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第1話

「……待たせたな、祐介(ゆうすけ)。……おや、眠ってしまったか?」  温かく包み込むような、穏やかな声。  牧野(まきの)祐介ははっと目を覚まし、体を起こして周りを見回した。  おとぎ話のアラビアンナイトの世界に入り込んだかのような、幾何学模様のタイル壁とアーチ状の窓が並ぶ美しい部屋。  明るい満月の光が差し込むベッドの上で、祐介は知らぬ間にうとうととまどろんでいたようだ。声がしたほうに顔を向けると、一頭の大きな黒豹が、青く澄んだ瞳でこちらを見ていた。 「あっ……、ごめん、ラフィーク! 俺、いつの間にか寝てたみたいだ」 「謝ることなどない。昼間、そなたは幼獣たちとたっぷり遊んでくれた。自分で思っているよりも、疲れているのかもしれぬぞ?」  黒豹――ラフィークが言って、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。  猛獣の姿をしているのに、とても優雅でしなやかな動き。  少し青みがかった艶やかな毛並みも、とても美しい。  なんとなく見惚れていると、ベッドの傍までやってきたラフィークが、ゆらりと頭をもたげた。 「……!」  祐介の目の前で、黒豹の体がするりと立ち上がる。  黒い毛がみるみる消え、褐色の丸い肩や厚い胸板、引き締まった腹が出現する。手足は太く、長く伸びて、たくましく力強い四肢へと変わった。  獣の顔も形を変え、そこに人の青年の表情が浮かび上がって、獣毛は黒髪へと変化していく。  獣の姿から人間の姿への、鮮やかな変身。  もう何度も見ているのに、その様子は驚異としか言いようがない。自分の目で見ているのに、人間と獣の血を引く獣人が本当に存在するのだということが、なんだかまだ信じられない。 「……ふふ、どうした、そのように熱い目で見つめて?」  裸身の美しさにも見惚れてしまい、ぼんやりその姿を見つめていたら、ラフィークが笑みを見せて訊いてきた。  そのままみしりとベッドに乗り上げてきたから、祐介は慌てて目をそらした。 「や、熱い目ってわけじゃ」 「そうか? そんなふうに頬を赤らめて見つめられると、俺も早合点をしてしまうぞ? そなたが俺の番になってくれる気になったのではないか、とな」 「……んっ……」  そっと顎に手を添えられ、頬にちゅっと口づけられて、思わずビクリと震える。  頬を赤らめているつもりはなかったけれど、正直に言うと胸はかなりドキドキしている。ここで彼と何度か結び合い、その悦びを体が覚えてしまっているからかもしれない。  今まで暮らしていた世界とはまったく違う異世界で、獣人の男性とともに過ごし、夜は体を重ねる。  自分がこんな奇妙な状況に陥るなんて、ほんの少し前までは想像もしていなかった。  どういう顔をしていいのかわからず、頼りなくラフィークの顔を見つめると、その精悍な顔に優しい笑みを浮かべて、ラフィークが言った。 「おっと、すまぬ。少々惑わせてしまったな?」 「ラフィーク……」 「よいのだ、祐介。何も急かすつもりはない。時間をかけて答えを出してくれたらいいのだ」  ラフィークが言って、祐介の手を取り、そっと指に口づける。 「そなたはこの獣人世界、カルナーンの大切な客人だ。俺は王としてそなたを守り、できる限りのもてなしをする。そしてそなたがその気になってくれたなら、我が番として迎え、生涯の伴侶となって愛し合う。今はそのための、試みのときなのだから」  ――――番、伴侶、愛。  ラフィークの言葉の一つ一つの意味はわかる。アクシデントで連れてこられてしまったこの異世界で、彼と「お試し婚してみる」ことに同意したのも自分だ。  彼と抱き合うのは、この世界で安全に過ごすための「まじない」みたいなものでもある。  だからこの状況自体はちゃんと受け入れているつもりだが、お試し婚の先に待っているのが、男の自分が彼の番となり、世継ぎの子供を産むかどうか、という選択なのだから、今からそこに現実感を持つというのもなかなか難しい。  結果、こうしてラフィークと見つめ合っていると、なんだかいつも夢でも見てるみたいな気分になってしまって……。 「……口づけてもよいか、祐介?」  ささやくように問いかけるラフィークの青い瞳に、甘い光が落ちる。  その目に魅了されたように、祐介はうなずいていた。         ◆ ◆ ◆  ラフィークと初めて出会ったのは、今からふた月ほど前のことだ。あの夜も、確か満月だったのを覚えている。  祐介はごく普通の二十四歳の男だ。  茶色がかったふわりとした髪と、くりっとした大きな目が少し幼い印象を抱かせるのか、夜に町を歩いていると補導されかけたりすることもあるが、れっきとした社会人だ。十八で家出同然に実家を出て上京してからは、ずっと自活して暮らしてきた。  しかしちょうどそのときは、勤めていた飲食店が倒産したせいで無職になったばかりだった。  とはいえ、これまで様々な職種を転々としてきたから、それほど悲壮感はない。  世の中は世知辛いものだけれど、ここではないどこか、なんて考えたりせず、できるだけ今を楽しんで前向きに生きていればなんとかなると、いつもそう思って楽観的に乗り越えてきたのだ。  自分が生まれ育ってきた現実世界のほかに、異世界が存在するかもしれないなんてことも、これっぽっちも考えたことがなかったのだが、自分がほかの人にはないある能力を備えていることには気づいていた。  そしてあの晩はひどく酒に酔っていたので、それを隠さなければという気持ちが働かなかった。 「……お~、今日も野良猫軍団がそろってんなぁ?」 「ゆうすけ、かえってきた」 「ゆうすけ、なでていいぞ」 「お、いいのか? じゃあちょっとモフらせてもらっちゃおうかなぁ」  祐介が住んでいるアパートの近くの、細い路地。  一匹、二匹となじみの野良猫が近づいてきたから、屈んで一匹ずつ確かめるように撫でる。野良猫といっても、このあたりの猫は半野良が多く、かなり人には慣れている。 「ゆうすけ、へんなニオイ」 「はは、そう? 飲みすぎて酒臭いのかな?」  動物の言葉がなんとなくわかり、ちょっとした意思疎通ができる。  そんな自分の能力に気づいたのは、ほんの幼い頃のことだった。  誰にでもできることではないらしい、というのはすぐに気づいたし、人に話すとたいてい怪訝な顔をされるので、ごく親しい友達にも話してはいない。  でも、動物と話すのは祐介にとってごく自然なことだった。むしろ失業したとか振られたとか、人間の友人に話して気を使わせてしまっては悪いなと思うようなことを、野良猫相手に一方的に話したりもしているくらいだ。 「ん? ああ、悪ぃ、今日はなんも持ってないんだよ。バームクーヘンとか、猫には食えないだろ? まあ俺もこれ、一人で食えるのかなって感じだけどさ」  引き出物の袋を持ち上げて、酒臭いため息をつく。  飲みすぎたのは、学生時代の友達の結婚式があったせいだ。 「……うん。やっぱ俺、なんだかんだ言ってけっこう好きだったみたいだ、あいつのこと。あいつ、パパになるんだってさ」

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