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第1話

 天鵞絨(ビロード)のソファーに二人の男が座っている。  アイスブルーの瞳に、薄い色素の波打つ長髪の男は、紳士服(スーツ)に身を包み、ゆったりと水煙草(シーシャ)を燻らせる。隣に座る青年は男よりずっと若く、二人は親子のようにも見えたが、それにしては男も若すぎる。  青年は透明感のある黒髪に、襟足は短く、左耳には糸のように華奢な金のピアスが、肩のあたりまで伸びていた。詰襟の服を着て、若く美しい青年は男の太腿に白い手を乗せ、うっとりとしなだれる。 「今夜もお発ちになるのですか?」 「ああ」 「このところ毎日ですね。お疲れではございませんか?」 「大したことはない。お前の相手をする余裕もある」 「あ……っ」  男が戯れに愛妾の白い首筋に唇を寄せる。愛妾は期待と歓喜の入り混じる声で、彼の逞しい腕に指を這わせた。この男に求められ、抱かれることが至上の歓びなのだ。彼のためなら、地獄も極楽だと思えるほどに。 「アランさま……」  愛妾は惜しむようにゆっくりと瞼を閉じた。男は慣れた手つきで愛妾の服の胸元を緩め、(なめ)らかな白い肌に唇を落とし、舐め合げ、愛撫した。その度に愛妾は身悶え、男から与えられる甘くもどかしい悦びを素直に受け入れていく。いつだったか、彼はこうすることでしか男の役に立てることがないのだと言って泣いた。男はそれが彼の思う存在価値だと言うのなら、幾らでも与えてやろうと思った。あの頃、彼らは互いに愛を伝える術を知らないでいた。 「アヤメ」  男が愛妾の名を呼びながら、幼さの残る頬を指先でなぞる。何もかも心得ている愛妾は薄く微笑み、床に膝をつくと、男の股ぐらを愛おしそうになぞった。ベルトを外し、恍惚とした表情で頬を寄せ、白く美しい歯で、スラックスの金具を食んだ。  しかし、彼らが待ち侘びた瞬間は、無情にもドアを叩く音に阻まれる。 「──失礼いたします。アラン様、出立(しゅったつ)のお時間でございます。お車のご用意が整いました」  黒い長髪を一つに束ねた涼しげな目元の男が、アランを呼びにやって来た。彼は名をミンと言い、アランの有能な側近である。 「待たせておけ」  アランは艶やかなアヤメの髪を撫で、続きを促した。 「かしこまりました」   男が恭しく出ていくのを見届け、アヤメはくすくす笑いながら、猫のように男へ擦り寄り、膝に乗り上げる。まろい尻の感触を楽しむように男の手がそれを迎えた。 「よろしいのですか? ミンを怒らせると厄介ですよ」 「お前は離れたいか?」 「まさか。でも今夜は地下競売(オークション)でしょう? 遅刻は感心いたしません」  言いながら、アヤメは男の衣服を正していく。それが済むと男の膝から降りて後ろへ周り、慣れた手つきで男の長く美しい髪を結った。無造作に縛っただけでは勿体ないし、少しでもこの時間を惜しむため、サイドに細い三つ編みを仕込み、ハーフアップに仕上げていく。 「いかがでしょう? 男前すぎましたか?」  背後から手鏡を男の眼前に差し出し、自分は肩越しから顔を近付け、幸福そうに瞳を潤ませる。 「アヤメの隣では霞んでしまうな」 「ふふ。お上手ですこと」  アヤメは男の頬に口付け、手鏡を取り上げた。 「さあ、行っていらっしゃいませ。アヤメはいい子で待っていますから」  聞き分けのいい愛妾に男は苦笑するしかない。「いい子で待っていろ」という言葉は、彼が幾度となく言い聞かせてきた言葉だ。 「先に寝ていなさい。明日、朝食を一緒に」 「はい。楽しみにしております」 「おやすみ、私のアヤメ」  アランの唇が額に押しつけられる。本当は唇にして欲しいのに、アヤメはそうしたことを口にしない。不満も、不平も、我儘ひとつ、男には言わない。彼の傍にいるだけでこんなにも満たされるのに、何を不満に思うことがあるというのだろう。 「行って来る」 「……行ってらっしゃいませ」  深くお辞儀をし、アランを見送る。  アヤメは扉の閉まる音に胸が引き裂かれそうになった。いつまで経っても慣れることはない。彼が帰って来なかった日など、今まで一度だってなかったのに。  残されたアヤメは、ソファーに力なく座り込み、しばらく茫然としていた。彼のいない寂しさを紛らわせようと、男が口にした水煙草(シーシャ)を一口、二口と吸い、虚しくなってやめた。  ぼんやりと煌びやかな天井を見上げ、おまじないのようにひっそりと呟いてみる。 「──アヤメは、いい子で待っていますから……」  声にならない声でひとりごちた彼の言葉は、見えない呪縛のようだった。

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