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第4話

 洒落と約束した週末は風の穏やかな晴れの日となった。  優しい春の陽気と程よい空気の冷たさ。長袖に上着が一枚あればちょうどいいだろう。黒いジーンズにパーカー、ジャケットを羽織って安吾は外に出る。なにをするとは聞かされていないが、待ち合わせが駅前ということは遠くへ移動する可能性が高いだろう。なんにせよ荷物は少ない方がいい。手持ちの中で一番小さなボディバッグに、財布とスマホを放り込んで体に斜め掛けしている。動いているうちに暑くなるかもしれないなと思いながら、駅前まで歩きだした。  休日は割と人混みになる駅前だが、時間が早いせいか目立った混雑には至っていない。休日出勤のためにやってきた社会人や、今からどこかへ出かけようという学生がほとんどだ。  安吾は改札前にある柱の傍で立ち止まった。  時間と場所こそ指定はあったものの、具体的な集合場所を決めていなかった。ならば多少の擦り合わせが必要になってくるのだが、洒落は連絡のやり取りができそうな機器を持っていない。そもそも持っていたとしても、連絡先を交換していないので現状において意味はないのだが。  さて、どうしたものか。安吾が視線を落としたところで、背後から声をかけられた。 「安吾、おはよう。そっちにいたんだ」  青い作務衣にTシャツ、雪駄姿の洒落が柱の後ろからひょっこり姿を現す。待っている最中に読んでいたのか、片手には文庫本を開いている。書生服姿から考えるとかなりラフな格好だ。 「なあ、もしかして、今から肉体作業をしに行くのか。それなら一旦着替えてくる」 「んあ、いいよいいよ。その恰好で大丈夫。そんなに激しく体を動かすようなことはしないし。電車乗るから、こっち」  洒落は開いていた文庫本を閉じ、改札へ向かって歩きだした。安吾も洒落を追って隣に並んだ。  社会から外れた存在になって、人の記憶から消えると聞いていたが、洒落は他の人間と同じように切符を買って改札を通過していた。 「なんだ。普通だな」 「え? なに、安吾、なにを想像してたの」 「てっきり、無賃乗車をしても誰にも気付かれないのかと」 「いやいや犯罪だからね!」  ホームへ降りると、タイミングよく入ってきた電車に流れるように乗り込む。 「社会から外れてるって言っても、目に見えないわけじゃない。文明の利器を使おうと思ったらそこの常識には従わないと。って言っても、電車に乗った記録とか情報とか、全部なかったことになるんだけどね。まあ、下手に波風を立てない方がいいに越したことはないから」 「そういうものか」  魔法で社会的になかったことになるとはいえ、あまりにも大きなこと――たとえば犯罪を犯したり、大惨事を引き起こしたりすれば、補完が追い付かなくなるのも当然だろう。電車で前に立った人間のことをいちいち覚えている人間はそういないが、目の前で堂々と犯罪を犯せば出来事を含めて忘れられないものになる。それを忘却させようと思ったらどれほどの時間と労力がかかるのやら。  クロという人物が施していった魔法がどのようなものなのか、安吾には知る由もないが、けして万能というわけではなさそうだ。  しかし、幾千、幾万――否、世界中の人間の記憶に介入できるという点では、並外れた力を持つ魔女なのだと評価せざるを得ない。  ――どんな人だったのだろうか。  ふと、興味が湧いて安吾は口を開きかける。 「あ……」  洒落はいつの間にか本の住人となっていた。ドアの端にもたれ、文庫本の続きを読み進めている。  既に集中している相手に声をかけるのもはばかられて、安吾は窓の外に目を向けた。敷き詰められた住宅街が流れていく中、遠ざかるビル群には霞がかかっている。花粉か、雲か、どちらともつかないぼんやりとした白い影をなにも考えずに追いかけていた。  外の景色を追っているはずなのに、視界の端には洒落が入る。  少し長めの前髪から覗く、知的好奇心に焦がれた色。  