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第2話
いつの間に眠っていたらしい。
安吾が目を覚まし、近くの時計を見ると午前七時を少し過ぎたところだった。
二度寝がしたくなるような微睡む感覚や夢の途中で打ち切られて不完全燃焼といった不満はない。体からしっかり眠気が引いていて、安吾は自ずと布団を退けて起き上がっていた。
気持ちのいい朝というのはこういうことだろうか。これほどまでに晴れやかな起床は小学生以来かもしれない。普段から不調を引きずっているわけではないが、あまりにも充足している。つい、口から感想が漏れた。
「……いい朝だ」
「お、それならよかった」
小さなキッチンから、ひょっこりと洒落が顔を出す。
「あ?」
「おはよう」
「……」
瞬時に昨夜のことを思い出す。不可解な方法で部屋へ侵入されたこと。魔女と使い魔のこと。自分からキスを求めたこと……。最後の記憶がよみがえったところで、安吾はベッドから跳ねるように飛び出した。その勢いのまま、なにやらキッチンで作業中の彼の元へと詰め寄った。
「あっ、あっ、あんたっ……!」
「おーおー、ちょっと待てちょっと待て。キッチンで暴れたらいかん」
「か、勝手に、キッチン使うな!」
「すまん。昨日の詫びに朝食作ってた。よかったら食べて」
食パンにハムとチーズをのせてトースターで焼いたもの。塩胡椒たっぷりの目玉焼き。温められたパックのコーンポタージュ。どれも材料は冷蔵庫の中に入っていたものだ。
できたばかりの食事の匂いに、安吾の腹が反応する。くるるるる……と、まるで動物の鳴き声のような音が響いた。
「おなかへった?」
「……」
「使ったものはスーパーが開いたら買って返すから。それにしても野菜が少なかったなあ。野菜、嫌い?」
「余計なお世話だ」
安吾は料理が苦手なわけではないが、調理に対するこだわりや執着もない。大失敗はないが大成功もない。上手くできたことがあっても、もう一度同じ味のものを再現することはできない。必要に迫られてやっている面が強く、割と適当だ。面倒だと思えば、とことん手も抜きがちになる。
ここのところは野菜を――というより、料理自体に失敗することが重なっており、すっかりやる気を失わせていた。そのせいで買い出しの際も生鮮食料品からは手が遠のいていた。
だからこそ、目の前の朝食は簡素ながらも魅力的だった。そうでなくとも人が作ってくれた家の食事というのは貴重なのだ。
不法侵入してきた相手の作った朝食を食べるなんてどうかしている。だが、食事に罪はない。それに、別にこれで諸々の疑念や痴態が帳消しになるわけでもない。ひとまず自分に危害を加えることはないようだし、ここは様子をみるというのも一つの手だろう。
安吾は自分に言い聞かせると、ようやく肩から力を抜いた。
「作ったものは仕方がない……食べる」
「よかった。じゃあ、座って待ってて」
洒落に促されて、安吾はローテーブルの前に腰を下ろす。ほどなくして、見栄えよく食事をのせた丸皿が安吾の前に置かれた。
「飲み物いる?」
「あ、冷蔵庫にお茶が」
「わかった。棚にあるマグカップ、使うぞ」
洒落はまめに動いた。冷蔵庫へ翻し、マグカップとペットボトルに入った緑茶を持って戻ってきた。既にどこになにがあるのか把握しているようだ。丸皿の隣にカップに注がれた緑茶が添えられる。
「どーぞ」
「……いただきます」
洒落に見つめられながらトーストの端に齧りつく。
ハムとチーズの塩気がじわじわと舌に唾液を滲ませる。一口飲み込むと、さらに次の一口を求めて口を大きく開けた。
「――美味しい?」
尋ねられて、安吾は洒落に目を向けた。
嬉しそうに反応を待つ洒落の顔。眩い視線に耐えられず、すぐに目を逸らす。それでもなにも言わないというのは、作ってもらった側としていかがなものだろうか。はたと、思い直し、小声で感想を告げた。
「美味い。自分では、食べられない味だ」
「よかった」
へへっと笑う洒落の顔は古書店で見たときと同じく、愛らしく思えた。
安吾が噛み切れないハムをもぐ、もぐ、と食べ進めていると、こちらを眺めている洒落に気付く。
「……あんたは、食べないのか」
「安吾の分しか作らなかったからな。勝手に人の家のもの使っておいて、自分の分まで作るほどずうずうしくはない」
