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第2話※
アヤメの幼い頃の記憶は曖昧だ。火薬の匂い、家や人が焼ける匂い。空から落ちるひゅるひゅる、ぱららという奇妙な雨の音。
それらが糞尿の匂い、饐えた匂い、血とも錆ともつかない鉄っぽい匂いに変わる。
気が付くと、アヤメは檻の中に押し込められていた。
そこでは、子供たちは家畜のように扱われていた。いたずらに暴力に晒され、数日もすると泣き叫ぶ力も、抵抗する力も弱くなる。少年も少女も大人たちの気分次第で凌辱され、暴行され、苛烈な虐待の中で命を落とした者もあれば、肉体が耐え切れず、使い物にならないからと処分された者もあった。
アヤメは(そのとき彼に名前など存在しなかったが)暴力に晒されこそしたが、貞操はどうにか無事だった。
ちょうどその時期、奴隷市場は過渡期にあった。商品の証である焼き印は刺青に変わり、頸の下──胸椎が二番目か三番目に位置する辺りにシンボルを彫られた。「孤児院」のシンボルらしい。
奴隷市場は「孤児院」に鞍替えし、かつて「商品」だったものは「孤児」として、粗末ながらも三度の食事に薄汚い寝具や衣服を与えられた。このときアヤメは別の名前で呼ばれていたが、その名前が何だったのかは、今も思い出せない。
アヤメは読み書きも算術もよくでき、物覚えはよかった。要領よく、おとなしく、大人たちの手を煩わせない子供だったが、一向に口を利く気配がなかった。
それに目を付けた一人の男性職員が、彼に性的暴行を加えようとした。この男はこの手の常習犯で、いつもの手口でアヤメを呼びつけた。男は親切なふりをして、地下のボイラー室で仕事を手伝うようアヤメに言った。アヤメは素直に応じた。ごうごうと音を立て、湯気が立ち、熱気の籠るボイラー室で、男と二人っきりになった。扉が閉められるや否や、アヤメは頬をぶたれ、殴る蹴るの暴行を受けた。
アヤメは混乱のまま防御の姿勢をとった。髪を鷲掴みにされ、熱くたぎったパイプ管が眼前に迫る。今にも皮膚を焼きそうな熱気に、焼けた金属の匂い。頭皮から汗が流れ、黒い髪を濡らしていく。
身じろぎもできないアヤメを男がせせら笑った。
「暴れるなよ。抵抗したら顔を焼いちまうぞ」
背後では男の荒い息と、ベルトを外す音がした。アヤメは恐怖に慄き、小さな歯が噛み合わないほど震え上がった。
それを見た男は下卑た笑みを深める。
「お前は初物だったな。いい子にしてたら手荒な真似はしねえよ」
男は乱暴にアヤメの衣服を剥ぎ取り、いやらしい手つきで少年の柔らかい肌を撫で回した。
「ジャンも、エレナも、こうして新しい家族のところへ行けたんだぜぇ? 俺に感謝しねえとな」
男は高らかに笑いながら、幼いからだに舌を這わせた。アヤメは成す術もなく、身を硬くして耐えた。髪を掴まれ、顔にぬめぬめと熱くなったものを押し付けられる。それが男のペニスだとわかると、気持ちの悪さから顔を背けようとした。そうすると毛根が引き千切られそうになって、痛みに呻く。アヤメは腕を突っ張り、懸命に抵抗したが、男はアヤメの頬にいきり立ったペニスを押し付け、口を開けろと怒鳴りつけた。アヤメは唇を引き結び、恥垢のこびりついた汚物から逃れようとした。
痺れを切らした男は、アヤメの耳元で唾を飛ばしながら罵倒した。
「誰がお前たちの世話をしてやってると思ってんだ! 俺様はな、家畜以下のお前たちに人間の真似事をさせてやってるんだぞ! お前も冷たい地面に埋められて、土くれになりてえのか? それともゴミと一緒に焼却炉で燃やされるか?」
その言葉で、アヤメは幼いながらにすべてを理解した。ジャンもエレナも、新しい家族のところへなんか、行っていない。自分と同じ目に遭ったのだ。そして、次は──。
アヤメの瞳から涙が溢れた。
いとけない唇が薄く開く。
少年は、男の暴力を受け入れようとした。生きるために。
「ものわかりのいいガキだ。俺がしっかり仕込んで、かわいがってやるからな」
