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act.10-1 Ver.Rio

 メンデルスゾーンの『結婚行進曲』という定番中の定番から始まった式は、滞りなく進行していた。  薔薇園でのプロポーズのあと、莉音は一度も環の顔をまともにみることができていない。  その代わりに、刺すような視線が周囲から浴びせられているのを感じていた。  パイプオルガンの奏者というだけで、物珍しさから注目されるのはいつものことだ。ここは割りきって耐えるしかない。  そして、おそらく環はこれ以上に注目されていることだろう、と思う。  実際、参列客の方から彼の噂をする声が莉音の耳にも届いていた。  あの目立つビジュアルではそれも致し方ないことだ。  誓いの言葉が述べられる段になって、莉音は思わず自分のくちもとに手を持っていった。  嬉しかったはずの、環からの愛の言葉。  それを思い出すと、なぜか足元からじわじわとつめたい感覚が這い上がってくる。  言いようのない不安に苛まれ、眠れない夜とおなじ。  無条件に愛されることへの、潜在的な怖れ。  おそらくそれは自分の過去と関係があるのだろう、と頭では理解している。  そして、いつかは向き合わなくてはいけない問題なのだということも。  気付くと、式場では新郎新婦が両親への手紙を読み上げる場面に差し掛かっていた。  ここでの伴奏は『アメイジング・グレイス』というこれまた定番の曲が選ばれている。  莉音は深く息を吸い込むと、いつものように鍵盤に触れた、はずだった。   「……っ、」  指が動かないことに気付いたと同時に、呼吸がだんだんと早くなっていく。  うまく息ができない。なんとかしなくては、という焦りがますます事態を悪化させていく。  パニックを起こした頭のなかで、このまま死んでしまうのではないかという恐怖に襲われ――浮かんできたのは、環の顔だった。 「りお、大丈夫。まだ、新郎側が手間取ってるから」  耳元でやわらかな声が響き、痺れたままの手にあたたかな感触が重ねられる。 「息を吐くほうに集中して。ゆっくり……」  声に温度があるのだとしたら、いま環から発せられているそれは、彼の体温と一緒に違いない。  こころから安心できる、そんな音階。  ようやくセレモニーの準備が整った頃には、莉音の呼吸は正常に戻っていた。  定位置で澄ましている環と目が合うと、にっこりと笑って頷いてくれる。  莉音はなぜかまた涙が出そうになるのをなんとか堪えながら、その日の演奏を終えた。

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