「勝手に人の部屋には入るのに?」
洒落の目が丸くなる。
安吾は厳しい顔をしてトーストを皿に置いた。
「あの後、変なことはなにもしていないだろうな。いや、そもそもキスをした時点で変なことをしたわけだが……」
「変なこと、変なこと……?」と、洒落は口の中で繰り返し、何度も左右に首を傾げて考え込んでいた。数秒、黙り込んだかと思うと、一際元気な声で告げる。
「ない! あの後、安吾寝落ちしちゃったからなあ。そのまま寝かせておいた。だから服もそのまま……あ、着替えさせておいた方がよかった?」
「そうか。なにもないならいい」
内心ほっとしつつも安吾は表情を崩さない。本題はそこではないのだ。
「――まだ目的を聞いてなかったな。あんた、なんでここに来たんだ。俺に……あ、あんなことをするために、わざわざやって来たのか」
口に出すと余計なことまで思い出してしまいそうで、安吾は咄嗟に言葉を濁した。食事の最中に尋ねなければよかったと少し後悔をしている。口の中にはまだ洒落の舌の動きが感覚として残っているのだ。
安吾が口内を静かにもごもごとさせている間、洒落は真顔のまま固まっていたが、やがて深く長い溜息をついた。
「安吾に、頼みがある」
「魔女になってくれって?」
「違う。 ……や、部分的には間違ってないな」
洒落が居住まいを正し、改めて真剣な表情で安吾に向き直った。
「魔女のキヨが死に、キヨから魔女の力を引き継いだ安吾。俺を使い魔から解放してほしい」
講義終了。
教授の「今日はここまで」という言葉を皮切りに、教室内の均衡が崩れる。一本の緊張の糸が切れたかのように、皆が体を動かし、溜息をつき、言葉を発した。初回の講義だからかとにかく人数が多く、一斉に動き出すとちょっとした混乱が生じる。学生たちは窮屈な思いをしながら一様に出入口を目指した。
安吾はそんな様子を尻目に、混雑の解消を座って待っていた。普段の安吾ならばヌーの群れのような学生たちの一部になっているところなのだが、今日は急いた気分になれなかった。
頭の中は魔女のことでいっぱいだ。おかげで講義の内容もろくに入ってこなかった。
今朝――あの後。洒落は安吾が魔女であるとした体で話を進めてきた。そのまま続ければ水掛け論に似たやりとりが展開されることは目に見えている。安吾は大学を理由にして逃げるように彼と別れてきた。
洒落は食い下がるかと思いきや、「終わったら、店に来て」と、約束をしてあっさりと去っていった。
安吾の心境から言うと、自分が魔女だと言われてもまったく受け入れられなかった。正確には信じられなかったともいえる。
他人に断じられたからといってあっさりとそれを認められるほどの信用性はない。もちろん、洒落がとんでもない力を持った『なにか』であるということは間違いない。あんな瞬間移動など普通の人間には不可能だ。そこまで考えたところで、洒落の声が脳内で再生された。
『もっと、ちょうだい』。やけに低く、甘えた声音だった。まるで別人のような……。
「!」
思い出した途端、ずくりと腰が重くなる感覚が走る。記憶を遡っただけでこうも体が反応してしまう。耳をくすぐる声、心地よい優しい視線、身を委ねてしまいたくなる仕草。あれもなにかの魔法やら魔力やらと関係しているに違いない。
そういえばあまりにも気持ちのいい目覚めで考えることもなかったが、キスをした後は本当になにもなかったのだろうか。自慰をした後に襲ってくる眠気に襲われたような感覚に似ていたが、安吾にはまるで記憶にない。あのとき、なにが起こったのだろうか。
安吾は口をきつく結んだ。思考が深まれば深まるほど、ぐっとなにかを堪えるように固めた拳に力を込める。
不意に安吾の肩へ手が置かれた。
「よっ、あーんごちゃーん。どしたの? 変な顔して」
多少の動揺を押し隠しながら、目だけを動かして相手を確認する。
白鳥黄。彼も安吾と同じく講義に参加していたらしい。同じ学科であれば専攻基盤選択科目が被ることはよくあることだ。ただ、安吾が教室に入ってきたときには既に黄は友人たちと一緒に前方の席へ座っていたため、声をかけることはなかったのだが……。
「……変な顔なんてしていない。変だと思うなら地顔が変なんだろ」
「お前ねえ……なかなかのべっぴんフェイスがなーに言ってんの」
