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第3話
「――ここ、だよな?」
西洋史の講義を終えた後、真っ直ぐ【一九二一】へ向かった。
黄の話を聞いて安吾はやや不安が湧いた、店は昨日と変わらない場所にあった。
建物の雰囲気も前を通る人の様子も変わりない。ただ、昨日は出ていた立て看板は下げられていた。一見しただけではそこに店があることには気付けないだろう。
戸惑いつつも、看板や目印もないドアを開ける。
ドアの先には昨日見た光景と変わらない空間が広がっていた。心地よい空気、古書の香り、そして会計台の前に座って読書をしている洒落……。声をかけるのをはばかっていると、洒落の方が気付いて口を開いた。
「いらっしゃいませ」
「……ああ」
安吾は綺麗な横顔を見つめていたことを知られたくなくて、ぶっきらぼうな返事をした。
「来てくれたんだ」
「あんたが来いと言ったんだろう」
「そうだけど、本当に来てくれるかわからなかったから。そうそう信じられる話じゃないし」
「別に信じたわけじゃない。俺は真偽を確かめたくて来た」
「真偽?」
「魔力を引き継いで魔女になったということは俺にも、ま、ま、魔法? ……が、使えるということだろう。それを確かめたい」
安吾が宣言した瞬間、明らかに洒落の顔色が変わった。眉がいかにも困ったと言いたげな風に曲がり、視線が斜め下を向く。
「……えっと」
「できないのか?」
「正確にはまだ完全な魔女じゃないから……」
「どういうことだ」
「うーん……魔女っていうのは、使い魔から力を貰って初めて魔法が使えるんだ。だから、安吾が魔法を使うには使い魔と契約しないといけない。そもそも魔法に対する知識がないからすぐには無理だ」
「……俺とあんたは契約していないのか」
キヨから魔女の魔力を引き継いだという話から、安吾はてっきり使い魔も一緒だと思っていた。
「まだしてないでしょ」
茶目っ気たっぷりに呟く洒落。
「言い方に含みを感じるな。じゃあ……き、昨日のあれはなんだったんだ。使い魔から力を貰って魔法を使うなら、あんたに魔力供給は必要ないだろう」
「わしの魔力と安吾の魔力は別物だからなあ。安吾から魔力を貰って、わしや安吾が魔法を使うための魔力を生成する。言うなれば、安吾の持ってる米をわしが炊飯してごはんにする――って言えばわかりやすい?」
「つまりあんたは炊飯器や湯沸かしポットのようなものか。使い魔がいなければ魔女であっても魔法が使えないということは……俺はあんたと契約とやらをする必要があるのか」
「契約する必要はない。わしは使い魔から解放――魔女との契約状態を解除してもらいたいだけ。だから正確には安吾が魔女になる必要はないよ」
安吾は眉をひそめた。次第に話が込み入ったものになってきたようだ。
「わからんな。あんたと話せば話すほど疑問が増える。あんたが今、どういった状況にあるのか把握できない。あんたを信用していいのかも……今は判断がつかない」
安吾の言葉に、洒落が小さく頷いたようだった。そしてゆっくりと立ち上がりながら言った。
「――ちょっと長い話になるから、奥で話してもいいか」
安吾が了承すると、洒落はレジカウンターのスイングドアを開けて中へ招いた。カウンター内へ足を一歩踏み入れた安吾は、それまで気付かなかった階段箪笥に目を移した。年代を感じさせる古い箪笥だ。段差に足をかける前にきっちりと靴を脱ぐ洒落に倣って、安吾も靴を脱ぐ。安吾が靴を脱いでいる間に、二階の暗がりへ続く階段を、洒落は慣れた足取りで上っていく。おそらく二階に住居空間のようなものがあるのだろう。
先行く洒落の肩越しに、ぼんやりとした電球色の灯りが見える。安吾は灯りがあることを確認すると、滑りやすそうな足元を注視した。
顔を上げたときには店舗の二階とは思えない光景が広がっていた。
左側を見る。
一段、二段、高いところに部屋いっぱいの巨大な蔵のようなものが鎮座していた。これは本当に蔵なのだろうか。蔵のような構えをした部屋なのかもしれない。入口らしきところにはこれまた立派な錠前が下げられていた。圧倒的な存在感に安吾は足を止めて、しばし左側ばかり眺めていた。
「こっちだ」
