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第1話

 石上三年ビルの二階、古書店【一九二一】。  屋号の通り、大正十年からほぼ場所を変えずに店を構えている老舗、らしい。  蓬安吾は、新しく通うことになる大学キャンパス周辺を散歩していた。  本格的に専攻研究に着手する三年次からは郊外から都市へと通学キャンパスが変わる。中には三年生への進級を契機に新生活を始める学生も少なくない。かくいう安吾も、そんな少なくない学生の一人だった。  引っ越してきたばかりの賃貸アパートから十分ほど歩いたところで、整備された街路樹が並んだ大通りに突き当たる。通りには人が集まりそうなカフェや、古着屋、雑貨店が集まっており、駅に近付けば近付くほど密集していた。  ふと、右側にカーブする大きな横道に目が向いた。ちょうど高い建物の切れ目で、空が開けた印象があったからかもしれない。心なしか街路樹ものびのびと枝葉を伸ばしているようだ。  歩行者天国と化している路地を、安吾は物珍しさにかまけてきょろきょろと見回した。  視界に不思議なビルが目に入る。  屋上付きの二階建て。建物の真ん中に階段、両側に店舗という、一見するとアパートのような造りをしている。営業しているのは正面から見て左上の部屋だけのようだ。コンクリートの壁に板が張られ、小さな瓦屋根が取り付き、洒落た行灯がぶら下がっている。 「……なんの店だ?」  近付いてみると、『石上三年ビル』と書かれた壁の下、階段脇に、手作りの立て看板が置いてあった。  力強い毛筆で『古書店【一九二一】』と書かれている。 「古書店、いちきゅうにぃいち? いや、せんきゅうひゃくにじゅういち、か?」  しばらく、看板を見つめていた安吾だったが、『古書店』の魅力には抗えなかった。手持ちの文庫本を読み終え、次に読む本を探していたのだ。 「丁度いい。次の本はここで探そう」  階段を上って右手側のドアを開ければ、整然と並んだ本棚が待ち構えていた。  通りに面した大きな窓は開け放たれており、近くに大きな街路樹があるおかげか、心地良い風が吹いてくる。柔らかい光が店内に差し込まれ、平積みされた本の表紙を明るく照らした。  安吾は古書特有の微かに甘い香りに圧倒さながらも、静かに足を踏み入れた。  ドアから手を離した瞬間。  思いの外、大きくドアが閉まる音が店内に響き渡った。ドアに八つ当たりでもしたような派手な破壊音に似ている。実際にはなにも壊れてはいないのだが、確実に空気はびりびりと嫌な振動を伝えた。  他でもないドアを閉めた安吾本人が心臓を高鳴らせ、慌てて店の奥に目を走らせる。  店内の突き当たりには巨大なカウンターテーブルが鎮座していた。カウンターの上では黄ばんだ文庫や色褪せた雑誌がいくつも山を連ねている。どうやら会計と本の査定を同じ場所でこなしているらしい。ふと、山の影からひょっこりと店員らしき姿が顔を出した。  ロイド眼鏡をかけた青年だ。 「――お。いらっしゃいませ」 「あ、どうも……」  安吾が会釈をすると、青年も小さく頭を下げ、再び本の山の向こうへ引っ込んでいく。店のドアが大きな音を立てるのは今に始まったことではないのだろう。安吾はほっと肩から力を抜いた。  改めて、ゆっくりと本を見て回る。  海外の絵本に、時代を感じる服飾雑誌。使い込まれた料理本。中身の想像がつかない画集。  文庫本、単行本、新書本……中には藁半紙を折って綴じた手製のものまで。  大量の本、本、本。  思わず目が滑ってしまうほどの物量に、安吾は目を輝かせた。 (大学の近くにこんな本屋があるなんて。これなら毎日通いたいくらいだ)  大まかではあるがジャンル分けがされており、興味のある本が一冊見つかれば、その周辺で自分の嗜好に引っ掛かる本が見つかるという仕組みになっていた。気になった文庫本を手に取ると、棚の前から動けなくなった。  しばらくの間、本を手に取っては数ページ読み、棚に戻すという工程を繰り返していた。ふと、肩から力を抜くついでになんとなく顔を上げる。