泣いたり、笑ったりと、表情変化に忙しない洒落だが、読書の一時に表情を留めているのは貴重な姿なのかもしれない。他人からすればなんの変哲もない佇まいに、安吾は知らずどきりとしていた。  洒落はそのまま、黙って本を読み続けていた。  数駅ほど駅を通過して、県境の山々の輪郭がはっきりとしてきた頃―― 「あ、ここだ。安吾、降りるよ」  電車のドアが開くや否や、ぱたんと本を閉じながら言った。駅名を確認することなく颯爽と降りていこうとする洒落に、安吾も後へ続く。  改札を出た先は、出発した駅とあまり代わり映えのしない景観が広がっていた。  ただ、二十四時間営業のスーパーと大きめのドラッグストアは前の駅にはなかった。どこか寂しい雰囲気が漂っているのは、店の数の少なさと人の気配がないせいだろう。快晴の週末の割に出歩いている人間が少ないのだ。  安吾が辺りを見渡してみると、出勤着姿の若者が一人、カートを引いた老人が二人、後は遠くの路上にベビーカーを押している親子三人。規模としては大きめの駅だというのに、こんなにも人の姿がない地区があるとは知らなかった。とんでもなく遠い場所に来た感覚はなかったが、かといって近い場所でもなさそうだ。 「ここになにがあるんだ」 「うん。ここから少し歩いたところに、キヨが使ってた畑があるんだ」 「……畑?」  洒落は大きな宅地が並び建つ細い道路を、どんどん歩いていった。  家が大きくなればなるほど道は狭く、細く、そして多岐に渡って延びていく。時折車やバイクの音が遠くから聞こえてくるのだが、不思議と通過する様子はなかった。すれ違う人も片手で数えるほどで、いよいよ町の不気味さが際立ってくる。  洒落の言葉通り、数分歩いた高級住宅街の真ん中に、突如として畑のようなものが現れた。  畑というにはかなり整備されていた。土の面積よりも緑の部分が多いせいかもしれないし、もしかしたら、やけに凝った造りの鉄柵の囲いのせいかもしれない。鍵の付いた柵が覆っているこの区画は、一見するとどこかの豪邸の庭のようだ。ドーム状の温室。丁寧に刈られた芝生。木製のアプローチ。さらに道具でもしまってあるのか小屋のようなものまであった。畑自体も野菜や果実ではなく、草木や花で構成されている。安吾が見たことのないようなものがほとんどだ。  柵の中に入るとほのかな草木の芳香に迎えられた。匂いの元はなんだと周辺を見てみるも、どこからも匂いがしているようでよくわからない。 「綺麗な畑だが……これは畑なのか?」 「クロもキヨも畑だって言ってた。店が休みのときに、ちょくちょく来て手入れしてたんだ。わしも手伝ってた」 「そうか。ところで、なにを栽培しているんだ? 野菜や果物はなさそうだが」 「わしもそんなに詳しいわけじゃないけど、葉っぱとか草とか根っことか……」 「魔女の作る葉っぱや草……合法なんだろうな」 「さ~あ?」  洒落は楽しげに呟きながら、群生している白い小花に手を伸ばす。 「これはカモミール。少し時期は早いけど、もういい感じに咲いてる。キヨはよく使ってたけど、これは一般的なものだろう?」 「そうだな。カモミールなら俺も名前は聞いたことがある」 「ここでキヨやクロが魔法薬に必要なものを作ってた。あの書店と同じで基盤はクロが作ったんだが、世話はもっぱらキヨがやってたなあ。同じものを育ててもクロよりキヨの方が上手で……あ、こっちの温室に来て」  アプローチに従っていくと、道筋は温室らしきドームに続いている。  ドームの四角いドアをくぐった先は、別の庭に来たように様相が変わっていた。 「……なんだ、これ」  「外では育てられないものはみんなこっちで育ててるんだ。高温多湿、極端な寒さ暑さに弱いものとか」 「いや、それはわかる。だが……やけに、木が生い茂ってないか」  一本二本どころではなく、何十本と、種類の異なる樹木が自由に枝葉を伸ばしている。外の庭よりも背が高い植物が多いようだ。葉が多く鬱蒼としているのに暗さをほとんど感じさせず、ドームのガラス窓からは柔らかい光が降り注いでいる。  まるで小さな植物園だ。  