洒落に言われて、今度は右側の方へ目をやる。
右側は和風とモダンの組み合わさったリビングとキッチンだった。脚の低いソファやテーブル。壁一面の障子。天井には真鍮製のシャンデリアが釣り下がっている。床の間があるということは畳敷きの和室のはずだが、部屋いっぱいにふかふかのラグが敷かれていた。大小様々なクッションが薄型のテレビの前に並び、現代の人間に合わせて過ごしやすいように整えられているのは明白だった。
どうも三階は部屋の壁を抜いて、大きな一部屋にしているらしい。安吾の想像よりもはるかに広い居住スペースが右側に広がっていた。
洒落はまっすぐキッチンへ入っていくと、ティーポットやカップを用意しはじめた。
「お茶淹れるから、その辺座って待ってて」
洒落に言われ、安吾は脚の低いテーブルの前に所在なさげに腰を下ろした。安吾がアラビア模様のクッションやふかふかのラグの手触りを楽しんでいる間に、洒落はティーポットでほうじ茶を淹れて持ってきた。
「どうぞ。キヨの真似しただけだから、上手く淹れられたかわからないけど」
「茶が淹れられるだけいいだろ。俺はそんな習慣ないからできる気がしない」
安吾は憮然として茶を注がれたティーカップを受け取った。
茶葉からなにかを淹れるという行為自体に慣れていない。茶が飲みたければコンビニでパックかペットボトルの茶を買ってくるまでだ。
味だって、なにを飲んでもたいして変わりない――そう思いながら熱い茶の上澄みをほんの少しすすって、息をつく。
「……これ、美味いな」
ただの熱い茶がこれほど美味しいとは思わなかった。熱さに耐えながらもう少しだけ口に含む。
「キヨの忘れ形見だ。キヨが調合して焙じた」
「自分で茶を……? すごいな」
「薬の調合と開発はキヨの得意分野だったからなあ。よくクロに咳止めを飲ませてて……」
「クロ。猫か?」
「クロは九郎之介。この店の創始者で、キヨの夫。そうだな、クロの話からすることになるか……」
カップをテーブルに置いて、洒落は語りだした。
この店【一九二一】は名前の通り、一九二一年にクロとキヨが開業した古書店だ。 ……長生きなのは、魔女の特権。もっとも、この時点でキヨはまだ魔女じゃなかったんだけど。キヨも安吾と同じようにクロから魔力を引き継いで魔女になったんだ。
そう、そもそもの始まりはクロ。クロは魔女だった。
クロとキヨの出会いは、この店ができる前だって聞いている。
どういった経緯で二人が出会ったのか、クロがどうやって魔女になったのか詳しい話は聞かされたことはない。わしより古くから仕えていた使い魔は知ってたかもしれんが、まあ、今となってはわからん。クロもキヨもあんまり話してくれなかったし。
わしが使い魔になったのは二人が店を開けた二年後の、大震災の年。店は無事だったけど周りはひどい惨状だったらしい。わしに当時の記憶はほとんど残っていないが、話によると震災の瓦礫と同じような扱いを受けていたらしい。つまり、キヨが気付いてくれなければ震災の瓦礫処理に巻き込まれて死んでいた――ということだ。瀕死のわしをキヨが救い上げ、クロが使い魔として契約してくれた。おかげでわしは一命を取り留め、人のような形を取ることを許された。
ん?
……ああ、そうそう。わしは元々野良犬。元の姿は大型のわんちゃん。
見たい? 後でならいいよ。
あ、別にいい……そっか。じゃあ、話の続きな。
人の身に戸惑うことは多かったが、元の姿でいる時間より長くなってくるとすぐに慣れていった。自分の意志、考える力、思う心、自由な領域が多いっていうのは楽しいもんだ。本も読めるし、料理もできる。クロやキヨも色々教えてくれたっけなあ。
知識と知恵がそれなりについてくると、クロから与えられた恩恵は自分が理解している以上に大きなものだということに気が付いた。この店も、魔女も、使い魔も、都合が悪くなるときだけ社会から外れる。戦争で招集されることもなければ、破壊されることもなく、幾度とない社会経済の荒波に呑まれることもなかった。それがクロの魔法による防衛術のおかげだとわかったのは、キヨが魔女になってからだった。クロが残していった魔法だけど、下手に弄ることができなくて今でも残ってる。
どういう魔法かって?