本棚越しにカウンター内の様子が覗えた。中では、先程の青年が年季の入った籐の椅子に腰かけて本を読んでいる。集中しているのか瞬きは一つもない。眼鏡をかけた青年が読書をしながら店番をする姿は、まるで一枚の写真のようだった。 (意外と若い人がやってるのか。もしかしてバイトか……?)  スタンドカラーのシャツに袴。長めのカーディガンを羽織って、現代風の書生スタイルを着こなしている。大学内にも和装の学生はぽつぽつ見かけるが、ここまで板についている人はそういない。  窓からうっすらと風が吹き込む。  青年の長い襟足をふわふわと動かすものの、文字列を追う青年の目線は動かない。パラリ、とページを捲る音が一際強く安吾の耳に響いた。  冷たい風に我に返ったところで、店内へ新たに人が入って来たことに気が付いた。  ドアの方に梔子色のショールを肩にかけた初老の女性が優しく微笑んでいる。 「いらっしゃいませ。ゆっくりしていってくださいねえ」  「あ、はい……」  安吾の視線が逸れたと同時に青年も本から目を離し、顔を上げた。 「おう。おかえり、キヨちゃん」 「ただいま。お店番、ありがとう」 「大したことないよ。わしはここで本を読んでただけだから」 「いいや、ここにいてくれるだけで随分助かってるさ。最近は長時間座っているだけであちこち痛くなるからねえ……やっぱりたまには動かないといけないみたいだ」 「んんん、じゃあ、久々に散歩でも再開するかあ? いつでも付き合うよ、わし」 「はっは、あんたのペースに付き合おうと思ったら健康になるだけじゃあ駄目だろうよ。あと何十年か若返らないと」  店主と店員というにはあまりにも砕けた会話が始まった。もしかしたら血縁者同士なのかもしれない。見たところ祖母と孫ほどの年齢差がありそうだが、話しぶりを聞いているとどこか友人間のような雰囲気が漂っている。  なによりも老婦人が現れた瞬間に浮かべた青年の華やぐ笑顔。見ているだけでこちらにも笑みが移ってしまう。 (……『キヨちゃん』か。よっぽど仲がいいんだな)  安吾はくすりと微笑むと、改めて文庫本が詰まった棚に向き直った。  それからさらに時間をかけ―― 「会計、お願いします」 「あらあら、ありがとうございます」  安吾は片手では持てないほどの本を抱え、レジに運び込んでいた。厳選をしたつもりではあるが、本を買う際に『一冊だけ』という予定が狂うことはよくあることだ。  青年と受付の交代をした老婦人が嬉しそうに頷いている。 「カバーはどうなさいますか」 「あ、かけなくていいです」 「はい、それじゃあ全部で千円です」  安吾が財布から千円札を取り出している間に、老婦人は手早く文庫本をまとめて袋に入れてくれた。 「はい、確かに」  現金と引き換えにずっしりとした袋を受け取る。紙は重い。束になればなおさら重量を増し、腕を強張らせる。だが後悔はしていない。なんといっても、これは物語の重みなのだ。むしろ重みに笑みすら浮かべてしまう……。  戦利品に嬉しくなり、つい、言葉数が増えた。 「ありがとうございます。あの、また来ます」 「おや、気に入ってもらえて嬉しいねえ」  優しげに微笑んだ老婦人が、ふと、なにかに気付いたように首を傾げた。 「――うん?」 「あ……なにか……?」 「いや……」  言葉を切りつつも、彼女の視線は安吾から離れない。安吾は不思議に思いながらも、視線から逃れるように目を背けた。その場を離れるタイミングがずれ、なんとなく相手の反応を待ってその場に留まっていると、すっと手を差し出される。  なんのための手だろうか。一瞬怯んで、それから老婦人の顔と出された手を見比べた。 「突然ごめんなさいねえ。ちょっと、私と握手してもらえないかね」 「握手?」  思わず単語を拾って聞き返してしまう。 「そうさ、握手。深く考えんでもいい。どうぞ、これからも御贔屓に――って言いたいだけさ。昔気質の婆さんの挨拶だと思ってくれればいい」  あまり納得のいく内容ではなかったが、握手を断る理由は特にない。ここで突っぱねてもこちらの印象が悪くなるだけだろう。 