外観からはわからなかったが、このドームはかなりの高さと奥行きを備えているようだ。それに光量の割に、外と変わりないほどに明るい。いかにも魔女の使っていた場所らしく、奇妙な力の働く空間なのだと安吾は察した。 「そりゃあ、木ぐらいあるさ/。この木はタマリンド。あっちのはシナモン。その向こうはネズ」 「……木の世話までしていたのか。すごいな」  安吾が見上げると、風もないのに微かに木々がざわめいていた。  木自体から香りが漂っているかのように、再び落ち着いた香りが安吾の鼻孔をくすぐる。 「他にも見せたいものはたくさんあるんだが、今日用があるのは作業台だ。クロが残した留書から儀式に使う軟膏の作り方を探す」 「軟膏……って、ハンドクリームみたいなやつか。あれって個人で作れるのか?」 「うん。魔女の薬って飲み薬とか粉薬とかもあるけど、儀式で使われるのは軟膏とか香油なんだよ」  洒落の説明を聞きながら先へ進むと、二人はぽつんと置いてある作業机の前に辿り着いた。  古いものだが、整理が行き届いていて埃一つない。それどころか物がほとんど置かれていなかった。  あったのは『壱』と青く書かれた古びたノートだけだ。それも、まるで次に来る人間のために用意して出してあったように、机の真ん中に置いてある。 「これがその留書ってやつか? なんか意外と普通だな。もっとこう、羊皮紙とか巻物みたいなやつによくわからん言語とかで書いてあるのかと思っていたが」 「半世紀くらい前はそんな感じだった。だが、数十年前に保存の観点から新しいものに写し直したんだ。だからこれは比較的新しいはず……」  洒落が表紙を捲る。ぱらぱらと砂埃のようなものが落ちたが、それ以外は意外にも綺麗だった。ノートの中はインクの色や紙の色を残したままで、表紙のくたびれ具合とは不釣り合いだ。おそらくこのノートにもなんらかの魔法の力が働いているに違いない。  すっかり魔法というものを受け入れてしまっている自分に、安吾は肩をすくめた。 「儀式に使う軟膏って、どういうものなのか、あんたは知っているのか」 「おお。作ってるところも見たことあるし、使ったこともある。確かこのノートに書いてあったと思うんだが……」  手早く紙を送る洒落。  数ページ捲ったところで、洒落の手が止まり、代わりに指が『軟膏の作り方』という黒の字をなぞっていく。 「……あった。これだ」  洒落の言葉に、安吾も横から覗き込む。  ノートには乱雑に書き殴った文字が踊っていた。青いインクの文字がクロの字なのだろう。時折、注釈のように入っている黒いインクの文字はキヨの字だろうか。  安吾はしばらく、手書きの文字に目を通していたが―― 「なんだこれは……本当にメモ書きじゃないか。訳が分からない」  確かに、材料と作り方が書いてある。  ただし――どこにも分量が書かれていない。作り方に至ってもかなり簡素だ。初心者向けのレシピというより、熟練者が創作用に書き記した覚書である。  嘘や間違いはないだろうが、しかし、安吾のような一般人向けとは到底思えなかった。 「おい、本当にこれで作らせるつもりか?」 「ん? 問題ある?」 「大ありだ。これじゃなにをどれだけ使うのかわからなないし、そもそも作り方が大雑把だろう。なんだ、この……『全部切る』とか『一つずつ煮る』とか『いい色になったら火を止める』とか。適当すぎるにもほどがある。どれくらいの大きさに切ればいいんだ、どれくらい煮ればいいんだ、いい色とは何色だ!」 「……そぉ?」  洒落はぴんときていないのか、首を傾げている。 「これで同じものが作れるとしたら奇跡だぞ。いや……むしろこれで作れるやつはいるのか」  うーん、と唸り声をあげた洒落は、やはり首を傾げたまま言った。 「別に同じものを作らなくていいんじゃないかな」 「どういうことだ?」 「わしはクロのもキヨのも手伝ったが、同じ作り方なのに二人とも全然別のものを作ってた。おかしいと思ってキヨに聞いたら『そういう作り方なんだよねぇ』。で、ちゃんと効果はどっちも同じで。結構適当みたいだ」 「そういう作り方? 