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塵に還りて蘇り 下

「今日母上が寄越したものと、残りの分を合わせて、どれ位保つ」  ジレのボタンを外しながら、カランコエはさながら世間話の延長のように尋ねた。全く相応しくない。この場の雰囲気を優先するにしては話題が、話題を優先するにしては態度が。 「ひと月は間違いなく」 「毎日使うとしてだぞ」  昂ぶる感情をぐっと鎮め、キャタは努めて冷静に答えた。「10日ほど、恐らくは」 「なら十分だ」  最後まで大した感慨を抱いた素振りも見せず、カランコエは身につけた全ての服を脱ぎ去り、シーツの中へ身を滑り込ませる。何度この瞬間を迎えても、彼はいつも緊張しているように思えた。これからの成り行きを考えれば当然なのかも知れないが、常に増して口数を減らし、人形の如く微動だにせず横たわる肉体を目にすると、キャタはいつも喉がからからに干からびるような欲望を覚える。薄布に縁取られたしなやかな身体の輪郭が、窓から差し込む下弦月の光に縁取られ、ぞっとするほど艶かしい。同時にリネンの白さは、唯一覗くおさなげで静謐な横顔と結びつければ、この歴戦の騎士に処女のような清らかさを与えるのだ。  いつまでも見とれているキャタを訝しみ、緩く閉じられていた瞼が持ち上がる。「来ないのか」と短く請われたら、逆らう必要などどこにあるだろう。男2人の体重に松材の寝台が微かな軋みを立てた。 「お前にはいつも迷惑を掛ける……」 「馬鹿なことを。お前から望まれることは誉れだ」 「堅苦しい言い方をするのはよせ」  真上の太い首へ腕を回し、邪悪な異教徒の魔女のように吐息でお互いの唇を湿らせる。 「この世界の誰よりも、お前に求められるとき、私は悦びを感じるんだ」  鼻先がぶつかるほどの勢いで顔を寄せたのはキャタからだった。かぶりつく口付けに、己の犬歯が彼の口角へ引っ掛かる。すぐさまじゅわりと溢れ出た、どちらのものとも知らない唾液に、痛みは中和された。  乳母兄弟たる従者へ組み敷かれる興奮に、カランコエの口腔内は燃えるような熱を孕んでいた。水気の多い舌を引きずり出せば、下品な水音が響く。 「あ……食わ、れる」  唇が離れる合間、夢見心地に呟かれる。キャタは枕代わりに差し込んだ腕で、相手の後頭部をより己の方へ引き寄せた。従順に差し出された舌に己の舌をじゅっと吸い立て、時に敏感な先端を軽く噛んでやる。痛みで燃え上がる騎士の性、ぞくぞくとした震えが、触れ合う肩から二の腕へ走るのに、思わず唇を歪めた。興奮の余りかち、かちと歯が鳴り、危うく相手の舌を噛み切ってしまいそうになる。  息すら奪わんとする執拗な接吻の間、カランコエは広いキャタの背を撫で回し、求め続けていた。彼の細い手で愛撫されると、まるで理性を期待されていない獣になったような気分になる。持っているなら早く手放せと促されて、キャタはぬるりと柔らかい舌の裏に溜まったカランコエの唾液を啜り、飲み下した。彼が食後に嗜むパイプ草へ、薄荷が混ぜられているせいだろうか。冷たく、そしてとてつもない甘さに味蕾が侵される。絡み合う舌が解け、粘る銀糸が細く長く引く頃には、お互いの表情もすっかり淫蕩に染まっていた。 「もっと」  辿々しくそう訴えてくる口を啄み、それから唇は頬に。べろりとねぶって汗の塩辛さを味わい、こめかみや耳を食んでいたら、やがて敷き込んだ脚がもじもじと落ち着きを無くし始める。シーツの中で汗ばむ太腿にぶつかった膝骨の華奢さが、劣情を煽って仕方がない。  くちくちと音が鳴る程耳の穴へ唾液を塗した後は、顎から順に下り、それから喉元へと降りる唇を、焦らしていると感じたのだろう。ふいと顔を背け、カランコエは拗ねて甘ったれた音色で鼻を鳴らした。 「も、はやく、しろ」 「焦るな。夜は長い」  夜が続く限りいつまでも、この美しい青年を手の中で弄んでいたかった。