あー……細かい仕組みを話すと長くなるからものすごく掻い摘んで話すと、本を買いたいって人以外には店や店員が認識されなくなる。
認識阻害? うーん、ちょっと違うな。えっと、なんていえばいいのか――完全に社会から外れるんだ。対象は魔女や使い魔だけじゃなく関連するものすべてが影響を受ける。暗喩じゃない。実際に、いない人間になってしまうんだ。身分証明書みたいな形式的な文書からも、人間の記憶や意識内からも消えてしまう。
かなり広範囲で強力な魔法だよ。
しかもそれがクロの死後も続いてるんだからかなりのものだと思う。本当にすごいんだよなあ、クロは……。
えーと、どこまで話した?
そうそう、使い魔はわしの他にもいた。ほとんどの使い魔はクロが亡くなったときに伴っていったが、わしはキヨの元に残った。それがクロの最後の命令だったから。クロは亡くなる寸前にキヨに魔力を移してわしと契約させた。本来、魔女が亡くなるときは使い魔をどうするのか判断と準備が必要で……。
んっ? 亡くなるタイミングって事前にわかるものじゃないのか?
だって身辺整理ってそのためにあるんだろう?
……違う。そうなのか。
人間にはわからないかもしれないが、魔女にはそれがわかるし、ある程度の時間が与えられる。その間に、自分の身の回りを整える。自分が亡くなるときに使い魔も連れていくか、新たな魔女に引き継がせるか、使い魔の役目を解くか。大事な準備だ。死後にやりとりするのは大変だからな。
けど、キヨはなにもしなかった。
わしになにも言わなかったし、なにもしなかった。
亡くなったのは突然のことだった。クロのときと同じ。ソファに座って、目を閉じて、わしが洗い物をしている間に、亡くなってた。
そうだ……もう一つ。人間と違うところ、思い出した。
魔女は亡骸を残さない。
亡くなると骸をその場に残さないんだ。
だから、人間みたいに、そ、葬式も、でき、なく……。
すまん、ちょっと……
すん…………。
ぐじゅ…………。
……ぐず、もう、大丈夫……平気。
……わしは使い魔から解放されたいと思っているが、契約破棄には期限がある。
魔女が既に亡くなっているなら、三十日以内に破棄しないといけない。
亡くなった魔女と繋がっていられるのはおおよそ三十日間だから、やりとりするならそれまでに済ませないと、繋がりがなくなってしまう。繋がりのない死者と契約を交わすのは死を覚悟することよりも危険なことだ。
だから、安吾。協力してくれないか。
「――だから、安吾。協力してくれないか」
洒落の静かな声が部屋に響いた。
話の区切りはついた。だが場は緊張感に包まれている。洒落は安吾の返答を待っているようで、じっと見つめて逸らさない。一方の安吾は居心地の悪い視線から逃れようとカップに手を伸ばした。だいぶ冷めたほうじ茶で喉を潤し、息をつく。
「俺を魔女にするということは考えていないんだな」
「だって安吾は魔女になりたいわけじゃないだろう?」
洒落は穏やかに濡れた目を細めた。
「そうだな。別にそれは望んでいない」
安吾にとって、魔女というのは魔法が使える人間という認識だったのだが――どうやら、洒落の話を聞くところによると違うらしい。なおのこと慎重にならざるを得なくなった。
洒落の話を信じるならば、キヨとクロという二人は一九二一年以前に生まれた人間だということになる。ざっと百年ほど生きている計算だ。確かにキヨは老女ではあったが、仕草や動きに衰えはみられなかった。とてもそこまで老いた人間とは思えない。
と、いうことは――
「魔女になるというのは、人間ではなくなるということなのか?」
「人間じゃなくなる……?」
洒落はきょとんとして、安吾の言った言葉を反芻した。洒落には安吾が感じている違和感に気付いていないらしい。
「……いや、わかった。答えなくていい」
話を聞けば聞くほど馬鹿げた話だ。そんなファンタジーがあってたまるかと高ぶっていく、のだが。実際に洒落の瞬間移動を見ている安吾には抗いようがなかった。トリックがあったとして、安吾には見当も想像もつかない。