「はあ」  安吾は溜息とも相槌とも言えない微妙な返事をして、自分に向かれていた手を軽く握った。  老婦人の小さな手は、皺が多いことを除けば幼児の手とあまり変わらないようだった。力を入れすぎると痛めてしまうのではないか。嫌な想像が頭を巡り、握った後もそっと力を加減して繋いだ。  握手をしていたのはほんの数秒のことだった。  彼女の方からするりと離れ、安吾もゆっくりと手を引っ込めた。 「妙なことを頼んですまないね。ありがとう」 「いえ……失礼します、どうも」  気恥ずかしい顔をして、安吾は店からそそくさと出ていく。ドアはけたたましい音をさせて閉まったが、それ以外は静かだった。  その夜。  安吾は冷凍のオムライスにレトルトのハヤシライスソースをかけた夕食をとっていた。オムライスは電子レンジ、ハヤシライスソースは湯せんと、同時に温めることができて便利なメニューだ。オムライスに特別な思い入れはないが便利で比較的安価なので安吾の食卓には頻繁に上がっている。  行儀が悪いと思いながらも、今日買ったばかりの文庫本をめくりつつ、気まぐれにオムライスを食べ進める。今後食べるときにはチーズをかけるのも悪くないな、と思いながら次のページに指をかけた。  途切れた台詞を読み切る前に、ふと、部屋の中に違和感を覚えて顔を上げる。  明確になにかが変わったわけではない。空気の流れは変わらず、どこかで物音がしたわけでもない。遠くでサイレンが鳴っていた気はしたが、既に遠ざかって久しい。ただの安吾の勘に過ぎない。気のせいかもしれない。  けれども。  なにかが、きた。そして、いる。この部屋の中に―― 「……ゴキブリか?」  呟くも、当然、ゴキブリは返事をしない。  部屋には自分しかいないとわかっていてもつい口に出してしまう。思ったことを堂々と口に出せるのは一人暮らしの特権だ。  そう思っていた。 「違う」 「え?」  安吾の背後から、思ってもみなかった返事があった。  咄嗟に声の方を振り返ると、古書店で店番をしていた青年が立っていた。書生風の恰好は変わらず、足元は裸足だった。 「あ……あんたは――」 「……どーも」  照れ笑いのようなものを浮かべて、彼は小さく会釈した。笑ってはいたがどこか苦みが含まれている。 「ど、どうやって部屋に? どこから入ってきた?」  その場所に立つためには、どうしても安吾の前を通る必要がある。  そもそも――部屋に入るには、安吾の右前のドアを開けなければならない。だがドアは閉められたままで、開いた音はしなかった。窓から入るにしてもここは二階で、カーテンも閉めてある。どんなに静かに動いたとしても窓を開ければカーテンが動くはずだ。たとえ本に意識が向いていたとしても、安吾が侵入者に気付かなかったというのはありえない。では、どうやって部屋の中に入ったのだろうか……。  安吾は混乱しながらも、文庫本には片手でしおりを挟んだ。それから相手から目を逸らさずにドア側へゆっくりと移動する。  青年は安吾を制するように、両の掌を見せながら話しかけてきた。 「驚かせて悪いとは思ってる。けど、まずは落ち着いて――」 「お、落ち着け? 落ち着いていられるわけがないだろう。これは不法侵入だぞ、なにが目的だ」  安吾は声が震えそうになるのを隠しながら、自分の携帯端末の行方を必死で思い出す。鞄から出したか、室内で使ったとしたらどこに置いたか、はたまた充電は残っていただろうか。考えを巡らそうとすればするほど、頭の中は真っ白になっていく。 「すまん。勝手に部屋に入ったことは、謝る。けど……とにかく、話を聞いてくれないか」  青年は腰が低く、奇妙な落ち着きをみせていた。  まるで、理性で感情を抑えつけているような、一種の緊張感が表情に張り付いていた。ただ、じっとこちらを見据える双眸には不思議と力強さを感じる。青年の眼力のせいか、予想外の謝罪のせいか、安吾はその場から動けなくなってしまった。  気圧されてたまるものか、と、せめてもの抵抗で口を動かす。 「ふ、不法侵入をしておいて、よくそんなことが言えるな……身勝手が過ぎるんじゃないか。そもそもどうやって俺の部屋に入ってきたんだ。