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第1話
日水村は人口三百人程度の小さな集落だ。
翡翠色に澄んだ渓流を見下ろし、道祖神が見守る峠道を抜けると、周囲には案山子がたたずむ田畑が延々広がり、こぢんまりしたビニールハウスや鄙びた古民家が点在する。
手ぬぐいで頬かむりをし畑を耕す農家の大半は七十代以上の高齢者で、若夫婦や子供は見かけない。
村の北側は標高600メートルの日水山に面しており、白塗りの土塀を巡らした立派な屋敷が麓に鎮座していた。
六月下旬某日、村を嵐が襲った。
雨合羽を着込んだ青年団が総出で避難誘導を行うなか、駐在の沖田も救援活動に駆り出されていた。
「須藤のじいさん、畑が心配だからビニールシート掛けて来るとさ」
「馬鹿言ってんじゃない、吹き飛ばされちまうぞ」
「ゴンはどこだ」
「ゴンって誰だ」
「桑原のじいさんが飼ってる雑種犬だよ、出る時おいてきちまったんだと」
「しかたねえ迎えに行く」
「公会堂に入れていいのか?ぶるぶるしねえか?」
「緊急事態だ大目に見ろ!」
普通の声は暴風雨にかき消されてしまうため、怒鳴らなければ会話が成立しない。黒い光沢のゴム長が行ったり来たり、忙しなく泥をはねとばす。
時刻は午後八時、昨夜未明にかけ降り始めた雨と風は強くなる一方。県内では実に八十年ぶりとなる、記録的な降水量だと報道されているらしい。近隣の市町村でも土砂崩れや河川の氾濫が起きている。
村の中心には学校の体育館によく似た、鉄筋コンクリート製の公会堂がある。
村人たちの多くは先祖から受け継いだ古民家に住んでいるが、築百年以上が経過した家は軒並み雨漏りや浸水、倒壊の脅威にさらされ、台風一過まで公会堂に寝泊まりを余儀なくされた。
「仏壇おいてきちまって良かったのかねえ」
「けどあんた、さすがにおぶって持ってこれないだろうよ。また腰やっちまうよ」
「せめて旦那の位牌だけでも」
「あっ、屋根が飛んだ!」
「うちが心配じゃ、様子を見てくる」
「待ちなさい!」
「ゴンが呼んでるんじゃ」
「青年団の人たちが連れて来てくれるのを大人しく待ってなさい、遭難したいの?」
老人たちは不安げな面持ちで毛布にくるまり、ポータブルテレビの台風情報に見入っている。四角い画面に映るニュースキャスターが滑舌よく原稿を読み上げていく。
『6月29日午後8時現在、台風17号は関東圏を通過中です。今回の台風は非常に勢力が強く、各地で土砂崩れや河川の氾濫、数百世帯におよぶ家屋の倒壊などの甚大な被害をもたらしています。該当地域にお住まいの方々は行政の勧告に従って戸締りを徹底し、外に出ないようにしてください。次のニュースです、長野県在住の小学生が下校中に誘拐されました。被害者が使っていた通学路では一週間ほど前から不審な中年男性が目撃されており、警察はこの人物の行方を追っています』
皺ばんだ手のひらに数珠を手繰った老婆が「なんまんだぶなんまんだぶ」と唱え始める。時折ノイズで乱れる年代物のポータブルテレビを車座で囲み、老人たちが神妙な顔を見合わせる。
「やはり祟りじゃ……」
「お山を切り崩した罰が当たったんじゃ」
日水村は長らく天災と縁のない土地柄であり、台風の迂回に慣れた村人たちが慢心していたのは否めない。
が、前例は覆された。
荒天に稲妻が瞬き、窓に叩き付ける雨の勢いが増してゆく。滝の如く雫が伝い落ちるガラスに映りこむ避難者の顔は、亡霊のように生気が希薄だ。
「病気の当主を蔑ろにしよって」
「全部佐沼の倅のせいじゃ、アイツが欲に目が眩んで土地の利権を売り渡したから神様がお怒りになったんじゃ」
老人たちの瞳は畏怖に陰り、時折闇に沈んだ窓の外を……否、その遥か向こうの山影を窺っている。
「ふー……」
沖田は庇から滴る雫を目で追い、日水山を仰ぐ。
日水村は辺鄙な所だ。
個人所有の車を除けば、一日二本運行しているバスだけが数少ない交通手段となる。故に災害が起きると孤立しやすい。村人たちは迷信深く、今もって呪いや祟りの存在を信じている。