世の何よりも忠誠を誓い、愛おしい存在。生まれた時から、守るよう命じられていた、たった1人の主君。片掌で囲うようにして栗色の髪を撫でれば、無意識に頬を擦り寄せてくる仕草の何といじらしいことか。庇護欲が溢れ出すまま、這わせた親指で紅く充血した口の粘膜を割り、含ませる。赤子のように吸い付きながら、カランコエは雫の乗った睫毛を僅かに伏せた。今や背中へ回された手はしがみつくだけの役割しか果たしていない。力強く食い込む指が、高まる欲情を示していた。  カランコエがこの行為を、真の愛情から求めているかどうかは分からない。うっすら皺を寄せた眉間を始めとして、表情には苦痛の色すら窺える。ただ彼は少しの刺激を与えられるだけで、瞬く間に燃え上がる。邪悪な巫女の血を人々は畏れるが、今のキャタにとっては好都合でしかなかった。そう思おうとしているのだ。粟立つ内股へ手を差し込み、既にベタベタと濡れるほど準備された下肢を撫で回しながら、何度も己に言い聞かせる。激しくなる衣擦れの音と、頬を叩く呼吸が熱く速くなっていくのへ、さっさと陶酔したい。  キャタが大きな手で股間を覆うと、腰が引き攣るように跳ね、次いで腕を肉付きのいい太腿でぎゅっと挟まれる。喉の奥で笑いを転がし、急所たるその場所をぎゅっと握り込む。 「一度出せ」 「だ、めだ、あっ、や、そ、そんなことしたら、おかしくなる」 「おかしくなればいい」  いっそ永遠に正気を失うことが出来ればどれほど楽か。或いはもう、お互い狂っているのだろうか。灼熱の肉塊を強く擦り立てる。最初は痛がるそぶりを見せていたものの、先走りが相手の手を汚せば汚すほど──キャタ自身にとっては寧ろ望ましい汚れだったが──動きは滑らかになり、音が、耳苦しくぐちゅぐちゅと夜の静寂を傷つける。  快楽を耐え、少しでも放出までの猶予を稼ごうと、腹筋がひくひく震える様に、思わず口の中の唾液を飲み込む。欲に駆られて、ずり落ちたシーツから露わになった腹へ空いた掌を押し当てる。薄い筋肉の隆起の下で、蹂躙されることに慣れた臓腑が、きゅうと蠕動しているのを感じ取った。 「あ、ぁあっ」  加えられた圧に、カランコエは肺から無理やり押し出されたような、切なげな声を放つ。必死に頭を振って悦の縁で踏み止まり、譫言めいた喘ぎを漏らす姿が、余計に煽り立てると理解していない。魔女の息子め、と罵りたくなる蠱惑だった。  精を放つ時、カランコエは背骨が折れそうな程激しく身を反らす。腿がぐっと腕を締め付け、そして緩むのを何度か繰り返した後、膝が寝台へ突くほどくったり脱力する。淫らではしたないのは、茫洋と宙空へ視線を漂わせる顔付きも同じこと。  凝視し、動物の生臭い臭気を放つ飛沫に濡れた手で、既に禍々しく勃起した己の性器を扱いていたら、やがて震える腕が伸ばされる。力無い指先で剥き出しの粘膜を撫で回されるのは逆に煩わしく思っているとすぐに察したのだろう。そのままゆっくりと分厚い筋肉を這い上げる。傷だらけの身体の中でも、一際大きな袈裟掛けの跡が走る左胸が、特別念入りに撫で回された。 「つめたい……まるで、死んでいるかのようだ」  たった今まで欲に耽っていたとは思えないほど、無機質で抑揚の薄い口ぶりだった。やがてぱたりと落ちた掌は、自身が出したもので汚れた下腹を撫でていた。性毛に絡むぬめった白さは生々しい命を覚えさせると同時に、死の恐ろしさも想起させる。  隆々としなる欲望に比例して、彼の顔を見ていられなくなる。脱力した体を横向けに返すと、キャタはその背後からひたりと身を重ねた。 「あ、ま、まって」  幼い頃のような辿々しさでそう訴え掛けられるのを聞き流し、片膝が胸に付くほどの高さまで掬い上げる。筋肉が伸ばされる動きに連れ、後腔が引き伸ばされるくちゃりと粘つく音が、荒げられる息の合間に忍び込む。