせいで、彼までおかしくなってしまったんだ)
一刻も早く彼から離れなければ、お互い大変なことになる。僕は急いで玄関を出た。
まだ震えが止まらず、このまま一人で電車に乗ることはできなそうだった。雨の中大きな通りまで出てタクシーを拾った。慌てて傘を忘れてきたため少し濡れたが、そんなことに構ってはいられなかった。後部座席に乗り込み、行き先を告げる。
蒼司にはああ言ったが、実家に帰るつもりはなかった。こんな状態で父に会えば、蒼司と何かあったと勘繰られてしまう。迷惑かもしれないけれど、僕は桂木を頼ることにした。
(きっと彼ならわかってくれるはず……)
行く前に連絡をしようと思ったが、スマホの充電が切れてしまっていた。
「もう、なんでこんなときに」
さっき訪れたばかりのマンションに到着し、インターホンを鳴らす。しかし、何度ボタンを押しても返事がなかった。
(うそ。さっきまで居たのに、出掛けちゃった?)
タクシーの時計ではたしか、21時くらいだったはず。
(明日は平日だし、帰ってくるよね……)
マンション前の狭い軒先で雨をしのぎながら待つ。30分くらいの間に住人らしき人が数名、立ち尽くす僕をちらちらと見ながら通り過ぎて行った。
怪しい人だと思われているかもしれない。早く帰ってこないかな――と壁にもたれてつま先を見つめていたら、雨水を蹴って走る音が近づいてきた。顔を上げてそちらを見る。
「蓉平くん! 一体どうしたんだ?」
「あ……桂木さん……よかった」
「濡れてるじゃないか。さあ、中に入って」
彼の顔を見たら安心して身体から力が抜けた。ふらついた身体を桂木に支えられる。
「おっと、大丈夫か?」
「すいません、ずっと立ってたから足が……」
元々恐怖で震えていたのもあるが、風呂上がりに雨に当たって身体が冷えていた。立っているのもやっとだったのだ。
◇◇◇
桂木は部屋に僕を招き入れ、タオルを貸してくれた。お風呂を沸かす間、分厚いブランケットでぐるぐる巻きにされる。
キッチンから物音がするなと思っていたら、桂木がマグカップを手に戻ってきた。
「どうぞ。お酒、飲めるよね?」
「これは……?」
「ラム酒入りのはちみつミルクだよ。アルコール入ってるほうが体が温まるから」
「良い匂い……」
甘くて芳醇なラム酒の香りが湯気とともに立ち昇る。一口飲むと、じんわりとアルコールに喉を刺激され、はちみつとミルクの甘さにホッとする。
「美味しいです」
「冷めないうちに全部飲んで。体の芯から温めないと」
僕は黙って言う通りにラム入りミルクを飲み干した。桂木は僕が帰った後食事をしに先日のカフェに行っていたそうだ。
「ごめんなさい……いきなり押しかけて」
「いいんだよ。でも、一体どうしたんだ? ストールを取りに来たわけじゃなさそうだね」
「はい……」
「理由を聞いてもいい?」
答えようと口を開きかけたところで、お風呂が沸いたことを知らせるメロディーが響いた。
「お風呂から上がったら、聞かせて」
僕は頷いた。
◇◇◇
風呂から上がると、タオルと一緒に未使用の下着やルームウェアが用意されていた。
(ここに来るつもりだったんだから、着替えくらい持ってくればよかった)
慌てていたのでそこまで頭が回らなかった。
服を着てリビングに戻ると、彼はロックグラスを片手にソファで雑誌を読んでいた。
「お風呂、ありがとうございました」
「ちゃんとあったまったかい?」
彼に促されて革張りの一人掛け椅子に腰掛ける。
「君も飲む?」
「いただきます」
「ロックで良いかな」
彼に渡されたグラスを見ていたら父のことを思い出した。実家ではラムやウィスキーなどをよく一緒に飲んでいた。自分よりも父の方が桂木と歳が近いのだ――とぼんやり思う。
「蓉平くん、もし何も話したくないなら無理に話さなくて良いから」
優しく声をかけられ、涙が滲んで視界が曇る。蒼司に無理やり押し倒されたショックを引きずったまま、実家に帰りたくなかった。そんな理由でここに来てしまって今更申し訳なくなる。たとえ僕が何も話さなくても彼は親切に迎え入れてくれるだろう。
(だけど、桂木さんみたいないい人に隠し事をしたまま結婚してもらうなんてやっぱりだめだ)
追い出されるかもしれないけど、僕は全て話すことにした。自分が引きこもりだったことや、父の再婚で義弟ができ蒼司と同居するに至ったこと、最終的に結婚相談所に行くことになった事情を説明した。
桂木は驚いたりすることもなく、静かに頷きながら聞いてくれた。
「なるほど。君みたいな若い子がどうして私のようなおじさんに会おうと思ったかずっと疑問だったんだ。でもその訳がようやくわかったよ」
「ごめんなさい。でも桂木さんのこと、おじさんだなんて思ってないし本当に素敵な方だと思ってます」
「いや、いいんだよ」
彼は話を全て聞いてもなお優しい笑顔で言う。
「話してくれてありがとう。君がその蒼司くんって子をすごく好きだっていうのがわかって私もすっきりした」
「ごめんなさい……僕……」
「ほら、泣かないで。実家に帰りたくないならしばらくここに居ていい。何も心配いらないから、今夜はもう眠りなさい」
彼は立ち上がって僕の手を引いた。
「桂木さん……本当に……あなたを騙すつもりではなかったんです」
「わかってるよ。気にしなくていい。こう見えても色々経験はしてきているからね。この程度で落ち込むほどやわじゃないよ」
肩を叩かれ、寝室に案内された。
「私はリビングで寝るから、君はベッドで寝て」
「そんな、僕がリビングで寝ます!」
「いや。君はぐっすり眠る必要がある。私の部屋に泊まるんだから、私の言うことを聞くように」
桂木は人を諭すのが上手い。僕は追い出されるどころか、部屋の主を差し置いてぬくぬくと自分だけベッドで眠ることになったのだった。
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