沖田はいわゆるよそ者だった。
当時は空気のうまさと自然以外に取り柄がない田舎に飛ばされた我が身の不運を嘆いたものだが、三年経った現在はすっかり馴染んだ。自転車に跨り巡回していると誰彼となく群がり野菜をもたせてくれるし、交番にもちょくちょく差し入れに来る。
住民の殆どが七十超えの年寄りなせいか、今年で三十五の自分が若造扱いされるのは釈然としないものの、おおらかな気風を気に入って永住を検討し始めていた。
定住を決めた動機には下心……もとい、想い人の存在も関わっているのだが。
ふと心配になり、公会堂の窓に板を打ち付けている青年団に断る。
「佐沼さんのお宅を見てきます」
案の定、一同は渋面を作った。内心ほっとけばいいと思っているにしろ、口に出さないだけの良識は持ち合わせている。
「気を付けて行けよ」
「しかし佐沼の倅は薄情もんだ、村の一大事だってのにツラも見せねえで」
「よそからきた駐在さんが走り回ってくれてるっていうのに……少しは手伝えってんだ、全く」
「村の恥め」
「倅が倅なら嫁も嫁だ、知らんぷり決め込みやがって」
「御舅さんの世話で大変なんですよ、台風のせいで通いの家政婦さんも休んでますし」
咄嗟に庇った。
「人妻に惚れたって報われねえぞ」
「あの嫁はしたたかだからな。佐沼の倅と結婚したのも玉の輿狙いって話じゃねえか」
「じゃなきゃあんな穀潰しのドラ息子が都会の美人と一緒になるかよ」
「水商売上がりだって噂だぜ、前は高級クラブにいたと」
「六本木でホステスやってたんだろ、尚人を接待したのが馴れ初めとか」
「保険金目当てじゃねえの」
「言えてる」
青年団の面々がお手上げといった感じで苦笑する。反論は無駄と悟り、佐沼家の悪口で盛り上がる青年団に背中を向ける。
村一番の旧家である佐沼家が敵視されているのには理由があった。
全ては三年前、東京で事業に失敗した長男の尚人が、若い嫁を連れ帰った事から始まる。
尚人は一度結婚に失敗している。清美は後妻にあたり、年はニ十歳以上離れているそうだ。
故郷に帰った尚人は、先祖代々佐沼家が持っていた山の権利を黒い噂が絶えない土建業者に売り飛ばす。
後で事情を知った村人たちは激怒する。
何故なら日水山はただの山にあらず、日水村の人々にとって土地神の社がある神聖な場所だったのだ。
即ち、里の民の信仰対象として拝まれる山。
されど尚人は村人たちの意見を無視し、土建業者と組んで日水山の開発を断行する。ホテルを建てる計画だったのか道路を通そうとしたのか、本当の所はわからない。
結論から述べれば、日水山の開発工事は不可解な事故が相次いだせいで頓挫した。
現場に乗り入れた重機が故障するのは序の口。作業員が急死する、大怪我する、挙句工事を取り仕切る土建業者が倒産する等の不幸が続き、工事の継続が不可能になったのである。
さらには尚人の父である現当主・文彦の容態が悪化し、認知症を併発する。
「日水山の祟りじゃ」
「佐沼の倅は禁忌にふれた」
佐沼家を見舞った因果応報の災難に、村人たちは留飲をさげた。
とはいえ、尚人はまだ諦めてない。
現在も開発を仕切り直す機会を窺い、色々画策しているらしい。交渉だのなんだのと、父と嫁を残し家を空ける事も増えた。
恐れ多い。罰当たりな。保守的な村人は尚人の蛮行を恐れ疎んじ、佐沼家を避け始めた。
不幸中の幸いというべきか、佐沼家は県内指折りの資産家なので村八分にされた所で痛くも痒くもない。
沖田は真面目で誠実な人間だった。警官を志す位だから人並み以上に正義感も強い。
もとより強欲で詐欺への関与も疑われる尚人は自業自得として、その嫁の清美まで冷遇されるのをほうっておけず、何かと相談にのってやっているうちに親しくなったというのが一連の経緯である。
よそ者同士、清美も沖田にだけは心を開いていた。不器用で実直な人柄に好感を持ったのかもしれない。
勢いよく吹き付ける暴風雨に抗い、交差させた腕で顔を庇い、なだらかな坂道をのぼっていく。
