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第1話

「あっ、と。悪い、東谷(とうや)」  階段の手摺にしたたかに背中を打ち付けた東谷三鶴(みつる)の手から世界地図の大きなパネルが取り落とされ、踊り場に落ちていった。 「もう一歩で、東谷も落ちるところだったな。なあ」  古賀(こが)がニヤニヤと笑いながら床に倒れ込んだ三鶴を見下ろしている。 「今のは事故だよな?」  三鶴は答えることなく立ち上がり、ズボンを叩いて埃を落とした。古賀に蹴られて痛む背中をかばいながら顔も上げずにパネルを取るため階段を下りる。 「つまんねーの」  見上げると、手摺にもたれた古賀が三鶴を睨みつけていた。 「お前、一人で片付けとけよ」  三鶴から視線を外した古賀は、いつも皆に見せている優等生の笑顔を浮かべて廊下の先へ去っていった。  入れ替わりのように、上階から斯波(しば)が下りてきた。化学教師の斯波は今日も白衣姿でなにを考えているのか分からない無表情だ。  踊り場に立つ三鶴と倒れたままのパネルを避けるために半身をひねり、無言ですり抜ける。手伝おうともしないどころか、興味を向けることもない。  斯波が姿を現したタイミングならば、パネルが落ちた音も、古賀の声も、おそらくは三鶴が蹴られた音も聞こえていただろうに。  その整った顔に笑みも怒りも浮かぶことなどないのだと学校中の生徒が知っている。斯波はただ教科書を読み、生徒に課題を与えるためだけに学校に存在している。  三鶴は、ひょろりと背が高い斯波の背中をしばらく見やっていたが、次の学課が始まるチャイムの音を聞くと、のろのろとパネルを拾い階段を下りた。  昼休み、どこで時間をつぶすかと、三鶴は校舎内をさまよった。教室や食堂にいれば、担任の武藤(むとう)がやってきて、一緒に昼食をとる羽目になる。  今年、初めて担任クラスを持った武藤は熱血タイプで、クラス一丸となって有意義な青春を過ごそうということを目標に掲げている。 「東谷くん、またかくれんぼしてるの?」  図書館の隅、いつも人がいない百科事典の棚の裏に踏み入ると、古賀が優し気に声をかけながら背中を叩いた。いつから尾けられていたのか、まったく気づかなかった。  この棚の裏ならば人目はないが、話し声は貸出カウンターにいる図書委員に聞こえる。古賀が三鶴を「くん」付けで呼ぶのはそのためだ。 「いくら人見知りだからって、担任の先生を避け続けるのは酷いんじゃない? 先生に頼まれて探しに来たんだ。一緒にランチしようって呼んでたよ」  三鶴は黙って俯く。感情を表に出さない三鶴の態度に、古賀は顔を歪めて嗤ってみせる。 「ほら、行こう」  古賀は三鶴のネクタイを鷲掴みにして首を締め上げる。痛みと恐怖と苦しさで三鶴の顔が赤くなったのを、古賀は楽しそうに声を潜めて笑った。  逆らうことも出来ず古賀について図書館を出た。校舎のすみにある図書館から武藤が待っているという生徒指導室までの間の廊下には冷房の風が届かず、夏の間ほとんど生徒が寄り付かない。今日も誰とも行きあわない。  古賀は窓から見えるグラウンドに人の姿があることを確認すると、柔和な笑みを浮かべた。 「手間をかけさせるんじゃねえよ、ボケが。ただでさえ、お前の面倒見ろなんて言われて迷惑してるんだよ。大人しく武藤の言うこと聞いとけ」  人目が完全になければ、古賀はまた三鶴を蹴り飛ばしたのかもしれない。  だが、武藤から三鶴の人見知りを解消するために手を貸すよう頼まれ、内申点のために、にこやかに依頼を受けたのだ。今更、裏も表も顔つきは変えない。  三鶴は窓から空を見上げた。黒い雲が広がって、今にも雷雨になりそうだった。

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