駄目押しで蒸れた皮膚の合わせ目をまさぐり確認すれば、やはりそこは人理に逆らい濡らされ、すっかり準備が整えられていた。己の為、この青年が羞恥を選んだ事実に、心臓がうるさい程激しく胸を打つ。 「待てない」  いやいやと首を振る仕草と裏腹、背後に回されたカランコエの腕は、蹂躙者の頭を抱え込んだ。縮んだ距離に安堵したのか、人差し指の爪で触れる窄まりが僅かに緩み、硬い感触を取り込む動きで甘えてみせる。キャタは興奮で切れ切れの息を触れ合わせた火照った頬に吐きつけ、腰を擦り付けた。押し当てれば容易く綻びへ飲み込まれた亀頭がじんと痺れる。 「挿れるぞ」  残酷な宣言へ、かひゅっと息が短く飲み込まれる。呼吸が止まっているうちに、抱きかかえた腹をぐっと引き寄せた。  いちどきに半分ほど挿し込み、少し戻しては押し込む位置を深め、拓いていく。緩やかだが力強い動きに、内臓はさして苦もなく順応した。細やかな襞が触れ合う端から次々と幹を舐め、一瞬でも動きを止めれば包み込むように襲いかかる。浮いた筋や括れの隆起を掻き出すようなざわめきに、思わず歯を食い縛った。  勿論、自らの肉体反応へ一番翻弄されているのは、カランコエ自身だった。 「ぅあ、あっ、ぁ・・・んん、キャタ、くるしい……」  汗で滑っては必死に掴み直して引き寄せ、指先がかりかりと後頭部を掻く痛みなどいかほどのものだろう。嗜虐心を呼び覚ます抵抗に、キャタは今すぐ抱き竦める薄い腹から皮膚や肉を削ぎ落とし、自らのものを包み込む柔らかい内臓を、彼の眼前へ突きつけてやりたくなる衝動に駆られた。お前は自ら求めているのだと、快楽に溺れるお前はこんなにも美しいのだと知らしめる為。  剣を振るう事をやめて少しまろやかさを帯びた肩口に、若々しく張り詰めた首筋に、顔を埋めては鬱血を刻めば、様々な体液でぬるつく腹が腕の中で震える。 「や、いゃ」 「何故?」 「きもち、良過ぎるの、ん、ぁ、こ、こわいんだ」  言葉を素直に口へすればするほど、カランコエの身体は中に収めたものをきつく絞り上げる。下腹が痛む程の具合に、思わず呻きを噛み殺した。 「キャ、キャタぁ、ひっ」  何とか息を整え、少しでも理性を手繰り寄せる為に、ずるりと腰を引く。性毛が擦れるまで打ち合わせていた距離が開き、今やカランコエの胎内に埋まっている自らのものは半分ほど。熱を惜しみながら、すっかり腫れ上がったしこりにじりじりと先端をすり付ける。 「〜〜、ん、ぅ……」  鋭い刺激に肩を跳ねさせ、顎を持ち上げて息を継ごうとする癖、唇は強く噛み締められている。顎を掴んで力を込め、無理やり開かせた隙間に、キャタは舌を捩じ込んだ。カランコエの眦から伝い落ちた涙が、頬を濡らす。  張り裂けそうな胸の痛みを何としてでも相手に伝えたいから、自らより華奢な身体を掻き抱く。骨がみしみしと音を立てそうなほど強く掴まれた肩が、一瞬逃げようとしたように思えて、がっちりと脚を絡め動きを封じた。  再び体が密着し、中途半端な位置にいた芯が、根元まで貫き通った。彼の肉体の中で、己が胎動している。彼の中で生きている。彼がいなければ、この命に意味はない。彼のみが己を生かす。 「嗚呼、私のカル」  唇を擦り合わせ、唯一の忠誠を誓う主人の息を飲みながら、キャタは陶酔に身を委ねるまま囁いた。 「この世の誰よりも尊い、私だけの救世主」  今は、今この時のみは私だけのもの。奥の奥まで串刺しにされ、秘めた隘路まで相手に踏み入られる衝撃に、カランコエは絶頂を極めていた。健気に勃ち上がった性器が濃い白濁を全て出し切り、項垂れても、四肢の末端にまで駆け巡る熱は彼を打ちのめし続ける。突き出された舌の下劣さは、彼のどこかだらしない神々しさを一層補強する役にしか立たなかった。 「ーーーっ、あ、ぁあ……っ!!」  輪状の括れを破った先にある、自らの形へ誂えたような肉の袋の中へ、キャタは己の種をどっぷりと注ぎ込んだ。熱い粘膜をくまなく汚さなければと、内臓が撓む程軽く腰を揺すって、全てを放つ。