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第1話

「今日はここまで。宿題出しておくから次の時に見せてね」 「了解、先生。ありがとう」 木又(きまた)(ゆう)は、週に2日、数時間だけ塾講師のアルバイトをしている。 教える教科は英語だが、丁寧でわかりやすいと生徒からの評判は良く、信頼できる先生と保護者からも人気であった。 ただ勤務時間については、塾長から「もう少し増やして欲しい」とお願いをされていた。この職場は悠が大学生の頃からアルバイトを始め、卒業してそのまま働かせてもらっていた。 悠自身も、もっと働きたいと思っているが、 長時間勤務できない理由があった。 「お先に失礼します」 まだ多くの生徒が授業をしているので、 挨拶する声は小さくなる。 ここを出たら家路に急ぐだけだ。   「ただいま」 「腹減った。何か作ってよ」 グラフィックデザイナーで、在宅勤務している弟の和真(かずま)が待ち構えたように言う。 「ちょっと待っててね。すぐ作るから」 悠は、頭の中で冷蔵庫に入っている物を思い出しながら夕飯の献立を考える。 悠と弟の和真は二人で暮らしている。 弟といっても、血はつながっていない。悠が中学生の時、悠の父と和真の母が再婚し、それから一緒に暮らしている。 父は、悠が大学一年の時に事故で他界してしまった。急に訪れた不幸に、悠は呆然としていたが、和真の母が何とか二人を大学まで面倒を見てくれた。 悠は、産んでくれた母の顔を知らない。 そのため、血はつながっていないが和真の母を、本当の母親のように慕っていた。そんな母も去年病気で他界してしまった。 残ったのは兄弟二人だけなので、仲良く暮らしていこうとしていたが、最近になり和真の我儘がひどくなってきていた。 「飯は?まだ?」 「もうすぐだよ。ごめんね」 和真に夕飯を食べさせながら、今日のことを何と言って切り出せばいいのか、悠は悩んでいた。 「あのね、和君ちょっと話いい?今日、塾長に勤務時間をもう少し増やせないかってお願いされたんだけど、2日くらい増やしてもいい?」 「だめ」 食事が終わるのを待って話かけてみたけど、いつもと同じように和真は不機嫌に答えるだけだった。やっぱりかと、悠は心の中でため息をつく。 悠は和真に生活を管理されている。仕事も時間も全て束縛されているのだった。 和真はグラフィックデザイナーとして十分な収入があるため、悠は働かなくていいと言う。それなので、塾に週2日勤務することだけ許されていた。この勤務時間が和真の中で精一杯の妥協というところだろう。 「それより、すげえデカい仕事もらえそうなんだ。だからまた頼むよ」 こう言う時の和真は絶対自分を曲げないのを悠は知っている。和真のデザイナーの仕事は悠がやっていた。だから、和真は悠を外で働かせないで、家に閉じ込め、和真の仕事の全てをやらせたいと思っている。 和真が仕事を取ってきて、中身のデザインは悠が作り、それを和真の名前で世に送り出す。 そんな事を繰り返すうちに、和真の名前は有名になっていき、去年和真は独立をした。今では更に大きな仕事も入ってくるようになっていた。 「和君、もう限界だと思う。僕にはそんな荷が重い仕事は出来ないよ。デザインの勉強だってしたことないし。ちゃんとした人に頼んだ方がいいよ」 「ここまでやっといて何言ってんだよ。 今から他の奴になんかデカい仕事渡せるかよ。仕事なんて、俺の名前で入ってるきてるんだから。悠が作って、俺の名前で出せば売れるんだよ」 「でもさ…」 「悠、俺の母さんに世話になっただろ」 それを言われると、どうしようもない。 血のつながらない悠を育ててくれた母には感謝している。だから、そう言われると和真に従ってしまうのだ。 「上手く出来るかわかんないけど…でも、これが最後だよ」 「大丈夫だよ。いつも上手くいってるだろ。ちょっとアイデア出してくれれば、後はこっちでやるから」 「わかった、今回だけだからね。それと、塾の方だけど…」 「塾はだめ。こっちの時間なくなるだろ?だから、だめだ」 これ以上強く言えない。 家を出て行くことも出来ない。 塾の給料も、ほぼ和真に渡しているので貯金も無く、自由になるお金もなかった。結局のところ、悠も和真に頼るしかないのだった。 いつも同じことの繰り返しで、自分自身が嫌になる。いつまでも和真を頼り生きていくのだろうかと考えると悠は、憂鬱になる。 和真の機嫌を損ねて、今すぐ出て行けと言われたら行くところはない。それはそれで困ってしまうので、いつも自分の気持ちを押し込め、何も言えず和真に従ってしまう。 いつかここを出て、自由になりたいと思うけど、自由になってやりたいことも、どうやって生活していくのかもわからない。結局、何も行動できない自分が一番嫌なんだと悠は考えていた。

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