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塵に還りて蘇り 上

 いつもと変わらず、熱に魘され目を覚ます。肉と言わず臓腑と言わず、柔らかい組織全てが焼けるようだった。酷い時には全身から煙が燻っているような感覚に陥り、咳き込みが止まらない。  朝のしきたりと化した、助けてくれという悲鳴にも、もはやキャタは慌てることがなくなった。桶と布を手に寝室へ入り、おはようございますカランコエ様、とまず慇懃に挨拶する。寝間着代わりのブラウスを脱がされ、濡らした布で肌を拭き清められようとも、文字通り焼石に水の有様。いっそ井戸に放り込んでくれと頼んだ事すらある。 「今日は酷い。調子に乗るからだ」 「お前があれほど手酷く扱わなければ」  自らより一回り大きな手を掴んで喉元に触れさせる。その見目同様、厳のように頑強で、雷鳴のような苛烈さを持つ男だ。昨夜のまぐわいでも、何度手酷く噛み付かれ、のたうつ身体を痣が浮くほど押さえ込まれたかは分からない。  どれだけ詰っても、この従者は全く堪えた様子もない。それどころかつまらなさそうに鼻を鳴らす。乳母兄弟でなければ、とても許されない不遜さだった。  今も武人にしては造りの端正な手が、まるで昨夜の行為を反芻するよう、喉仏を撫でる。歯形も鬱血もない肌で唯一の瑕瑾と言えば、異国の血が混じる木の皮じみた色見程度のもので、荒れた指の腹には何の引っかかりも与えない。蛆のように急所の輪郭を辿る、ひんやりした彼の体温が心地よくて忌々しい。カランコエは喉を逸らし、低く呻いた。  根気良く身体を冷やされ、ようやく起き上がれる程になると、部屋はすっかり朝に染まっていることが分かる。窓から差し込む太陽は小屋を守るよう林立するトネリコの木々に濾され、清涼な色で床や壁を染め付ける。満ちる温かいスープの匂い。とてつもなく腹が減っている事に、ようやく気付いた。 「今日は村へ行く。頼んでいた本を取りに行きたい」 「明日は商人がやって来る日だ。食糧とまとめて運んで来るだろう」 「たまには森の外へ出ることも必要さ」  頼みはすぐさま命令の色を帯びる。年長の幼友達は従者の顔に戻り、大人しく目を伏せた。「分かった。取り敢えず飯を食ってくれ」  言われずとも、腹は今にも情けない音を立てそうだ。寝台から足を下ろす時、少しふらついてしまったので、腕を取られる。思わず振り解けば、これ見よがしに溜息をつかれた。実の兄弟よりも気を遣われるのは全く業腹だ。か弱い者であるかのような扱いをされると、かつての栄光を嫌でも思い出す。  馬を駆り、魔を屠る生活を退いて早数年。己はともかく、騎士として脂の乗り切ったキャタまでこんな生活へ付き合う謂れなど、本来有りはしない。彼が責め立てることはないと理解している。だからこそ歯痒い。彼の目を見つめ返すことが怖くて、結局カランコエは振り返ることなく部屋を出た。  主人が目覚めるまで勤しんでいた薪割りの区切りが付いてからと言うことで、結局馬に跨ったのは日も高く昇った時刻になってしまった。  2人が隠遁する森から最寄りの村まで、急がず行けば一刻と少し。待たされたせいもあり、道中カランコエは殆ど口を開かなかった。キャタは言わずもがな。お互いが元来、会話を弾ませる性質ではない。そもそも彼らの間に言葉はさほど必要がなかった。共に過ごした30年近い年月は、従者の忠誠だけでなく、主人としての尊厳の保ち方も心得させる。  広葉が大半を占める小さな森は、カランコエの一族が持つささやかな領土の北側に位置している。冬は痺れる程の寒気に襲われる代わり、暑気の過ごしやすさは羨望の的だった。もう一月も経たぬうちに、首都の金満家達が近辺の村へ行楽に訪れるようになるだろう。カランコエの兄弟の何人かも、避暑と謁見を兼ねて小屋の戸を叩くに違いない。文字通り、様子伺いだ。逗留はカランコエの母が住まう神殿になるはずなので、あれやこれやと気を揉まずに済む。  今はただ、輝かしい夏の太陽を待ち望み、長閑さに身を委ねていれば良い。のんびりと馬を進めながら、カランコエは深緑の葉がそよぐ天を仰いだ。 「平和とは素晴らしいものだなあ。甲冑を身につけて異国へいた時は、まさかこんな風にベッドの上で死ぬことが出来るような生活を送るなんて、思いも寄らなかった」  返事はさほど期待していなかったが、しばらく口を噤んでいた後、キャタは低い静かな声で、清廉な森林の空気を脅しつけた。 「皮肉は好かん」 「皮肉じゃない。事実だ。お前は神経質だな」  思わず苦笑を漏らせば、ぐっと背筋の伸びた後ろ姿だけでも、憮然を増したと分かるのだからおかしなものだった。