通り過ぎたそばからビニールハウスが豪快にはためき田んぼの案山子が頽れ、屋根瓦がなだれ落ちていく。
両岸に土嚢を積んだ用水路には轟々と濁流が渦巻き、無人販売所の掘っ立て小屋は半壊していた。
心細い思いをしてるに違いない清美の無事を祈り、顎に力を込め足を踏み出す。昭和から現役の赤い筒型ポストをこえると、篠突く雨に煙る屋敷が見えてきた。
「あ」
接近に伴い一声漏らす。重厚な数寄屋門の前に、白い傘を差した人影が立っていた。
「何やってるんですか、清美さん!」
水たまりをはねちらかし駆け寄る。沖田の顔を見るなり、女が安堵の息を吐く。
「尚人さんの帰りが遅いから心配で……」
「出たのは朝でしょ?今日は泊まってくるんじゃないですか」
「かもしれないけど、電話が繋がらないのが不安なの。メールも既読が付かないし」
「電波が入りにくい所にいるのかもしれませんよ。文彦さんの様子はどうです?」
「酷くうなされてます」
「またですか。最近続きますね」
「悪い夢でも見てるのかしら。きちんとお薬飲んでるのに」
鬢のおくれ毛を撫で付け、物憂げに目を伏せる。幸薄そうな撫で肩と細面に、右目の泣きぼくろが妖艶な色香を足す。
所作が逐一垢ぬけているのは元ホステスだからだろうかと邪推し、そんな自分を恥じる。和服の着こなしも様になっていた。
『佐沼の嫁は魔性の女だ。転がされるなよ、駐在さん』
余計なお世話な野次が甦り、慌てて首を振る。
清美の舅の文彦は認知症が進み、奥座敷で寝たきりだ。若い頃は筋骨逞しく厳格な地主として恐れられたらしいが、沖田が赴任する数年前に脳卒中をやり、体の自由が利かなくなっていた。現在はヘルパー資格を持った家政婦と清美が介護を分担している。
「今夜は藤代さんもいないでしょ?お義父さんは寝付きが悪いし、なんかあったらって考えると不安になっちゃって」
「大丈夫ですよ。俺がいます」
「頼りにしてます」
キザすぎたかと悔やむも、清美が笑ってくれたのが救いだ。直後に空が光り、凄まじい雷鳴が轟く。
「きゃっ!」
飛び込んできた体をかき抱く。不覚にも胸が高鳴る。清美以上に動揺している自分に咳払いし、努めて平静を装い宥める。
「安心してください。ただの雷です、落ちませんよ」
「おきゅうさま……」
「え?」
夜空を切り裂く閃光が世界を漂白し、固く強張った清美の顔を暴く。
「義父が寝言で繰り返し呼んでるんです」
「誰ですか」
「日水村に伝わる土地神様の名前だとか。以前うちの人が教えてくれました。昭和の初め頃まで、佐沼家はおきゅうさまに纏わる祭事を取り仕切っていたそうです」
清美は気の毒なほど怯えきっていた。
「俺も村のお年寄りの話を小耳に挟みました。裏山の社に祀ってあるんですよね。いや、具体的にご神体が何かとは知らないんですけど」
沖田がきた頃には大っぴらに参る人もいなくなっていた。一見気さくな村人たちが、おきゅうさまに纏わる事柄には口が固い。清美が付け足す。
「村の人……特にご年配の方々は、口にするのもタブーと見なして避けてるみたいですね」
「桑原さんちのゴンをご存じですか、でっかくて白い」
「もふもふの可愛いわんちゃんですよね、放し飼いにされてる」
「前に一度そのゴンが迷子になって、腰を痛めた桑原さんの代わりに裏山にさがしにいったんです」
余談だが、田舎の人間は基本的に鍵をかけないし犬は放し飼いだ。ご近所全員顔見知りな上、庭先に勝手に出入りし野菜や回覧板を置いていく為、警戒の必要がないのである。
「清美さんはおきゅうさまの社をご覧になりました?」
「いえ。恥ずかしながら山歩きには慣れてないし、道が狭く険しいので」
「たしかに女性の足じゃ厳しいかもしれません。俺も山に入るのは初めてでした、村の人たちがあんまり良い顔しませんし」
あれは半年前か。ゴンをさがしに山に登り、鬱蒼とした藪をかき分け進んでいくと、中腹に寂れた社が据えられていた。
正面には太い注連縄が張られており、木格子がはまった引き戸の奥は酷く静かで、異様な気配を放っていたのを覚えている。拝殿に掲げられた扁額はボロボロに朽ちていた。