「誰がべっぴんフェイスだ」
「お・ま・え・さ・ま」
つんつんと人差し指で頬をつつかれる。
「で――なに悩んでんの。授業キツい? それとも早起きがやだとか?」
「悩んでないし、キツくないし、早起きは辛くない」
「じゃあどうして変な顔なんかしてたわけ?」
執拗ともいえる質問に安吾は溜息をついた。
黄とは大学入試の面接で隣の席になって以来、なにかと顔を合わせる縁が続いていた。いつの間にか二年という歳月が経ち、今では互いに友人と称する関係になっている。あまり友人とつるむことのない安吾と違い、黄は常に誰かしらと一緒にいることが多い。誘いが多く、わざわざこちらへ寄ってくる道理はないはずだが、こうして見かけたからという理由でちょくちょく話しかけてくる。
目に付いたというだけで離れて座る安吾に話しかけ、顔つきを指摘した上でなにがあったのか聞き出そうとしてくる。これを鬱陶しいととるか、人脈を作りだせる人間はマメだととるか、非常に悩ましいところである。
それはそれとして、黄に事実を告げていいものなのか。安吾は僅かながら逡巡(しゅんじゅん)した。
本来ならばこうも荒唐無稽(こうとうむけい)な話は口外しない方がいいのはわかっている。話したところでそう簡単に信じてもらえないのは目に見えている。加えて、自身の精神面やら環境変化をなにかと言われる未来が容易に想像できた。
「……? どうした?」
「いや……」
一瞬でも黄に昨日のことを打ち明けるべきか考えたのは、彼が自他共に認めるオカルトマニアだからだ。
綺麗に纏まっている遊んだ髪型。うっすらと施しているらしいメイク。ブランドもので統一されているというのに気取った感じのない服装。どう見ても、大学でミスターコンテスト入賞をねらっている男子学生という肩書きの方がしっくりくる。
だが彼の真価は見た目だけではない。
一度、友人同士での飲み会とやらに誘われ、二次会の会場として黄の部屋に上がったことがある。怪しい聖遺物の複製品、判読できない言語で書かれた古書、年代物のおまじないグッズ、UFOの欠片、見たことのないDVDやビデオ……さらには人前で大っぴらに広げられない珍品まで博物館のように丁寧に陳列されていた。髑髏をくり抜いて作られたカップで酒を出されたときには、一気に酔いが醒めたほどだ。もちろんカップ自体は精巧に作られた偽物だったのだが。
一度部屋に上がった人間は表面上の付き合いこそ変わらないものの、二度と部屋には来たがらないらしい。
「ちょっと考え事をしていただけだ」
「考え事? あ、どの講義とるか悩んでんなら、昼メシの後で話そうぜ。俺もさあ、どれとるか悩んでんだよね。文化社会学と口承文化論。呪文とか魔術とかやりそうなのってどっちだと思う?」
「……あんた、来る学科間違えたんじゃないか」
黄は素直に頷いた。
「やっぱりそう思う?」
「概要を読め、概要を。教授にそんな質問したら叱られるぞ」
「読んだ。んで、聞いた。したら、叱られた。カテゴリーエラーだってさ」
「なら俺に聞くな。講義は教授の意向が指針なんだからそれがすべてだろ」
安吾は肩をすくめて立ち上がる。
出入り口の混雑は解消されていた。安吾が通路へ出ると黄も付いてくる。このまま外の食堂へ向かうつもりなのだろう。
「なあ、黄。魔女について詳しいか」
「詳しいかって? 一般の認識以上の知識はある方だと思うけど」
「聞きたいんだが、男でも魔女になれるのか」
「魔女ぉ? 魔法使いじゃなくて?」
言いたいことはわかる。安吾は心の中で深く頷いた。
「まあ……史料では男でも魔女っていうのが存在したらしいから、なれないわけじゃないと思うけど。魔女になる方法ってたくさんあるみたいだし、自称でも一応なれるみたいだしさ」
「魔女って握手して相手を魔女にするんじゃないのか」
「おっ、よく知ってんじゃん。そういえばそんな民間伝承があったなあ……あっ、わかった。魔法少女のアニメでも見た?」
「見てない」
黄はまだ安吾の心の奥底にある悩みを言い当てようとしているらしい。
「じゃあなんで魔女なんか。安吾ちゃん、ファンタジーはあんま読まないんじゃなかったっけ」
「あんまり読まないだけで読まないわけじゃない。まあ、魔女のことは……少し気になることがあってな」
「へえ?」