俺は玄関に鍵をかけたはずだが」  途端、青年は唸り声をあげて悩みだした。 「そうだな、どこから話せばいいか」 「なんだ。侵入方法を話すのがそんなに難しいのか?」 「うーん、ええと」  再度、声をあげて考え込んだ後、青年は腹をくくった様子で切り出した。 「――わしは、魔女・加藤キヨの元使い魔。魔法を使ってこの部屋まで来た。玄関に鍵がかかっていようと、窓の近くに人がいようと関係ない。主のためなら、どこであってもなにがあっても駆けつける」 「は?」  魔女。使い魔。魔法。  ……本気で言っているのだろうか。  安吾は目を見開き、納得できないとばかりにただ首を横に振った。  そんな安吾の態度を予想していたようで、青年は寂しげに苦笑した。 「やっぱり、駄目? 説明になってない?」 「当たり前だ。あんたのどこに、魔女の使い魔の要素がある? もう少しマシな言い訳はできなかったのか」 「や、突っ込むところはそこなんだ。まあ、でも、そう言われると弱るなあ。これでも百年近く生きているんだけど」 「百年」  再び、目を丸くする安吾。不躾に青年を上から下まで眺め―― 「悪いが、そんなに長生きしていたようには見えんな」 「おお、そうか。うーん困ったなあ。どうしたら納得してくれる?」 「納得もなにも、いきなり部屋にやってきておいて、魔女やら使い魔やら魔法やらの存在を信じろというのは無理がある」 「でも、わしがそうなんだから、いるんだろう。他の魔女や使い魔には会ったことはないけれど……キヨなら知ってたかも」 「キヨ。キヨっていうのは、あの店にいた人のことだよな。あの人は魔女なのか?」 「…………」  青年は押し黙って俯いた。 「……どうした?」 「……っ」  青年の声が微かに揺らぐ。  安吾が怪訝そうに青年を見やると、今度ははっきりとしゃくりあげた。 「……っう」   泣いている。  静かにしゃっくりを堪えているためか、時折、ぐっと息をのむ音が聞こえた。よくよく顔を見ると目元にはうっすらと涙のようなものが滲んでいる。 「お、おい」  安吾は瞬時に、自分が彼の地雷を踏んでしまったことを理解した。けれども安吾が二の句を告げるより先に、青年は地雷の内容を提示した。 「キヨは――死んだ」 「え?」  反射的に言い返したが、青年の言葉を反芻する。 (死んだ? あんなに元気そうだったのに? どうして?)  ほんの数時間前のやり取りの中では、具合が悪そうな様子は見受けられなかった。  と、なると事故の類だろうか。ふと、この近くを通っていった救急車のサイレンを思い出し、血の気が引いていく。 「だ、だから、落ち着け……っふ、落ち着いて、話を……」 「お、おい」  青年から漏れ出る嗚咽を聞いているうちに毒気が抜かれ、次第に緊張感が緩んでいくのがわかった。気付けばドアではなく青年の方へ、そろそろと距離を詰めていた。 「わ、わし……どうしてっ……う、キヨぉ……なんで、わしにぃ、なんも言わずに……死んっ……なんか、言ってけよぉ……」  言葉にならない声を連ねながら、青年は子供のように泣いていた。  こんなとき、どうしたらいいのかわからなくなる。そもそも、どうして人前でこんなに泣けるのか、泣き顔を晒せるのか、こうも剥き出しの感情を表に出せるのか。安吾には理解できなかった。  ただ黙っているのも居心地が悪く、だからといってなにができるわけでもない。それでも涙を堪えようと必死になっている彼の傍らで、慰めとばかりに声をかけた。 「……落ち着きが必要なのはあんたの方だろ。それじゃ、聞ける話も聞けない」 「う、うう……」 「あんた、名前は?」 「――洒落。加藤洒落」 「粋な名前だな。俺は安吾だ。蓬安吾」 「あんご……」  相手の素性も目的もわからないというのに、名前は教えたのは軽率だったかもしれない。  しかし自分よりも大人びた風格の青年が、溢れる情念を堪えて相対している姿には思うところがあった。同情とよぶべきかどうかはまだわからない。 「あんたの話を聞こう。だが、まずは俺の質問に答えてもらってからだ。いいな?」 