適当? いいのかそれで……魔女の軟膏なのに……」  安吾は不満そうに呻いて、もう一度ノートに目を落とした。  あまり馴染みのない材料ではあるが、書いてあるのはどれも一般的なものばかりだ。少なくとも、このページに限ってはおどろおどろしい素材――イモリの目玉や、マンドラゴラ、生物の角や骨の粉末といったようなものは書かれていなかった。下手をしたらこの魔女の畑でなくとも、海外輸入品を置いているスーパーを何軒か回れば手に入ってしまうものばかりだ。  特殊なものを使わない適当な作り方で、魔法のアイテムができあがるとは到底思えなかった。  このノートの真偽性はともかくとして、もし、これで本当に軟膏が作れるとしたら自分は上手くやれるのだろうか。そもそもそんな技能があったかと安吾は日頃の食事作りを思い返していた。手を抜いていたわけではない。自分なりにできることをしていたつもりだが、こんなことなら、もっと常日頃から料理をしっかりやっておくべきだったかもしれない。 「……不安だ」  つい、心情を小さく漏らしてしまう。 「大丈夫。そのためのわしだから」  洒落が笑って安吾の軽く肩を叩いた。頼もしい台詞ではあるが、疑念を払拭するには至らない。  安吾は長い溜息をついた。  それからほぼ半日。二人は必要な材料を集めていた。  名前は知っていても姿を知らない草や実や、木の根を、机の引き出しに収まっていた植物図鑑と、洒落の記憶を頼りに探索していく。概(おおむ)ねこの畑に生えているものでなんとかなりそうだった。  最大の難関はやはり、どれだけ採取し使えばいいのか。その判断だった。  植物の知識はほぼ素人といってもいい安吾には、そもそもどのように採ればいいのかすらわからないのだ。鋏で切るべきか、手で千切るべきか。枯れているものを使うのか、若いものを使うのか。そもそも使うのは葉なのか枝なのか。指定や指示がないと判断に困ってしまう。  洒落は記憶と知識こそ助けを貸してくれたが、肝心な判断はにこにこと微笑んでいるだけだった。 「安吾がこれでいいと思った通りでいいんだ」 「……いや、よくないだろう」  安吾は何度目かわからない押し問答に疲れてしゃがみこんだ。 「料理だって基本から外れたり手順を省略したら大失敗するんだ。体に塗るような軟膏なんてなおのこと、慎重であって然るべきだ。それを適当だなんて……」  未だに『適当』という言葉に引っかかりがあるのか、ぶつぶつと呟いている。  自分だけが使うものであれば、多少のことには目を瞑る。なにかあっても被害を受けるのも責任を負うのも安吾自身だからだ。自身が許すなら、苦い失敗を糧にもう一度挑戦することも可能だろう。  だが儀式には洒落も参加する。使い魔である洒落に使用経験があるということは、おそらくこの軟膏は魔女の魔力を持つ者と使い魔の双方が使うのだ。  取り返しがつかないことが起これば、二度目はない。 「大丈夫だって。クロなんて全然関係ない本を読みながらやってたし、キヨもよく『あっ』って言ってたけどちゃんとできてたよ」 「大丈夫だという根拠になっているのか、それは……」  安吾が忌々しげにつぶやくと、洒落は笑みをさらに深めた。 「キヨも魔女になる前は安吾と似たようなことをよく言ってた。キヨって、元々きっちりしっかり計量する人だったから、ばさっと掴んで、どさっと鍋に放り込むクロによく突っかかってた。でも、それで儀式が成立してたから否定はしてなかったけど」  洒落は言葉を切った。遠い過去に思いを馳せるように、遠くを見るように橙色に燃える目を細めた。 「適当って匙加減はさ、自分の今の感覚を計るのに便利なんだって。クロが言ってた」  安吾はしばらく眉を寄せたまま洒落の言葉を咀嚼していた。やがて自分の中で着地できる部分を見つけたらしく、溜息交じりに尋ねた。 「……感覚で物を選ぶときに大事なのは?」 「思い切りと潔さと諦め」  意外にも即答が返ってくる。 「なるほどな。 ……俺に足りないものだ」  安吾の中で一瞬、過去の出来事が胸をよぎった。