頑固と忠実さは表裏一体だ。どちらかと言えばカランコエは、これまで前者の面へ手を焼くことが多かった。  初夏のひんやりしたそよ風へ乗り、今を盛りに繁る枝々の葉擦れが耳を慰撫する。湿った土の匂いとトネリコの蒼い瑞々しさを胸に吸い込み、もう一度ふうっと安穏の息をついたのも束の間、清浄であるべき空気へ、微かに生臭さを嗅ぎ取る。  倒れ伏す身体は、幾らも行かないうちに見つけることが出来た。まだ若い、彼らと変わらぬ齢だろう。土塊へ指を食い込ませるようにして拳を作る手から、恐らく爪先まで、青紫色の斑点に覆われている。息絶えて日にちが経過し、肉体が崩れていく予兆ではない。夏の訪れと共に、流行り病がやって来る。治癒士に治療を頼む事も可能だが、魔術は万能ではなかった。  愛馬の黒鹿毛からひらりと降り立ち、キャタはその場へしゃがみ込んだ。青年の首筋に手を当て、すぐに首を振る。 「今朝こと切れたばかりらしい」 「村まで辿り着けなかったのだな」 「この装束は南のものだ。達者な者でも、徒歩の旅ならば半月は掛かる」  ましてや病に苦しみながらだと、その道行きはどれほどの苦難に満ちていたことだろう。手綱をぐっと握りしめ、カランコエは骸をじっと見下ろした。目を逸らすことは、死者への敬意を欠くことになる。 「後で村の者へ知らせて埋葬させよう」  再び鞍に跨り先導するキャタの背中は変わらぬ厳格さで、叱咤されているようにすら思えた。騎士たる者、この程度で一々胸を痛めてどうするのかと。人は死ぬ。それは自然の理だった。  それに一度心の臓が鼓動を止めれば、後に残るのは静寂ではないか。恩寵だ。平穏は闇の形を取り、現世の辛苦を全てを飲み込み、無へと帰す。  騎士としてある時は竜を斃し、ある時は敵国の兵を斬って捨て、転戦を続けていた頃、生の苦しみに苛まれる者に数えきれない程遭遇した。鋭い爪で身を裂かれ、矢に射抜かれ、歴戦の強者が祈る。「どうか楽にしてくれ」と。  先程の青年も、今際に願ったのだろうか。早く死にたいと。それとも、生きたいと望んだか。  もしもお前ならばどちらを選ぶ。目の前の男に聞いてみても、答えは戻らないだろう。彼は余りにも強過ぎた。だからこそ、自らの傍らで生き続けている。主人を生かす。  だが世の中、強さが祝福されるとは、必ずしも限らない。  幸い、先程の青年を葬る余地はまだ十分にあるらしい。村へ入ってまず目につくのは、枯れ枝へ木釘を打ち込んで作った簡素な十字架が密集する墓地だった。身元の知れない行き倒れや、親族に引き取られなかったはみ出し者、坊主に金を渡せず臨終の秘蹟を授けられなかった貧者の数は、おおよそ100人ほどだろうか? 古い墓地は順次掘り返され、上に新たな棺が降ろされるので、正確な数など知りようもなかった。  だがそもそも、死はこの村全体に蔓延している。  墓地を通り過ぎ、肝っ玉エリゼが営む木賃宿の前を通りかかる。今日も満員御礼、覗いた食堂の床にははらわたを抜かれた魚のようにごろごろと、雑魚寝をしている連中がいた。中には先程森の中で見かけたのと同じく、身体中に不気味な斑点を刻んだ物もいる。 「やあエリゼ、あれは全員病人かい」 「勿論ですよ。盲に萎え脚に流行りの熱、皮膚病から狼憑きまで、皆今日到着したほやほやの病人ばかり」  例えどれほど恐ろしい病人を前にしても彼女は怯まない。夫と3人の息子は酒や病や戦火で奪われ、以来この世に怖いものなど何一つありはしないのだ。お陰で40を前にしても尚失われない、溌剌とした美貌にも関わらず、男達は泡を食って逃げる。  彼女が煮立てる大鍋の中では、芋や芽キャベツや牛の皮、市場で買うことの出来たものが手当たり次第にぶち込まれ、生臭い湯気を立ち上らせていた。これを食うことが出来るのは、食堂の奥にある綻びたカーテンの向こう、並べられた寝台に身を寄せ合う連中だけ。縄に凭れて眠る奴はスープのみ、雑魚寝組は萎びた蕪の葉一枚すら与えられない。例え高熱で衰弱しきった身体がそれきり動きを止めても。  埋葬は、おがくずにまみれて眠っていた連中にとってはチャンスだ。労働をこなせば、椀に一杯の煮物へありつけるかも知れない。 「森の入り口に、行き倒れの死体が転がっていた。宿の誰かに行かせて、埋葬してくれ」  分厚い掌に銀貨を落としてやれば、効果は覿面だった。数枚の硬貨を何度も口に出して数えてから、エリゼはぺこりと頭を下げた。 「ほんとに……いつも申し訳ございません、ベンヌ様」 「村に疫病が蔓延したらことだ」 「けれど今夜もきっと、天のお遣いが訪れるのでしょう?」  その事が当然と考える彼女の物言いを、キャタはいつも嘲る。