「……おう」  すん、と鼻をすすった青年――洒落は、何事もなかったかのように、落ち着きを取り戻していた。嘘泣きだったのではないだろうか、と安吾の脳裏に疑念がよぎったものの、赤らんだ鼻を見て目を伏せた。 「あんたが魔女の使い魔で、古書店で会ったあの人が魔女だとしてだ。どうして俺のところに来た?」 「キヨちゃんから聞いたけど、店を出るときに握手しただろ」 「握手。したな、そういえば」  こうして思い出してみても、とにかく不可解な行動だった。 「死に際の魔女と握手すると、魔力が移る。魔力が移った相手は魔女になる――いや、なれる。そうやって魔女は継承されていくんだ。つまり、今の安吾は魔女の後継者ってことになる」 「今度はそうきたか」  安吾はくらくらとした感覚に襲われた。  魔女というのは女性の魔法使いのことを指すものだと思っていた。いや、魔法使いが魔法を使う人間全般を指すのであれば、魔女と女性の魔法使いとの違いはなんなのだろうか。そもそも日本に魔女がいるというのはどういうことなのだろう。  どうでもいい思案がぐるぐる回り、数秒経ってようやく、自分が言われたことに対して疑念を抱いた。 「なあ、俺は魔女になりたいと宣言した覚えはないんだが、どうしてそんなことになったんだ?」 「わからん」  洒落は再び目を細めた。また涙が滲みかけている。 「……俺が魔女の魔力を引き継いだせいで、彼女は死んだのか?」 「それは違う!」  はっきりとした否定に、安吾は目を丸くした。この男からこんなにも力強い言葉が返ってきたのは初めてだった。 「安吾のせいじゃない。キヨは自分の死期がわかってて、安吾に握手を求めたんだ。自らの意志だ。でも、どうして安吾なのかは……わからん」  ますます理解不能な話に転じてしまった。  こんな話を信じろという方が難しいのは事実だが、突然の不法侵入に対する理論的な説明ができないのも確かだ。 「思い付いたんだが」  安吾が切り出す。 「こういうのはどうだ。あんたが魔女だの使い魔だのだって言うなら、証明してみせてくれ。そうだな――たとえばこの窓から道路が見えるだろ。住宅街だから今の時間だと人も車もあまり通らない。俺の部屋に侵入したようにあの場所へ移動してみせてくれないか」 「ん、わかった」  あまりにもあっさりとした返答を聞いた瞬間。  ぱっ――と。まさしく、動画や画像の編集で消してしまったように、洒落が消えた。 「……え?」  安吾は間の抜けた声をあげ、辺りを見回す。  だがどこにも洒落の姿はない。  玄関はもちろん、窓や部屋のドアが開いた形跡もない。人が移動すれば必ず起こるはずの、空気の流動も物音も全く感じられなかった。 「まさか、そんな」  慌てて窓のカーテンを開けた。  転落防止用の手すりの向こう。先程、安吾が指定した道路が見える。夜の暗がりの中で、書生風の恰好をした人影が街灯に照らされていた。間違いなく洒落だ。安吾の視線に気付いたのか、照れ臭そうに片手を上げてみせた。 「な……」  驚く間もなく、再び洒落が視界から消える。 「これで、信じてもらえた?」 「……!」  安吾の背後で洒落が呟く。続けて、ふっと、なんの気なしに零した溜息にはどこか春の冷気を纏っていた。  この部屋から音もなく外に出られたとしても、道路の関係上、五分ほどかかってしまう場所だ。それを一秒ともかからない速さで行き来してみせたということになる。まさしく瞬間移動と言っても過言ではない。  洒落がなにをしたのかさっぱりわからないが――外へ出て戻ってきた数秒の間に、彼の声音が変わった気がした。トーンが一つ落ちたというか、気怠い雰囲気になったというか。  背筋に走るものを感じ、安吾はおそるおそる背後に目を向ける。 「安吾」 「あ……あんた、一体……」 「だから、使い魔だって。 ……なあ、安吾。今度はわしの話を聞いてくれるな?」  洒落の古めかしい眼鏡の奥の瞳がとろりと揺れている。潤んでいるのだろう。どこか柔らかい印象を与える双眸から真っ直ぐに注がれる眼差し。じっと覗き込んでいると、どこか熱っぽい彼の視線から目を離せなくなった。  むしろ、熱意が安吾にも移ってきたかのように安吾の目も熱をもって潤みだす。 