小刻みに震えていたカランコエの四肢は濡らされ始めた瞬間突っ張り、長い射精が終わるまで、爪先の先端までぴんと伸び切っていた。  やがて唐突な弛緩が訪れる。キャタが身体を離すや否や、カランコエはぐにゃりと寝台へ崩れた。背中を掌で撫でてやると、ぴくりと不随意な筋肉の反応が返ってくる。生きている証だった。  枕へ半分埋もれた顔を覗き込めば、閉じるのを忘れられた唇も、見開かれた目から溢れる涙もそのままに、カランコエは未だ身を苛む法悦に沈んでいた。寝台を降りたキャタや、これから行われることなど、気にも掛けようとはしない。  部屋の隅に置いてあった木桶を寝台の傍らに寄せ、左手で鷲掴んだ汗ばむ主人の髪を引き回し、その上に掲げる。用意のナイフは毎晩のように使われても、切れ味は決して衰えない。  いつもと同じく、カランコエは喉を掻き切られる時、抵抗のそぶりを一切見せなかった。まだ悦楽の中にいたのかも知れない。慣れてしまっただけなのかも知れない。或いは望んでいることだからと、己に言い聞かせているのか。従者を煩わせない為だとだけは、絶対に言わせたくはなかった。  がたがたと寝台が音を立てる痙攣が収まり、溺れるかの如く不規則な息がごぼごぼと鳴り響く音が消え、噴出する血が弱まった頃、キャタはその場へ跪き、半分ほど溜まった桶の中身に手を浸した。掬って飲み下すだけだと渇きは到底鎮まらず、ぐいと頭を掲げさせ、晒した真一文字の傷へ直接唇を当てる。脆くなった切り目のところの肉もまとめて胃に収め、それから主人に口付けた。  血の気を失ってもなお薔薇色を保つ、瑞々しい粘膜に歯を立てると、舌に留まった鉄錆の味が新たに溢れ出たものかと錯覚する。真珠のような歯列を舌先で辿り、残った唾液を心行くまで味わった。薄荷はもう、どこにも見つけることが出来なかった。  なおざりに服を着込み、見上げた窓の外の月は、先ほど振りかざしたナイフよりも鋭く輝いている。骸を包んだシーツも、ぶらりと垂れる脚も、同じ冷厳な色に染め上げられていた。抱き上げた身体はまだこんなにも熱いのに。  そのまま庭に出て、あらかじめ組んであった薪の上になきがらを横たえる。しばらくの間、キャタは死してなお美しい主人をじっと見下ろしていた。こんなに穏やかな彼の表情は、生きている時ですら見たことがない。勇敢な騎士は、死を恐れなかった。それは終わりではなく、始まりなのだから。  昼に渡された皮袋へは、没薬や様々な香木、そして鉱物を砕いて調合した薬が詰められていた。黄金色をした砂状のそれを一掴み、身体に振りかける。ついでに桶の中の血も。これは儀式だと、キャタはいつも通り思う努力をしていた。  母から受け継いだ異国の血を内に流し、そして外には怪物の血を浴び過ぎた身体は、すぐに燃え上がる。暖炉から取ってきた燻る薪を放り込めば、火の手は瞬く間に組んだ干木全体へ広がった。  赤熱が全身を舐め、皮膚を黒く焦がし始めた頃、不意にカランコエは、大きく一度身を跳ねさせた。かばりと起きた上半身は、さながら操られているかのよう──実際そうなのかも知れない。魔術に疎いキャタは、ただ見守っているしかない。  天を仰ぐ顔から皮膚が弾け、どろどろと肉が剥がれ落ち、むき出しになった骨すら赤い炎で焼き尽くされる。開かれた口が叫びを放つ猶予さえ与えられない。何しろ舌は一番に燃えてしまった。  未だ交合の幸福と興奮を残した皮膚から、赤く烈しい熱気は一瞬にして汗を蒸散させる。例えどれだけの苦痛に責め立てられようとも、キャタは壮絶な光景から一時たりとも目を逸らさなかった。そうするよう、他ならぬカランコエが命じていたからだ。  全てが塵に帰すまで四半刻と必要はしない。白い灰はまだ燃え続けている。  その中から産まれるのだ。美しく尊い生き物が。  めらめらと炎を纏う翼が大きく翻り、宙へと躍り上がる。一瞬、刺し貫く輝きに目が眩んだ。