守られる事に慣れた弱者の傲慢さだと。けれどカランコエは、彼女に同情していた。家族を悉く失った後で、奇跡に遭遇したのだ。それは目の前にありながら、彼女の希望を叶えてはくれない。常軌を逸せず居られるその強さは、寧ろ称賛すべきだった。 「ああ、きっと」  頷く主人から、キャタが射抜くような眼差しを外すことは無かった。本来の住人が近付かない村外れから、目的地の雑貨屋へ向かう間も、彼はじっとカランコエを見つめ、考えている。  余計なことを考えるから辛くなる。物事は刻々と変化を続けていた。エリゼにとって死が平等ではなくなったように。  荒涼とした寒村を吹き抜ける風は早くも熱砂を巻き込んでいる。 「本を受け取ったら寄り道をせず帰ろう。余り遊び呆けていたら疲れてしまうかも」  汗ばむ肌へ張り付くのを掌で擦り、カランコエは出来るだけ平静な口調でそう言った。キャタが首を振ったのを視界の端へ捉えたが、敢えて更なる言葉を継ぐ真似はしない。それが信頼の証だと、この従者には理解して欲しかった。  午後からは手に入れた本を読みながら、静かな住処で時間を潰す。聞こえてくるのは遠い小鳥の囀りと、熱心に斧を振るうキャタに叩き割られるトネリコの乾いた音ばかりだった。  騎士であった頃には考えもつかなかった日々。なのに心は静かに、寂寞へ満たされる。これこそ人々が求め、喉から手が出るほど欲しがる、平穏というものなのだ。いい加減慣れねばならない。今頃、父は、兄弟は……考えてもせんなきこと。この小屋の周囲は、物理的にも、そして魔術の力でも隔離されている。  悠然と入り込んでくるひずめの音へまず気付いたのはキャタで、額の汗を腕で拭いながら斧を下ろす。カランコエもまた、彼が目を凝らす木立の薄暗がりから現れた正体を認めると、自室のある2階から階下へと降りた。ここでの暮らしが長くなると、時折どうにも人恋しくなって仕方がなくなる。特に同じ身分のものと話す機会は貴重だった。  木陰から抜け出してきたフェロシアンは、跨る白馬も相まり、さながらお伽噺に登場する王子を思わせた。若き美貌の騎士の正体は神殿付き衛兵、即ち母の愛人の群れの中の1人なのだが、腕と処世術に長けている事は間違いない。供も付けず、まるで散歩の途中に立ち寄ったかのような顔で彼が辿ってきた街道は数刻の距離と言え、決して治安の良い場所ではなかった。 「カランコエ様、ご機嫌麗しゅう」 「いつもすまないな。母上はご健勝か」 「ええ、それはもう」  口髭を捻じるようにして笑みながら、フェロシアンは鞍へと括り付けていた袋を取り上げた。 「相変わらず無頓着な扱いを」  キャタは吐き捨てるように呟き、掌に乗る大きさの袋の中身を検める。先程から立てられている眉間の皺が、益々深くなった。 「次はもう少し多めに用意してくれるよう、太陽の巫女に頼んでくれ」 「それはアテン様が決めることだ。保たせたいならば使用を控えればいいだけのこと、彼女は御子息の身を案じておられる」  故国を滅ぼした国の弱小貴族へ後妻として下賜される際、生ける女神であったアテンは未来の夫へ嫁ぐ条件を幾つか示した。己の血を受け継ぐ子をもうける為、子種は受け入れる。だが共に城では暮らさない。信仰も捨てはしない。  勇敢だが迷信深い性質の父には寧ろ渡りに舟の提案だったろう。本国にあったものと遜色ない立派な神殿を建ててやり、カランコエを授けた後は、大小の危機が一族や領土を襲わない限り妻の元を訪れようとはしない。どこにいようと、彼女に命じることが出来るのは、天上に座す神のみだった。 「あまり頻繁に用い過ぎると……」 「私は平気だ」 「平気な訳があるものか」 「聞こえない、キャタピラー」  更に口を開きかけたキャタに先じてそう答える。物言いたげな従者と、殊更平気なふりをしてみせる主人を見比べ、フェロシアンはやはり涼しげな表情で顎を擦るばかりだった。 「確かに、殿を待ち侘びている連中は大勢おりますからね。先程村を通りかかった時も、既に天を仰いで祈っていた者が何人か……全く気の早いことに」 「愚かだ」  キャタは首を振った。 「全く愚かなことだ。縋り付くことに必死で、真実は目に映らない」 「神はあらせられます。それに必要ですよ、善にせよ悪にせよ」 「救世主は存在すべきではない」  切り捨てる言葉はまるで実態を持つように、カランコエの身を苛む。踵を返すキャタへ投げかけたフェロシアンの呟きは、明らかにおざなりの同情心よりも揶揄が優った。 「目の前の存在すら疑うとは、不信心もここに極まれりですな」

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