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第42話 桂木の過去と蓉平の選択(2)
「過ち……?」
「ああ」
彼は空になったグラスに氷を足してウィスキーを注いだ。
「知っての通り私には以前妻が居た。オメガの女性で、年は私の一つ下。大学院生だった当時、ゼミの教授の娘と学生結婚したんだ」
彼は過去を語り始めた。
建築学科の学生だった彼は、奥さんの方からのアプローチで結婚。最初は仲のいい夫婦だった。修士号を取った彼はその後建築事務所に就職。優れた設計の実力が評価され、コンペ等で次々に入賞を果たしていく。それにつれて仕事は忙しくなり、奥さんとはすれ違うことも増えた。
元々真面目な学生だった彼。建築デザイナーとして高い評価を得たことで、これまで会うことのなかった様々な人間が寄ってくるようになった。そこには、アルファである彼の優れた容姿やステータスに惹かれた女性とオメガ男性も含まれていた。
彼の周りにいたデザイナーにはアルファが多く、優秀な者ほど「感性が大事だ」と言って一夜限りの恋愛を楽しんでいた。彼もその例に漏れず、次第に結婚指輪を外す晩が多くなっていった。コンペや視察などで海外に行くこともあり、その際は大いに羽目を外したという。
「薄汚いと思うだろう? 軽蔑してくれて構わないよ。狂ってたんだ。あの頃は……それが良いことだとすら思っていた。たくさん恋愛してこそいいデザインができるって本気で信じていた」
桂木は自嘲気味に笑った。
「周囲に才能のある人間が増えていってね。早くに結婚したことを後悔したこともある。もっと別の人生もあったんじゃないかって。それで、私は益々仕事に没頭していった。家庭を顧みずにね。妻はただ、何も言わずに私を送り出した」
仕事が忙しくて、事務所の近くにマンションの部屋を借りていたそうだ。ほとんど自宅に帰らない月もあったという。そんな中、彼の知らぬ間に奥さんは病に侵されていた。
「彼女は私に心配をかけたくないからとそのことをずっと黙っていた。私が知ったのは、彼女が入院を余儀なくされたときだった。通院していることすら私は知らなかったんだ――」
当時30歳とまだ若かった彼にはどうしていいかわからなかった。次第に弱っていく奥さんを見ていられなくて、更に仕事にのめり込んだ。皮肉なことに、その頃のデザインは彼の中で最も高く評価をされたそうだ。彼自身は、酒と女に溺れて精神的にボロボロになっていたという。
「そんな私でも、たまに妻の病室に顔を出すと……彼女は嬉しそうに微笑むんだ。どうして彼女が私をなじったり怒鳴りつけないのか疑問だった。いや、疑問どころか――恐怖だったよ」
何も言われないと余計に罪悪感が増すものだ、と彼は静かに言った。
「その後、彼女を失って……私は設計をすることができなくなった。そして価値を失った私の元には誰一人残らなかった」
その後彼は事務所を退職し、しばらくして知り合いのつてにより大学で働き始めたそうだ。
「その頃は何をする気力も湧かなかった。流行のデザインを見たりするのも嫌で、今思えば私は古い建築の中にやすらぎを見出そうとしていたんだろうな――。彼女を孤独のうちに死なせた罪の意識で、再婚なんてとてもじゃないけど考えられなかった。だけどそうやって約20年一人で生きてきて、一昨年妻の父が亡くなったんだ。義父であり、お世話になった教授でもあるからもちろん葬儀に駆けつけたよ」
義母には嫌がられるかもしれないと覚悟して行ったそうだ。しかし、年老いた義母は桂木に向かって「もう娘のことを気に病むのはやめてください」と言ってきた。娘の死後桂木が才能を枯らせてしまったことで、亡くなった義父がずっと心を痛めていたそうだ。
「最初は、もう一度設計をやってみようと思ったんだ。だけど、うまくいかなかった。それで違うことをしてみようと思ってあの結婚相談所に登録をしたんだ」
しかし、遺伝子的に相性が良い相手でも年齢的になかなか会ってくれる人がいなかった。いたとしても、結局は年齢を理由に二度目の約束をとりつけることはできなかったそうだ。
「そんなとき、君からの面会希望の連絡があった」
桂木はその時のことを思い出したように口元に笑みを浮かべた。
「最初はからかわれているのかと思ったよ。だけど、写真を見ただけで不思議と心が躍る気がした。顔立ちは似ていないのに、なんとなく妻を思わせるものがあって……」
「そうだったんですか」
「ああ。それで実際に会ってみて、驚いたよ。君と会ったのはこのとおり真夏だし、妻と最初に会ったのは冬の初めだった。なのに、当時のことをありありと思い出した。あの時の――木枯らしの匂いまで鮮明に……」
桂木は遠くを見つめていた。
「君はちょうど当時の妻くらいの年齢で、美しくて……話してみたらあまりに純粋で驚いた。私は一瞬で恋に落ちたよ。だけど同時に、こんなに素敵な君に、自分のような人間はふさわしくないのもわかっていた」
「桂木さん……」
「わかっていたけど、ほんの少しだけ君と話をして……一緒に過ごしてみたかった。だって、私が妻と出会ったときのあの純粋な気持をこんな年になってもう一度味わえるなんて思わなかったんだ」
彼は更に続けた。
「君と話すのはとても楽しかった。好きなものについて語る君は瞳が輝いて、本当に綺麗なんだ。それでつい、欲が出た。昔の悪い癖で……『俺のものだから手を出すな』って印を付けてしまったんだ」
それが図面ケースに彼が付けたフェロモンの断片だ。
「本当に申し訳なかった。まさか、あんな微量なフェロモンでこんなことになるとは思わなかったんだ」
桂木が頭を下げた。
「それだけ、蒼司くんが君のことを好きな証拠だよ」
「いえ、そんなこと……」
「同じアルファだからよくわかるんだ。これは勝手な憶測だけど、蒼司くんは私の若い頃と似ていると思うな」
「え?」
「若くて、愛する人に対してどうしていいかわからない愚かなアルファってところがね」
桂木が微笑みながらこちらを見た。
「彼が暴走して君を襲ってしまったのはたしかに悪いことだ。だけど、許してやってくれないか。彼が私みたいにならないように――昔の私を救うと思って。どうか彼を見捨てないで、導いてやってほしい」
「見捨てるだなんて……そもそも僕に選択権なんて無いんですよ」
「いいや、違う。選ぶのは君だよ、蓉平くん。さっき君のお父さんと話をしたんだ」
「え!?」
(なんで桂木さんが父さんと――?)