「安吾は魔女にならなくていい。方法を教えるから、俺を使い魔から解放してくれればいいんだ。もし、上手くいったら報酬としてこの店をやる。まるっと全部」
「はあ?」
今度は店をやるときた。最早突っ込みが追い付かない。
「店をやるだなんて随分あっけらかんと言うんだな。協力するかしないかはともかく、その、方法如何によっては拒否するぞ。たとえば血を差し出せだの、肉体を捧げろだの……結果、精神を悪魔に乗っ取られるとか……」
「安吾、映画の観すぎ」
笑う洒落を安吾がじとりとねめつける。
視線に気付いた洒落は笑うのを堪えて続けた。
「……そういうのじゃない。ちょっとした、儀式をするだけ」
「『ちょっとした』儀式? 儀式ってそんなに気楽なものなのか」
「他に比べたらそう複雑なものではないから。ただ薬草を調合して、決められた時に式をすればいい。必要なのは薬とタイミングと魔女の魔力。タイミングはともかく、薬は魔女の魔力がないと取り扱えない。わしが作って一人で使うのも駄目。だから安吾の力が必要なんだよ」
「それで、俺に固執していたのか。なるほどな」
頷いて、安吾は再び溜息をついた。
他にも洒落に尋ねたいことは山ほどある。
儀式のこと。魔女について。報酬……。情報があまりにも点在していてまとまらない。それが重要なことなのか、自分の好奇心を満たしたいがための疑念なのか判断がつかないほどだ。
どうしたものか。
尋ねるべきことと興味本位で口にしない方がいいことをどう扱うべきか。
まずは時間がほしいところではあるが、時間を置かずとも変わらない答えはある。
一際低い声で、「わかった」と呟くと、洒落が背筋を伸ばしたのがわかった。
「あんたを使い魔から解放する。協力しよう」
「おお? おお、うん……」
安吾の予想に反して、洒落は驚いたように目を丸めて唇を尖らせた。しかし、すぐに安吾の怪訝な顔に気付いて言葉を付け加える。
「そう言ってくれて嬉しい。嬉しいけど、なあ、安吾。どうしてそんなにあっさり協力してくれるんだ?」
「うん?」
「どう見ても怪しくて、得体の知れないやつが『お前の力が必要だ! お礼に店をやるから!』なんて、めちゃくちゃ変な話だろ? 最近の詐欺メッセージでももう少しひねりがある」
「自分でやっておいて言う話か? 変だと思うならもう少し考えて行動しろ。それを他所でやったら通報されて終わりだぞ」
「すまん……」と零して小さくなる洒落に、安吾は肩をすくめた。
「まあ、そうだな。俺が言うのもなんだが……こう見えても俺は困っているやつを放って置けないんだ。関わりをもったやつの面倒は最後までみないと気がすまない」
「……」
「何故黙る」
「いや、そういう冗談なのかと」
「そうだな」
安吾は苦々しい表情を浮かべて言った。
「……人付き合いは苦手なんだ」
「へえ」
「そうだ。だから……上手い断り方を知らん」
「……そうか。なるほど、わかった。安吾は優しいんだな。俺に魔力を分けてくれたし」
「……!」
今度は安吾が言葉を詰まらせた。
触れないようにしていた昨夜の記憶に嫌でも引っかかるものがあった。優しい声音が耳の奥で蘇る。腹の奥底でずくりとなにかが反応したようだった。
「そういえば、自分が本当に魔女の魔力を引き継いだのかどうか確かめたいって言ってたなあ。確かめる?」
「いい」
「そう言わずに」
「いらん!」
安吾が身の危険を覚えて体を捩らせるも、洒落は安吾の使ったカップに手を伸ばしていた。安吾が口を付けて使っていた場所に唇を寄せた途端、ポンと手を打つような軽妙な音が響いた。
呆気にとられたのも束の間、洒落がいた場所には巨大な犬が座り込んでいた。
真っ白で美しい毛並み。引き締まった体つきに似合わない太く、大きな尻尾。そして端正な顔つきに、ずり下がって乗っかったロイド眼鏡……。そこでようやく、この大型犬が洒落の正体だということに気が付いた。
「あんた、白犬だったのか。それにでかい」
ぽかんと開いた安吾の口から漏れたのは、間抜けな感想だった。