「な、なんだ?」 「ちょっと魔力を分けてほしい」 「魔力?」 「久しぶりに使い魔として動いたから枯渇気味なんだ。大丈夫、ちょっと貰うだけだから」  ゆっくりと洒落が歩み寄り、安吾の肩に触れる。他人に肩を抱かれているはずなのに、安吾は不快感や不安を覚えることはなかった。洒落の指が意味ありげに安吾の頬や口元を撫でてきてもそれは変わらない。それどころか期待に顔を上げてしまう始末だ。  なにより、魔女や使い魔に並んで、魔力というファンタジー用語が洒落の口から出てきても、安吾にはなんら引っかかるところがなくなっていた。それほど安吾の思考回路はぼんやりと惚けていた。 「魔力を分けるって、どうするんだ」 「こうするんだよ」  洒落は安吾の唇に自身の人差し指を食ませるようにあてがった。 「ん……」  唇の乾いた表側と濡れた裏側の境界を、指の側面が撫でていく。触れていたのはほんの数秒で、ほんのりと湿った指はすぐに離れていった。  指はそのまま、洒落の口元へと運ばれる。 「ん」  ちゅ、と小さく指を吸う音が聞こえたところで、安吾は、はっと我に返った。 「……あ? あんた、今、なにをした?」 「唾液を介して安吾から魔力を貰った。けど、これ、すごい。安吾の魔力、どうなってるんだろう」  なにから突っ込めばいいのか最早わからない。仕方なく、短くストレートに尋ねる。 「どういう意味だ」 「もっと欲しくなる。こんなの初めてかもしれない。なんていうのか、うーん……」  「美味しい魔力?」と末尾に疑問符を浮かべながら、困ったように笑う洒落。対して安吾は目を細めて低い声で呟いた。 「唾液を舐めて美味い魔力とか不味い魔力とか言われてもな……」 「すまん、上手い言い方が見つからなくて。わしもこういう魔力を貰ったのが初めてで……いつもはこんな感じじゃないんだけどなあ」  洒落はさらに自分の指を舐めた。  さりげない仕草だったが、安吾には色気めいたものを感じて、つい洒落の手を掴んだ。 「舐めるな」 「や、でも」 「いいからやめてくれ。成人男性が指をペロペロしているのを間近で見せられる方になってみろ」 「じゃあ、どうやればいい?」  少しふてくされたようにしている洒落が可愛らしくて、安吾は口角が緩みそうになる。 「まだ魔力が欲しいのか」 「……うん」  再び、洒落の瞳が揺らめく。  もう、どうにでもなってしまえ。そんな自棄(やけ)が、安吾の頭に響いた。  安吾は制止のために握っていた手を引っ張った。体を寄せて、自ら距離を縮める。 「いいの?」  洒落が耳元で囁く。  歯止めになるはずの言葉が、やけに蠱惑的に聞こえてくる。  相手の要求に従って――いや、普段なら絶対に拒否するようなことまで自分自身が望んで求めてしまう。 「しょうがないだろ。必要なら」 「すまん」  洒落が小さく呟くと、急いた様子で口づけを落とされた。  どうやら随分と余裕がなかったらしい。  くっついていたのはほんの一瞬。次の瞬間には貪りつかれていた。 「は、ふっ……んぐ」  呼吸をしようと口を開けたところを狙って、洒落の舌が雪崩れ込んできた。他人の舌に触れるのはおろか、キス自体も慣れたものではない。思わず体が引けたが、それだけだった。口内を蹂躙されているはずなのに、ぞくぞくと快感が湧いてくる。 「ん、あ? なん、ひゃ、こへ……」 「んぷ……安吾、もっと、ちょーらい」  だらりと唾液が溢れるのも厭わず、安吾は唾液を求める動きに応じる。耳を塞ぎたくなるような下品な水音も、興奮を煽る材料だ。掴んでいた手も、次第に安吾の方が縋るような形に変わっていく。  やはりおかしい。なにもかも。だから、ほぼ初対面のこの男にキスを強請ったのも、おかしな気の迷いだ。それでもないというのなら、洒落の言う『魔法』というものをかけられているに違いない。 「なあ、安吾。もっと、もっとちょうだい……」  次第に苦しくなる呼吸の中で、洒落が強請る声を聞いた気がした。 

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