授業が始まる前の教室はガヤガヤとしている。 (早く帰りてえ) 既に顔見知りの生徒たちが仲良さそうに談笑する姿に、たった1人で座っているのが悲しくなってきた。 吉田虎太郎は塾の夏期講習初日を迎えていた。 返ってきた期末テストの合計が5教科合わせても250点に満たず、カンカンに怒った母親が翌日申し込んできたのが夏期講習だった。 吉田は青南中学校に通っていたが、自宅は青浜中との学区の境目にある。そのため、家から近い塾には青浜中の生徒が多く、大半を占めている。テニス部で見知った顔もあったが話しかけるほど親しい相手はいなかった。 (まだ部活辞めさせられなかっただけマシか) 夏期講習はお盆まで月火木金と週4日あり、夏休みの殆どの時間が部活動と塾に消える。それでも虎太郎にとって成績不振の元凶とも言える部活動を辞めろとまで親が言わなかった事には感謝していた。今まで、本格的にスポーツをしてこなかった虎太郎とって突如増えた運動量は酷く体を疲れさせ、家や学校では寝てばかりいたため、授業など聞いておらず課題も提出できていなかった。 1人思想を巡らせていると頭上から突如降ってきた声に、ハッとした。 「隣座ってもいい？」 辺りを見渡すと、席もあらかた埋まってきた頃合で反射的に、「うん」とだけ答えてしまった。 だが、聞き覚えのある落ち着いた話し方と声に、何かを思い出しガバッと顔を上げて相手の顔を見た。ニコニコと微笑みながら、「久しぶりだね」と喋る佐々木の姿に吉田は全身の毛が逆だったようだった。 誰からも好かれる好青年、佐々木清正への吉田の好感度がだだ下がりした出来事は一月前に遡り、吉田が所属しているソフトテニス部が練習試合で近所のコートへ来ていたところから話すことになる。 この辺には青南中学校と青宮中学校という2つの中学校が隣接しており、近くの公式戦でも利用されるコートを使用して練習試合を長年行ってきた。吉田虎太郎の代も例に漏れず行われ、初めての練習試合にはしゃいで楽しみ、持ってきていた水筒の中身は最初の数時間で飲み干してしまった。 「自販行くしかねえかな？」 同じくペットボトルの中身を飲み干してしまったペアを組んでいる清水が問いかける。 「顧問も試合に夢中だし行くなら今だろうな」 テニスコートには併設された建物の中と別棟で建っているトイレの隣に自動販売機が設置されている。だが、それらの使用は部活のルールで禁止されていた。 「行くとしたらどっちかな？」 また別の部員が水筒の残りを確認し不安そうに口を開く、すると清水が先輩に聞いたと興奮気味に答えた。 「穴場はトイレの方らしい。コートから離れてるから観客席からは見えないらしいぜ」 それを聞きた少年たちは小さく「おお！」歓声をあげた。 そのまま数人の少年たちは連れ立っていそいそとトイレの方へと向かっていき、順番にお茶や水を買った。しかし、ついに吉田虎太郎の番になったときに問題は起きた。 「自販機の使用は禁止されていなかったけ？」 吉田が瞬時に顔を上げると、そこには青宮中学校テニス部1年生のユニフォームを着た少年が見下ろしていた。腹の辺りに付けたゼッケンには佐々木と刺繍してあり、少し日焼けした肌が真面目に部活に打ち込んでいる印象を抱かせる。 先輩にバレたと思いヒヤリとした吉田虎太郎だったが、目の前の彼が同じ1年であったことに安堵し、恐らく彼も自販機を使いに来たのだろうと見当をつけてた。 「青南も自販は使うなって。佐々木も自販？」 佐々木はそれには答えず、小銭を入れた吉田の手を掴み「ルールは守らなきゃダメだよ」と、言い、既に入れた小銭をレバーを下ろしてとりだした。そのままチャリンと落ちる小銭を掴み取る。 「なんすんだよ。離せよ！」 一瞬のことに呆気に取られた吉田は数秒固まったが、腕を振り払い、驚愕の顔で佐々木を見た。一緒にいた友人たちも、まさかこんなクソ真面目な奴がいるのかと感嘆し「マジかよ」と、呟きながら既に買っていた飲み物をサッと後ろに隠す。 「ルールは守らなきゃ。他の人に迷惑をかけることになるよ」 強引に振り払った吉田に怯むでもなく、落ち着いた表情と口調で優しく諭すように詰め寄る佐々木に腹の中から熱いものが込み上げるのを感じた瞬間には噴火していた。 「うるっせえな。てめえに関係ねえだろ」 吉田は反射的に思いついた言葉を並べ噛み付いたが小学生が負けじと反論するようであった。明らかに劣勢である上に、仮に先生に告げ口されたらという不安もあるがそうせざるはいられなかった。 「こた、そこまでにしとけ。先生に気づかれる」 清水が吉田の肩を掴み、「１回落ち着け」と窘める。思いのほか大きな声が出ていたようで、コートの中の部員が数名チラチラとこちらを見ていた。 吉田は居心地悪さに1度下を向いてから、顔上げジロっと佐々木を睨みつけてからフンと鼻を鳴らしてから彼の手に残る小銭をひったくるとコートに戻った。 この後、吉田は数人に飲み物を分けてもらい事なきを得たが、佐々木という人物に対して今までにないほど腹が立っていた。二度と顔を合わせたくないと憤慨していた矢先に、「どうして」と、頭を抱えた。 明らかに態度に表し、お前が嫌いだとアピールする吉田と対照的に佐々木はニコニコと話し続ける。 「何教科取ってるの？」 夏期講習では国数英理社の内、1教科から申し込む事ができ、もちろんだが吉田の両親は5教科全てに申し込んでいる。 「5教科」 吉田は吐き捨てるようにまっすぐ前を見て言う。無視するのも逃げたようで癪だし、顔を見て話すのも何だか癇に障った。 「そっか。一緒だね」 臆面もなく答える佐々木に、吉田はいらいらする。あんな事しといて普通にしていられる精神が理解できない。それに彼も5教科受けるということは、週4日間1日4時間彼と顔を合わせることになる。ただでさえ苦痛な塾が、さらに地獄へと変化した。