黄が面白いものを見つけたとばかりに、隣で口角を上げている。安吾は言わなければよかったかと発言を後悔した。
「気になることってなんだよ。まさか、引っ越し先の大家さんかお隣さんが魔女だったとか言うなよ?」
「そんなわけないだろ……それこそなんのアニメの話だ」
部屋に突然男がやってきて、その日に会った人間から魔力を引き継いだ云々と言われただけだ――とは言えなかった。
ふと、興味半分、冗談半分に黄に尋ねてみる。
「もし、黄が魔女なり魔法使いなりになったらどうする」
「また突飛な……まあ、そりゃ決まってるでしょ。本当に魔法が使えるかどうか確かめる。使えるなら使ってみたいしさ。俺なら手始めに空を飛ぶね、空」
「……なるほど。確かめる、か」
いいヒントを貰った。安吾の足取りが心なしか軽くなる。
考えれば単純明快な話だ。自分が魔女であるならば確かめればいい。魔女になったことでなにかが変わったのなら、変わったところをみればいいのだ。魔法が使えるようになったのなら、使ってみる――といったように。
教室のあった建物から外へ出た。すぐ脇には長い石階段が伸びており、食堂にはここを上っていく必要がある。安吾は乱雑な並びの石段を上り進めながら近くの芝生や噴水に目を走らせた。学期が始まったばかりで一年生が多いせいか普段よりも密集度が高い。芝生や噴水は学生に人気のキャンパススポットではあるが、遮るものがないために夏場は暑く冬場は寒い場所だということをまだ知らないのだ。我先にと場所取りをしている姿を見て、はたと安吾は食堂の席取り戦争に敗北していることに気が付いた。
階段を上りきったときには気付きは確信に変わった。食堂には教室の出入り口とは非にならない程の学生たちが殺到していた。
混雑具合に絶望している傍らで、黄も「うわっ」と声をあげる。
「一年生多いからか。これじゃ昼休みが席取りで終わっちゃうね」
「……コンビニで買って教室で食うか」
「そうするかなあ。あ、次の講義なに? 俺は西洋史」
「一緒だな。じゃあ行くか」
頷いて食堂よりさらに奥まった場所を目指して歩きだす。次の講義の教室はキャンパス内の高い位置にある建物内にある。道中はとにかく坂が多く、時間ぎりぎりで走ろうとすればかなりの労力を要し、走るくらいならばと遅刻どころか出席を諦める学生も多いという。故にその教室で開かれる講義は学生たちにやや嫌われる傾向にあるが、唯一食堂以外で食べ物を調達できるコンビニがある場所でもある。タイミングさえ合えば、教室を独り占めする形で昼食をとることを可能なのだ。
だるくなった太腿を動かして坂を上りだすと、黄が「そういえばさあ」と話しはじめた。
「さっき安吾ちゃんの言ってたのって、死に際の魔女と握手すると、握手した人間に魔力が移るって話だよね。魔女は死が近付くと魔力が高ぶって一度だけ未来を見ることができるってやつ。その未来を元に自分の魔力を引き継がせる人間を選ぶんだって」
「そんなこともできるのか。未来を、見る……」
その話は初耳だった。
だとしたら、死んだというキヨという魔女の見た未来は一体どんなものだったのだろうか。
疲労と思索から溜息をつくと、黄は息も乱さずに涼しげに尋ねてきた。
「安吾ちゃんさあ、なんの本読んだの? さっきから男が魔女だとか、魔女になるだとか。魔術書でも見つけたわけ?」
「……【一九二一】って古書店で、色々とあったんだ。このキャンパスの近くの店なんだが黄は知らないか? この辺りは俺より長いんだろう?」
黄はキャンパス移動を見越してこの周辺に居を構えていた。
もしかしたらなにか知っているかもしれないと安吾は期待していたのだが、返答はあっさりとしたものだった。
「いや、知らないな。どこにある店?」
「石上三年ビルってところだ。ええと……」
安吾は【一九二一】について話した。老女と青年が経営している古書店で、好みの本が揃っていて……と安吾が語れば語るほど、黄は首を傾げた。
「週末とか結構この辺りを回ってるから店なんかは詳しいつもりなんだけど。大通りからすぐのところにあるビルなら知っててもおかしくないのにな……」
安吾は店までの道順や道標になりそうなものを挙げていったが、黄が頷くことはなかった。
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