「でかいでしょ」
「しかもその状態で人語を喋れるのか」
「まあね」
得意げに擦り寄ってくる洒落に、人の面影はほとんど感じさせない。犬の愛らしい仕草そのものだ。
「魔女の魔力がないと、わしは魔法も変身もできない。安吾の体液で俺が変身できたのがなによりの証拠だ」
「そうか」
返事をして頷きながらも、既に安吾の頭からは確認云々といった事柄は消え去っていた。
気付けば、安吾はふわふわの洒落の毛に触れていた。
手のひらいっぱい使って頭を撫で、首の後ろに触れ、耳の付け根を掻いてやる。洒落の目が細まって、気持ちよさそうにふふんと鼻を鳴らす様に、思わず安吾の表情も緩む。
「可愛い」
と、それまでされるがままだった洒落が弾かれるように顔を上げた。目を丸くしたまま、ひたすら安吾を見つめている。残念ながら安吾は犬の意思疎通に関して知識を持ち合わせていないため、それがなにを示しているのか見当もつかなかった。
「……どうした」
「なんでもない」
洒落は、ふいと顔を背けた。
けれども安吾の手を止める素振りはみせない。安吾は続けて洒落の頬をやんわりと揉んでやる。
「これも俺の魔力とやらを使ってできることなのか」
「ん、そう。使い魔に魔力を渡すことで、できることが増える、うぅ……そこ……」
「ここがいいのか」
「んふふ、ん、そう……」
すっかり口元を丸くした洒落は、うっとりと安吾の手に身を委ねていた。
「あんた、こっちの姿の方がいい。可愛くて好きだ」
「むん」
「……不満か?」
「おう」
意外な返事がきたかと思うと白い犬の顔が近付く。安吾が顔を横に背けると、背けた先に犬の鼻先が回り込んでいた。
ぺろり、と頬が舐められた。
続けて、耳の付け根。鼻筋。そして口元。
唇に触れる直前で、犬の顔が人に変化していることを知った。
「あ、あんたっ……ん、ぶ」
飲み込まれた言葉が、口の中で弾けて消える。
なにを言おうとしたのか、絡んでくる舌と唾液のせいで思い出せなくなる。
「安吾……すまん……」
引っかかっているだけだったロイド眼鏡が床に落ちて、洒落の裸眼が間近に迫る。
昨夜見たものと同じ。蕩けた、熱っぽい視線。
宝石のようにも果物のようにも見える、鮮やかで濃密な色が、安吾を捉えて離さない。
「あ、あんた、またそれ……やめろ、その目……」
「どうして?」
「どうしてって……」
その目で見られると、どうしても抗えなくなる。
自分にとって楽な方へ――気持ちのいい方へばかり転がっていこうとしてしまう。
安吾は微かに喉を動かした。
喉の動きが洒落の目にとまったのか、洒落は擦れた声で囁く。
「すまん……魔力供給させて」
「は? 嘘だろ、昨日やっただろう……おい、ちょっと待てっ……!」
洒落が安吾の体に縋りついた。助けを求めるような仕草に、安吾は胎の奥からくすぐったいものが這い上がってのを感じてしまう。その感覚には覚えがあった。自慰をする前の高揚だ。それを――目の前の洒落で興奮するなんて。
一瞬固まっている隙に、洒落は安吾の手を掴んでいた。
「すまん……ちょっとだけ。ちょっと、指咥えてくれるだけでいいから……」
「ちょっとって、こう頻繁にやられていたら『ちょっと』ではないだろう」
「ね?」
小首を傾げた洒落は握った指を安吾の口元へ持っていった。
「ね、ってあんた、なに考えて……」
「頼む。安吾に魔力供給してもらわないと魔法が使えなくなって……動けなくなる」
「……う」
キラキラとした美しい目が安吾を捉える。
どうにも、この目には弱くていけない。理由は先程はっきりした――この目は仔犬や仔猫が物を強請るときにする目なのだ。安吾に犬猫を飼った経験はないが、数少ない動物との触れ合いで何度か見覚えがあった。人間が実践するとわざとらしく見える目力を、この男はさりげなくやってみせる。暑苦しさやべたべたとした甘ったるしさを感じさせない。流石は正体が犬なだけのことはある。
「……くそ」
協力すると言った手前、やめろとは言えない。