本来、人の目が間近で拝むことなど、許されない存在なのだろう。天から授けられた救世主。聖なる物に対してそんな不遜な態度を取ることなど──何より、それはあまりにも美しかった。  孔雀ほどの大きさをした火の鳥は、しばらくその場で羽ばたき、キャタを見下ろしていた。紅色の目を見つめている間、膝を折らないでいることが精一杯だった。  問いかける瞳に、キャタは頷いてみせた。人の姿を取る時も常に共に在った。例え姿が変わったところで、誓いを違えることなどどうしてあるだろう。頼もしい友が、愛すべき男が、例えどこにいようとも見守っていると確信し、鳥は天高くへと昇っていった。誇り高く、真っ直ぐに。舞い散る火の粉が雨のように降り注ぐ。痛みは感じない。これは恩寵で、癒しだった。  彼が飛んだ場所は光が満ちる。満天に瞬く星々ですら、今は添え物に過ぎない。上空を旋回する天の遣いに恵みを授けられた村は、さながら一足先に夜明けが訪れたかのようだった。歓喜の声さえ聞こえて来る気がした。  火の雨は、治す魂の失せた死人以外、全ての苦しみを取り除く。盲の目は開き、萎えた脚に力が漲る。流行りの熱は跡形もなく失せ、醜い斑紋は消え去る。不死鳥は運命を変える。この国の神の定めすら捻じ曲げて。  例えこの世の全ての人間が恩寵であると崇めても、キャタにとっては忌まわしい呪いでしかなかった。太陽の巫女もきっと同じ言葉を用いるだろう。聖なる血の持ち主が、運命に背き血を浴び続けた事で、天上の存在の怒りを買い、その身を変化させた。或いは、口実を得た神の酔狂だろうか。攫われて不遇を託つことへの意趣返しに、この国古来の神を愚弄しようと。  何にせよ、罰を受けるのは当然だと母親は考えている。息子はどうだろう。結局、生まれ持った運命を強いられるしかなかった息子は。  まだ情愛の気配が薄ら残る主人の寝室へ上がると、キャタは膝を突いて祈り始めた。一体何に己の信仰するこの国の神か、それとも主人を支配する神か。どちらも残酷な存在だ。子羊の苦悩など、一体どれだけ気にかけていることやら。  瞑想していたか時間は短いが、永遠のように長く感じた。気付けば月も地平線の彼方に消え、天突くトネリコの樹林が仰ぐ空は薄紫に染まっている。  近付いてくる羽ばたきの音に顔を上げた時、カランコエは既に窓から室内へと飛び込んできていた。既に半分近く人の姿に戻っている。倒れ込んだ身体からごっそりと束で抜ける炎の羽根は、舞い落ちる側から宙へ溶け消える。身を焼く熱さに転がり回る身体へ、巫女から下賜された石綿の白い覆い布を被せ、キャタは押さえ込んだ。   もがきは徐々に、徐々にだが収まってくる。キャタが額に浮いた玉の汗を拭い、覆い布を剥がした時には、もう見知った青年の姿がそこにある。  寝台へ寝かせ確認した身体は生まれたままの姿、傷一つない。炎は己の痛みも修復するのだろう。他人を救うものは、誰よりも自身が健やかでなければならない。  誰かの為に責め苦を背負う必要などありはしない。どうせ捧げるならば、喜びも悲しみも、全て自らに手授けて欲しい。  だが騎士たるもの、例え何度道を選ぶ機会に恵まれようと、再び今を指差すのだろう。人々の生命を守るのが騎士の役割だから。  何にせよ、今夜はもう責務を全うした。彼は立派にやり遂げた。幼子の如く無心に眠るカランコエの肌は焼けるような熱を孕んでいる。朝が来れば、彼はまた苦しみに身悶えるだろう。そして夜になれば死が。カランコエは運命に奉仕する。例えもう剣を握ることが無くなったとしても、どれだけ汚れ果てても、未だこの青年は騎士で、聖なる存在だった。  せめて少しでも彼の背負う荷と、束の間の平穏を共有しようと、キャタは己より一回り小さな身体を抱き込み、暫し目を閉じた。 終

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