「実はね、大学を出る直前に君のお父さんから電話が来たんだ。相談所を通して連絡先を調べてくれてね。君の居所を探していた」
「そうだったんですか……」
(どうして? 中西さんにも口裏合わせをお願いしたのになんで桂木さんのことがバレたんだろう?)
「不思議そうな顔してるね。お父さんが言ってたけど、蒼司くんが君と話をしたがっているって」
「蒼司くんが?」
「お父さんは蒼司くんから私の名前を聞いたそうだ。彼が、君を探してるうちに私の名前を見つけ出したようだね」
「そうなの……」
「ほら、こんなに必死で君を探してるんだよ。まだ彼が君を好きだってわからない?」
(そんなことってあるのかな。だって、彼はずっと僕のことを嫌いって言ってたのに……)
「ああ、残念だな。本当に、君みたいな人はなかなかいないよ。私が本気になればいくらでも君を手にする方法はあるんだけど。蒼司くんが私みたいになったら困るから今回は譲ってあげよう」
「か、桂木さん。譲るだなんて……」
彼は楽しそうに笑ってウィスキーを飲んだ。
「昨日君が一度帰ってから、カフェでコーヒーを飲んでいてね」
「え?」
「ずっと疑問だったことがようやくわかったんだ」
(突然なんの話だろう)
「まだ次に会う約束もしていないのに、今度また君と会えるかもって思うだけで……すごく楽しい気分だったんだ。それでわかったんだよ。病床の妻が私を見て笑った理由が」
「理由、ですか」
「彼女は楽しみだったんだ、私と会えるのが。いや、本当のところはわからないよ。だけど……好きな人がまた会いに来てくれるかもしれないって思いながら待つのがこんなに素敵な気分だと昨日初めて知ったんだ。それで、私はずっと間違っていたと気付いた。私が帰らずにいる間、きっと妻は私を憎んでいただろうと思っていたんだ。だけど、違った――。待っているのも楽しいんだ。楽しかったんだよ……蓉平くん。わかるかな?」
桂木は微笑みながら涙を流していた。
「それともう一つ。君が、妻と全然顔立ちが違うのに似ているように感じた理由も見つけた」
僕は首を傾げて彼の言葉を待った。
「君が恋をしているからだよ」
「恋……?」
「君が蒼司くんに恋をしていて――輝いているからなんだ。妻が私に恋していたように――。蓉平くん、最初から私は蒼司くんに負けてるんだよ。君がどんなに自分を卑下しようと、その輝きは隠せないんだ」
「そ、そんなの見てわかるわけ――」
「わかるよ。私はデザイナーだから。美しいものを見抜く力は絶対に君より優れているよ」
寸分の狂いなくゴシック建築の型紙にカッターを入れていた桂木。その彼にそう断言されてしまったら何も言い返せない。
「顔の造作が華やかなだけが美しさじゃない。君は自分の魅力にもっと自信を持っていいんだ。心を開いて、愛されることを楽しんでみて」
「心を開いて……愛される?」
彼は大きく頷いた。
「そうだよ。さあ、もうこれでいいだろう? 私をきっぱりふって蒼司くんの元へ帰ってくれ」
「でも……」
「君にふられることで、私は妻にふられたんだと思いたいんだ。そうしたら私は生まれ変わって第二の人生を歩むことにするよ」
(そういうことか……)
僕は彼の目を見つめた。一呼吸置いて言う。
「――わかりました。僕は、蒼司くんのことが好きです。なので、桂木さんとはお付き合いできません」
彼は僕の言葉を噛み締めるように数秒間目を閉じた。
「ありがとう。さあ、すっかり遅くなってしまった。でも君の王子様はまだ眠らずに待っているだろうから、電話してあげなさい」
僕は頷いて、蒼司に電話を掛けた。
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