安吾は溜息をついた後、うっすらと唇を開いた。微かな隙間から安吾の指先が口内へ侵入していく。自分の指であるはずなのに、動かしているのは洒落という変わった状況だ。
「苦しくない?」
「ん……」
「唾液に浸けるみたいに指を咥えて……舌だけ動かして舐めて……」
「ほう、ふぁ?」
最初はただ口の中へ入れたというだけだったはずなのに、洒落が導くままに舌を動かして指をしゃぶっている。
「上手上手。指、増やすね」
「は、ふあ……? んっ、ぷ」
洒落は本数を増やし、指をさらに咥えさせた。安吾は器用なものだと感心しながらも、異を唱えるつもりでじろりと睨みつける。そのせいで力が入ったのか、思いがけず音を立てて指を吸ってしまった。
ちゅう、と大きな水音が鳴って、正面の洒落から目を逸らす。
目を逸らす直前、垣間見えた洒落の顔は笑っていた気がした。安吾の反応を見て楽しんでいる、そんな洒落の意地の悪さがほんの少し露見したようだった。
「おい、もういひふぁろぉ……」
「うん。そうだね、もういいかな」
引き抜かれた指はしとどに濡れ、手の甲にまで涎が垂れている。洒落は優しく両手で握り直すと、ふやけた指を前に呟いた。
「じゃあ、いただきます」
「……さっさとしろ」
洒落は苦笑しながら安吾の指を口に含んだ。
指先にちろりと舌が這う。生暖かい舌の感触に驚いて、安吾は指を微かに動かしてしまったが、逆に洒落の興味を惹いてしまったらしい。逃れようとした指を追って指の根元から舌が絡みついた。
皮膚の柔らかい部分にねっとりとした感触が這った途端、耳の後ろからぞわりとした感覚が込み上がる。
ちゃむ、と唾液を吸って、優しく食まれれば、たまらなくなった。
「う……」
「気持ち悪い?」
「そうじゃない、そうじゃないが……」
吸われ、舐られ、深く咥えられ……さながら口淫を受けているような気分になる。
「……!」
安吾が意識した瞬間、下腹部が熱を持ったのがわかった。緩く勃ちあがった股間を隠そうと体を少しずつ丸めていく。こんなことで隠し通せるとは思わなかったが、それでもなにもしないよりもいい。
なにも知らない洒落はさらに距離を詰めて言う。
「気持ち悪いわけじゃないなら、もうちょっといいか? もう少し吸わせて」
「駄目だ。 ……いや、少しだけ、待て」
口から指を離したかと思うと、見せつけるように根元から先端まで一舐めされる。爪の先をちゅっと吸い付かれると、一気に羞恥で顔が熱くなった。
そのせいでさらに股の膨らみが大きくなる。
「ん――もしかして、勃った?」
「ばっ、なっ……そ、そういうことを言うな。仕方がないだろう、これも生理現象だ」
指摘を受けたせいか混乱気味で、誰に言われたわけでもないのに言い訳が口からついて出てしまう。
「と、とにかく、トイレはどこだ」
「……なあ、安吾」
洒落は立ち上がりかけた安吾の手を引いて制止させた。
中途半端な体勢のまま、安吾は洒落を見つめ返す。なにを望んでいるのか察してしまう自分が憎らしい。握られた手から、緊張や興奮といった諸々の感情が互いに伝わっているのかもしれない。
洒落は舌舐めずりをしながら提案してきた。
「わしが――処理、しようか。それ。そっちでも魔力供給になるし」
「な、な、な……しょ、処理って、あんた、それは」
「やったことないから、気持ちいいかどうかはわからんが。 ……悪いようにはしない」
「だが……」
戸惑いとは裏腹に安吾は期待に息を漏らした。自身でもわかるほどに艶めいた吐息だった。
切羽詰まっているのは洒落だけではないのだ。それに、洒落の指と舌で先程の刺激を受けたらどんなに気持ちいいか――などと一度想像してしまったらもう止まらなかった。
「お願い。安吾、舐めさせて。舐めるのが駄目なら、扱くだけでもいいから……」
瞳の奥を覗き込まれながら嘆願されれば拒めなかった。
ややあって、安吾は小さく頷いた。
「……だが、舐めるのはやっぱりよせ。汚いから」
「わしはそういうの気にしない」
「俺が気にする。 ……手だけで、いい」
「わかった」