一つ思い出せば、芋づる式に蘇る嫌な記憶。喉がひゅっと大きく開いたまま硬直する。  脳裏に浮かぶ紙とクレヨン。緊張の面持ちで大人と向き合い、そして―― 「安吾」  かちっと停止ボタンを押されたように現実に引き戻される。  何事もなかったように、「ん?」と返事をすると、きょとんとした洒落が顔を覗き込んできた。目を丸くして唇を微かに突き出した表情が可愛いな、と、安吾は密かに思った。 「神妙な顔して、大丈夫?」 「ああ。悪い、作業を続けるか。あとはなにが必要なんだったか」  安吾が立ち上がっている間に、洒落が素早くノートを確認してくれる。 「あとはジュニパーベリー。けど、確かキヨが一昨年採った残りで作った精油がまだあったと思う。軟膏作りでもジュニパーベリーは精油にするみたいだから、そっちを使ってもいいんじゃないかな」  材料は他の魔女が採取したものや加工したものを使っても構わないらしい。やはり重要になのは魔女の魔力を持った者の最終判断なのだろう。  他の材料でも、キヨが採取した残りがあると言われたものもあった。  ほとんどが季節外であったり、採取後の加工に年単位の時間がかかるものだ。  そういえば、と安吾は気付いた。  この畑にはやけに収穫できるものが多い。手入れや育成がしっかりと成されているということだろうが、成熟しきった実や摘まれていない立派な葉を見る限り、わざわざ多めに作ったようにも見受けられる。もしかしたらわざと残されていたのかもしれない。 「キヨさんは、知っていたのかもな。誰かがここに来て軟膏を作ること」 「え?」 「そうじゃなければ作り方を書いた古いノートだけをわかりやすい場所に置いたり、事前に多く材料を残したりなんかしない。まるで、あらかじめ事態を予想していたようだ」 「……わかってた? キヨが? なら、どうして、わしになにも言わなかったんだ……?」  洒落はみるみるうちに顔を暗くさせ、目を伏せた。寂しそうな表情だった。  また泣き出すのか。安吾は躊躇いつつも、続けて口を開く。 「それはわからない。だが、少なくとも、理由のないことではないはずだ。もし、あんたのことをどうでもいいと思っているなら、作り方や材料を残したりなんかしない。多分、別に理由があるんだろう」 「……!」  安吾にしてみれば思ったことを言っただけだったが、洒落には思いもよらない考えだったらしい。ぽかんと口を丸く開けたまま、言葉も出ないといったように安吾を見つめている。安吾は不思議そうに洒落と見つめ合っていたが、あまりにも長く続くため、段々と不安になってきた。 「……いや、少し考えればわかることだろう。そんなにおかしな話か?」 「や、やー……おかしいことじゃないけど。でも、その、理由ってなんだろうなあって……」  洒落はまだ安吾を見ている。だが、その目に宿っているのは悲哀や疑念ではなかった。  いうなれば好奇心だろうか。完全に意識は別の方面に移っているようだ。 「さあな。人の心なんて千差万別、行動と心がちぐはぐでも成立するし、特に意味も理由もないのかもしれない。単に、言い忘れてたとか、な」  洒落が不服そうに呻く。 「キヨが言い忘れるなんて、絶対にない」 「そうか」  安吾は答えられず、曖昧に首を振った。  確かに、キヨという人は話を聞く限りでは意味もなく黙り込む性格ではなさそうだ。大事なことを言い忘れてしまうほど耄碌していたようにも思えない。  と、なればやはり理由はある。筋の通った――ただし、洒落にとって喜ばしい内容であるとは限らない――理由が。洒落には伏せなければならなかったなにかがあるのだ。  そんな重々しいものを無関係に近い安吾が無責任に口出ししていいものではない。傷付くのは洒落だ。安吾は閉じた唇の向こうで、ぐっと歯を食いしばった。  外の風が強くなってきたのか温室が震えた音を出す。  温室の外では、庭に咲いていた白い花の花弁が、勢いよく風に舞い上がっていった。

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