男はアヤメの小さな鼻先をつまみ、唇の隙間に勃起した逸物を無理に押し込めようとした。
「──ギャアッ!」
みっともない叫び声が、ボイラーの音にかき消された。
小さな歯列が男のペニスに食い込んでいた。
アヤメは噛みちぎる勢いで、必死に汚物に齧りついた。
「ひぃ……っ! は、離せよぉ、このクソガキ……!」
少年を引き離そうとするが、そうすると小さな歯がますます肉に埋まり、男は痛みに悶絶しなければならなかった。有刺鉄線でぎりぎりと締め上げられるような痛みがこのまま永遠に続くのではないか、男根が締め落とされるのも時間の問題ではないか、そんな思考も痛みによって現実に戻される。苦悶に喘ぎ、脂汗をかき、ふうふうと太く短い息継ぎをしながら、どうやってこの家畜を引き離せばよいか、男は回らない頭で懸命に考えた。
アヤメは男が暴れなくなったのを見計らい、男の体を押しのけて逃れようとした。
ところが、顎に渾身の力を込めたせいで食い縛りのようになってしまい、今度はうまく口が開けなくなってしまった。
男は情けない声で叫んだ。歯列でペニスの皮膚を削ぐように引き抜かれたのだ。雄の象徴たる男根は無惨な姿で縮み上がり、ぼたりぼたりと血の涙を流していた。男は慌てふためき、半狂乱になって自分のペニスの無事を確認している。その隙にアヤメは地下室を飛び出し、他の職員や孤児たちがいる広間まで全速力で走っていった。
職員と孤児はアヤメの姿を見てぎょっとした。彼はまるで野生の獣のようだった。乱暴に裂かれた衣服、暴行の跡、口の端に垂れ下がる赤い紐のようなもの──。アヤメは剥ぎ取った薄い皮膚片をぺっと床に吐き、口元を拭ったあと、我慢できずに嘔吐した。
それから二、三日経った頃、アヤメはとある娼館へ奉公に出された。今度は娼館の所有物である証として、孤児院の刺青の下に娼婦と同じ刺青を彫られたので、遅かれ早かれ春をひさがねばならなかったのかもしれない。娼館で住み込みの雑用をしている下人の男が「坊主なら、小間使いに欲しい」と言ったので、アヤメはしばらく彼の元で働くことになった。
アヤメは下人にこき使われ、薪割だとか、荷運びだとか、力仕事の手伝いをした。下人も寡黙であったし、アヤメも言葉を発することがなかったから、二人は黙々と働いた。アヤメはまだ子供だったこともあって、力が弱く、仕事で失敗が続くと下人にひどく折檻された。殴る蹴るの暴行はもちろんのこと、ベルトで打たれたり、下人が酔っ払っているときには酒瓶を投げつけられたりもした。「使えないガキだ」と疎まれ、アヤメは叱責や暴力から逃れるように、朝から晩まで狂ったようにあちこち掃除をしてぴかぴかにした。見兼ねた女主人は下人からアヤメを取り上げ、掃除や娼婦の小間使いを彼の仕事にしてやった。
娼婦たちはアヤメをよく可愛がった。アヤメに何か用事を言いつけ、それが済むと頭を撫でてやったり、キャンディだのチョコレートだのを寄越したり、包装紙のリボンを首や手首に巻いてやったり、口紅を塗ったりして遊んだ。彼女たちにとってアヤメは犬や猫のような愛玩動物とさして変わりないようであった。アヤメからしてみれば、彼女たちは楽園に住まう天上人のような存在である。いい匂いがして、美しく、親切で、穏やか。暴力とは無縁の優しい人たちだった。
いつしかアヤメは娼館の埃っぽくて狭苦しい屋根裏部屋を根城に、昼には起きて夜が明けるまで働いた。娼館の外へ出るのは使いに走らされるときだけで、一日のほとんどを娼婦たちの部屋や風呂の掃除、台所の下働きなどをして過ごした。仕事をこなしている間は誰にも虐められないし、何より彼女たちを思えば苦にもならなかった。むしろ、誰かのために働いているという初体験に酔いしれ、張り切って仕事に励んだ。
娼館暮らしもすっかり慣れたある夜、アヤメは逃げ出した。獣のように唸り、吠え、訳も分からず冷たい夜の街を走っていた。
彼はいつも通り掃除をしていた。次の客のために、まだ娼婦となって日の浅い若い女の風呂の世話と、部屋の片付けを行っていた。酔客の軍人は待ちきれず、風呂場にいたスリップ姿の娼婦を無理やり引きずり出し、強姦しようとした。