洒落はチノパン越しに安吾の股座へ手を這わせた。
強弱をつけて揉まれて、さらに形がはっきりしてくる。
「う……はあ……」
「脱がしてもいい?」
「脱がすなら、早くしろっ……!」
「汚れる」と安吾が呟いている間にチノパンのボタンを外され、ファスナーを下ろされる。さらに下着に指がかかると、安吾は反射的に脚を動かして阻んだ。
「怖い?」
「……ただの反射だ。いいから、早く」
洒落が改めて下着をずらすと、布地を引っかけてしまうほどに硬く勃起した陰茎が現れた。
「ほほー、でっかいなあ。綺麗な顔して意外とご立派」
「やめろ。じろじろ見るな」
「そう?」
先端から滲む先走りに構わず、洒落は陰茎を握った。
指の中で踊らせるように遊ばせて、不規則に扱く。他人の手の熱と自分では予想できない動きに安吾は上擦った声を漏らした。
「んっ……はあ……」
「裏筋、好き?」
「い、言うなっ……ん、く……」
ただ適当に動かしていたようで、実は安吾の反応を見て好きな場所を探っていたらしい。敏感な場所を指の腹で何度も往復されて、安吾は震える吐息を押し殺した。
「すごい、透明なのがいっぱい出てきた。気持ちいいんだ」
うっとりと呟く洒落。
にち……と指先を合わせては引いて、纏わりついた透明な液を確かめている。ちろりとひと舐めして顔を紅潮させた。
「うん。やっぱり美味しい。興奮する」
「おい、やめろ、そういう変態発言をするな」
「やっぱり直に舐めたいかも……」
「人の話を聞け……っあ!?」
安吾が突っ込みを入れている間に洒落は先端を口に含んでいた。舌で亀頭の周りを一周すると、さらに深く咥え込む。
「ひあっ、あっ……!? な、舐めるなっ、ふぅ、んん……! 舐めるなって、言った、のに、はあ、ん」
「ふっ、すまん、安吾。すまんっ……は、ふ」
激しい音を立てて吸われ、安吾は腰をくねらせた。とてもそんな動きではやり過ごせないような痺れる快感が走っていく。
逃げれば逃げるほど、洒落は執拗に追いかけてくる。舌が尿道をつついたかと思えば、指先は裏筋をくすぐった。まるで犬のように、安吾の体液を求めて熱い息を吐く。
「はあっ……はっ、安吾……もっと、ちょうらい……」
「も……腰が……」
腰が、溶けそう。安吾はそう主張するだけで精一杯だ。
ずくずくと、脈動に似た疼きが収まらない。
それなのに、洒落はさらに激しく陰茎を啜り上げた。精液――魔力を蜜液かなにかと思っているのではないだろうか。陰嚢の奥に溜まっているものを吸い出さんとばかりに、片手で玉の裏をもくすぐりはじめた。
「ま、待て、も、イく、イきそ……」
「うん。出して。いっぱい出して」
ちゅ、じゅ、ずず……と、音を伴わせながら、口内で上下に擦りあげる。裏筋に舌が這った瞬間、安吾の中で射精欲が大きく沸いた。
「ん、う、うううぅっ……!」
洒落の頭を抱えるようにして、安吾は堪え切れなかった声を漏らして果てた。
「んふ……」
放たれた精液はそのまま外の空気を知ることなく洒落の喉を通っていく。射精をしている最中も緩やかに吸引をされていた。そのせいなのか、ぴくぴくと陰茎が震え、いつまでも快感が引いていかない気配がある。
このまま陰茎から別のものが溢れてしまうのではないかと安吾が不安に思っていると、洒落はようやく唇を離した。先端の残滓もすっかり吸い取った彼はどこか満足気に笑みを浮かべながら囁く。
「なあ、安吾。これじゃ、足りん。もっと気持ちよくなって」
「は……? 足りん、って、あんた……っ、くすぐっ……たっ、おい、どこ触ってるんだ」
「蟻の門渡りって知ってる? 陰部と肛門の間のとこ」
洒落の塗れた指が垂れた陰茎のさらに下をなぞる。
やんわりとした力加減だというのに、洒落が触る場所はなぜかくすぐったくも気持ちがいい。力を失くしていた性器が再び首をもたげたのがなによりの反応だった。
陰嚢を手のひらで弄びながら、洒落はくすくすと笑う。
「――ここの裏。中から押すと、すっごく気持ちいいらしいよ」
「ちょっ……ちょっと、待て……ひっ!? や、いっ、そこ……!」
