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第2話
武藤がなにか喋っている。三鶴は俯いて自分の手をぼんやりと見下ろしていた。
白すぎて青ざめているようにも見える細い腕。小柄な身長に見合う短い腕だ。力もなく、だらりと膝の上にのっている。
生来、色素が薄い三鶴の髪色は、ほとんど金に近い茶色で、武藤は初めて三鶴を見たとき、髪を掴んで怒鳴り上げた。近くにいた別の教師が武藤を引きはがさなければ、校則違反をしたという理由で殴られていたかもしれない。
殴られようが、殴られまいが、三鶴にはどうでもよかった。
「東谷、メシにしようや」
コンビニのビニール袋から大きな弁当を取り出しながら、武藤は三鶴に笑いかけた。三鶴は武藤が言っていることが聞こえていないかのように俯き続ける。
「ほら、弁当箱、開けるぞ」
場違いな花柄の布で包まれた弁当箱に手を伸ばし、武藤は勝手に包みを解いた。蓋を開けようとしたとき手を滑らせ、弁当箱がひっくり返り、中身が飛び散った。
「す、すまん!」
武藤が慌てて三鶴の腿を汚した米粒を払おうと手を出した。
太い腕、ゴツゴツとした手、無神経な荒々しい動き。そのすべてに嫌悪を感じて、三鶴は思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「東谷?」
部屋から飛び出した三鶴の足跡に、汚れて食べられなくなった食物が散乱した。
教室にカバンを置き去りにしてきた。定期券もなく、三鶴は歩いて自宅へ帰った。
空腹と渇きでよろけながら玄関のドアを開けると、父のものとは違う、大きな紳士靴が玄関に並べられていた。
ここ2ヶ月、もう見慣れた靴だ。義母のケバケバしいハイヒールと対になったかのように馴染んでいる。
水を飲みにキッチンに行きたかった。だが、キッチンと併設のリビングから義母の嬌声が聞こえてくる。
三鶴は黙り込んだまま自室のある二階への階段を上った。
古いこの家の階段はどれだけ足音を殺そうとしてもギシギシと大きな音をたてる。リビングから聞こえていた嬌声がピタリとやんだ。
「誰か帰ってきたんじゃないか」
くぐもった男の声がする。低めているつもりなのだろうが、三鶴の耳にはっきりと聞こえる。
「のろまヤロウの息子よ。気にしないで、父親に告げ口も出来ないやつだから」
すぐにまた嬌声が響きだし、三鶴は聞こえないふりをして階段を上りきった。
『のろまヤロウ』
『甲斐性なし』
『粗チン』
『加齢臭男』
『出来損ない』
義母が嬌声の間に吐き捨てる父に対する呪詛。
三鶴には、その声はキンキンとした金属音にしか聞こえない。
違う星の人間なのだ、三鶴は。
母が亡くなった三歳の年、葬式の翌日には義母は家にいた。ぬらりと光る唇がニイッと引き上げられ、母と違う星人の義母は大きな口で三鶴を飲み込もうとしていた。
キンキンと聞き慣れない言葉で喋る義母を恐れて、三鶴は一日の大半を自室で過ごして年をとった。
地球人じゃなかったのだ、自分も母も。
故郷ではないこの星に、自分のたった一人の味方だった母はもういない。
自分と言葉を通じ合わせることが出来る人はもういない。
宇宙のどこか遠くにある本当の故郷に戻る術を三鶴は知らなかった。
その失った星の破片が散る空を見たくなくて、高校卒業が近づく今も三鶴は地面を見つめて歩いている。
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