娼婦は抵抗した。アヤメは助けを呼ぼうとしたが、軍人に何かを投げつけられ、それが頭に当たった。酒瓶だった。軍人は床に這いつくばる娼婦の髪を引っ張って無理やり立たせると、前の客との情事が生々しく残るベッドへ投げつけた。次にアヤメの襟首を掴み、彼の体を乱暴に突き飛ばそうとした。シャツの隙間から刺青が露わになる。
「ほう、お前も『商品』か」
軍人はにやりと笑い、投げつけた酒瓶を拾い上げ、残った酒を飲み干した。
若い娼婦は男に縋りつき、アヤメを引き離そうとする。
「やめて、お願い。この子は違うの。ただの下働きよ。あたしが相手するから……」
「俺に指図するな! 雌豚は引っ込んでろ!」
怒りに任せ、男は娼婦の柔らかい腹を硬い革靴の先で蹴り飛ばした。床に突っ伏した女は呻き、咳き込む。
男は興奮のままアヤメのズボンを乱暴に引き摺り下ろした。アヤメの頭にはボイラーの音が忙しなく鳴り響き、男の顔が蒸気に隠されていく。噎せ返るような熱気と臭気、鉄の味が口に広がった。口の中の重い唾液を吐き出し、空嘔吐する。嘔吐 いている間、四つん這いにさせられ、丸出しになった尻を何度も平手打ちされた。真っ赤になった割れ目に熱い肉塊が押し付けられたとき、アヤメは声にならない絶叫をした。それに娼婦の金切り声が重なり、館中に地鳴りのように響き渡った。
騒ぎを聞きつけた娼館の人間や他の客たちがどたどたと部屋に押し入り、アヤメから軍人を引き剥がす。若い娼婦は這 う這 うの体 でアヤメににじり寄り、耳を塞いで叫び続けるアヤメを落ち着かせようと抱き締めた。軍人は他の客たちに取り押さえられたが、すっかり錯乱していた。何かよからぬ薬物でもやっていたんじゃないかという大人たちの囁き声があちらこちらから聞こえ、アヤメは懸命に首を振った。大人たちのひそひそ話が、自分への罵詈雑言に聞こえていたのだ。
「大丈夫よ、ね。なんともないんだから」
若い娼婦はアヤメの頭や背中を撫でながら、ゆっくりとズボンを履かせ、乱れた衣服を正してやった。
「ほら。もう大丈夫。いつものあなたよ」
どれだけやさしい声色で慰められようとも、柔らかく匂い立つ肉体に抱き締められようとも、アヤメの震えも、慟哭も、憎悪も、恐怖も、決して止まらなかった。
アヤメは叫んだ。掠れた声は徐々にはっきりと輪郭を作り、確かな声となった。初めて聞くアヤメの声に娼館の者たちは安堵した。しかし、今度はアヤメまで錯乱してしまったと心配した娼婦たちは、どうにか彼を落ち着かせようとしたが、アヤメは次々に伸ばされる慈しみの手を払い、彼女たちを押しのけ、娼館を飛び出してしまった。
彼は恐怖と混乱に泣いて、奇声を上げることしか出来なかった。わー、わー、と声が続く限り叫び、呼吸が続く限り走り続けた。頭の中にはいつまでも罵詈雑言の囁き声がこびりついていて、蒸気の白い魔の手から逃れるべく、走って、走り続けた。
少年はいくつもの街角を曲がり、路地裏を抜け、ひっそりとした暗闇の中を駆けずり回っていた。
──パァン!
その暗闇を切り裂くような発砲音がした。驚愕して尻もちをつき、少年はますます混乱した。
赤い光を、燃えている家を探して辺りを見回すが、何もない。
自分は撃たれていない。
空は暗いままだ。奇妙な雨の音もない。
少年は耳をそばだて、音のする方へ這っていった。
男の笑みを含んだ声が聞こえる。
「見事だな」
「私はこれしか知りませんから」
和やかな会話に聞こえるが、男は返り血を浴び、死体に拳銃を握らせていた。
少年には何が何だか分からなかった。息が整わぬまま、はっはっと犬のように荒い呼吸を繰り返すせいで、胸が苦しい。頭の中をめまぐるしく駆け巡るのは、彼がこれまで受けてきた恐怖、苦痛、憎悪、屈辱、あらゆる地獄の日々だった。
彼の意識はそこで途絶えた。
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