陰嚢や陰茎の付け根を指の腹で軽く押されると、なんとも言えない微かな刺激が胎に走った。
同時に洒落の言葉に冷汗をかく。
「な、中からって……」
「ん」
短い相槌の後、後孔に洒落の指が触れる。
塗れた指で触れられたせいか、するりと指先が浅く潜り込んだ。
触れられてようやく恥部の異変に気付いた。ひどく熱い。その上、やけに柔らかく解れていた。
……まるで、受け入れる準備が整っているかのように。
「なん……こんなの、おかしい、そんなところがこんな……」
「おかしくない、おかしくない」
優しく言葉を紡ぐ洒落をちらりと見やる。
穏やかな瞳の奥が、やけに光を放って輝いているようにも見えた。
「あんた、その目……! やっぱり、変な、ことをして……」
「変なことってなに?」
「……っ」
無自覚なのか、わざとなのか。
安吾が言葉を探っている間に指先は侵入を深めてくる。
「ひっ!?」
二本に増やされた指が内壁を強めに撫でた。
瞬間、今まで感じたことのない感覚に襲われた。ほんの一瞬のことだったが、咄嗟に腰を引いてしまう。
「や、ま、まて、まずい、そこは、だ……!」
「ここ?」
押し潰すように示されれば、どうにもできなかった。
電流が走ったように上半身が反り、刺激に体の内側が震える。
「やっ、は、んっ、んんんぅ……っ!」
ほとんど反射のように射精してしまった。
一瞬、漏らしてしまったのかと思ったが、飛び散ったのはかろうじて液体に近い精液だった。
「なんっ……これ、おかし……」
自慰で得られる快楽とは明らかに違う。ぴくぴくと陰茎が震え、いつまでも快感が引いていかない。少しでも体のどこかを動かそうものなら余韻で熱い息が零れた。
「ほぉ――たくさん出たなぁ」
躊躇なく零れた精液を口に運ぶ洒落。
ハートマークが飛んでいるような口調に、安吾は突っ込みを入れる余裕もなかった。
呼吸を整え、ゆっくりと体に力を入れていく。足の裏にぴりぴりとした痺れが残っていて、なかなか下半身を動かせない。
ようやく体勢を整えたときには、傍らの洒落は満足気に息をつき、怪しげな雰囲気はすっかり潜めていた。
「はー……すっきりした。ごちそうさま」
「ばっ……か、か、あんた」
濡れた陰茎を下着で隠しながら、安吾は洒落を睨んだ。
「あんた、まさか今のをキヨさんにも……」
「えっ!? やらないやらない! やってない! やるわけないし! これは安吾だけ!」
「なんで俺だけなんだ」
「な、なんでだろう……? わ、わしにもわからんが……でも、キヨにはこんな恥ずかしいこと、しない」
恥ずかしいこと、と言われて安吾の眉がぴくりと動いた。
射精後でぼんやりとしていた感覚から、一気に現実へと浮上させられたような気分に包まれる。
「許さん」
「すまん」
「許さん」
「すまん……」
安吾の表情を見て、洒落は次第に返事を弱々しくさせていった。
言いたいことはたくさんあったが、洒落の態度を前にするとなにも言えなくなってしまう。吸い込まれてしまうかのように言葉が消え失せてしまうのだ。
安吾は溜息をついた。
「……もうこんな形で魔力を渡すのはなしだ。わかったな」
「はい……」
大きな体を小さくさせようと、身を縮ませている姿はまさしく叱られているときの犬のようだ。洒落の正体を知っているからこそ、そう見えるのかもしれないが、垂れた犬耳や丸まった尻尾がそこにあるような気がしてならない。
安吾は乱れた衣服をきっちりと直して、洒落とは少し距離をとって肩をすくめた。
「俺が魔女の魔力を引き継いでいるっていうのは、よくわかった。それで、俺はなにをすればいい」
言われて、洒落はゆっくりと身を起こしたかと思うと安吾に合わせて姿勢を正した。床に落ちていた眼鏡を鼻の上に乗せてぴしりと座り直す。そして、何事もなかったような明るい口調で尋ねた。
「それなんだけど、安吾、週末の予定は空いてる?」
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