「言っちゃなんですが、不気味な場所でした。一人で行くのはおすすめしません」
誰かに見られているような。何かが潜んでいるような。
『封印』―社を目の当たりにした沖田の脳裏に浮かんだのは、それだ。
「ゴンは近くで保護しました。あそこを遊び場にしてるみたいですね」
「よかった」
沖田の顔が和む。
「社に近付いちゃだめって話がホントならゴンが真っ先に呪われなきゃおかしいでしょ?単なる偶然を祟りや呪いと結び付けて考えるのは人間の悪い癖です」
「杞憂ですめばいいのだけれど」
清美が唇を噛む。
「おきゅうさまの社で遊んじゃいけない、覗き見はもってのほか……尚人さん、お義父さんたちに随分キツく言い聞かされたって恨んでました。やっぱり呪われてるんでしょうか。夫が山を切り崩したせいで義父や工事の関係者が」
「気にしすぎです。村の人たちには好きに言わせておきましょうよ、尚人さんだって社を潰す気はなかったんでしょ?」
「移転を考えてたみたいです」
当主の譫言に出てくるおきゅうさま。裏山で相次ぐ不可解な事故と工事の中止。
単なる偶然で片付けてしまうには不穏な現象の数々に鳥肌が立ち、黙り込む。
「玄関まで送ります。尚人さんはきっと無事に帰ってきますから……」
「ご心配かけてすいません」
「とんでもない。清美さんも……その、あんまり思い詰めないでください」
清美が青ざめたのを気遣い、雨合羽の裾を広げて頭上に翳す。二人寄り添い踵を返す間際、狂ったような犬の吠え声が聞こえてきた。清美が振り返る。
「清美さん!」
天が裂けた。
清美を庇い突っ伏す沖田の眼前で、裏山の斜面が地滑りしていく。
「きゃあああああっ!」
大地を揺るがす震動、耳を聾する轟音。落雷の衝撃により雨で緩んだ地盤が崩れ、斜面の木々が倒れてへし折れ、大量の土砂がなだれを打って麓の民家を押し流す。
「文彦さんは!?」
「西にいます!」
土石流は屋敷の東側を掠めるにとどまった。
佐沼家の人々の安否を確認後、警官特有の使命感に駆り立てられ現場に直行した沖田は、土砂に埋もれた社の残骸に絶句する。
強風にもぎとられた木の葉が螺旋を描いて舞い上がり、枝が鞭の如く撓む。
社を封じる注連縄は切れ、天から降り注ぐ雨に打たれていた。朽ち木の扁額は真ん中で折れ砕け、瀕死のミミズがぬかるみを這っている。
追いかけてきた清美も言葉を失い、ずぶ濡れの沖田の隣に立ち尽くす。
二人の足元には白い雑種犬が徘徊していた。桑原が飼っているゴンだ。
「ワンワン!ワンワン!」
歯を剥いて吠えるゴン。ぬかるみに浮き沈みし溺れるミミズ。
「おーい大丈夫か!」
「こりゃ酷い、完全に埋まっちまってる」
「見ろ、社が……」
遅まきながら合流した青年団が麓に堆積した土石流に驚く。ゴンは眼光鋭く威嚇の唸りを発し、ぬかるみのミミズが浮き沈みする中、沖田が真っ先に異変に気付く。
泥に塗れた注連縄がさらに黒ずみ、身悶えている。
「ッ……」
瞬きする。目を擦る。注連縄はちぎれたまま……やっぱり幻覚?じゃあなんでゴンが吠えてるんだ、人懐こい犬なのに。
「あなた!!」
ヒステリックな絶叫が思考を散らす。清美が片方の靴を飛ばし駆け寄る先には、何十トンもある土砂に押し潰され、辛うじて底の一部が露出した車があった。
佐沼尚人のベンツだ。
稲妻。戦慄。未曾有の大惨事が起きてしまった。目に映る光景は神なきこの世の終わりを思わせる。
「離れろ!また崩れたらどうする、今度こそ巻き込まれるぞ!」
「はなして、あの人が中にいるの!」
「手遅れだ……土石流が運転席を直撃してる、即死だよ」
「落ちないって言ったじゃないウソツキ!」
「すまない」
残酷な光景を見せまいと片手で目を覆い、片手で引き止める。ちぎれた注連縄から立ち上る瘴気。廃材と化した社と泥にまみれ堕ちた扁額。力尽きて浮かぶミミズの亡骸。
「きゃうんきゃうん!」
やにわに硬直したかと思いきや、股の間にしっぽを巻き込んでゴンが逃げていく。
「じきに警察がくる、尚人さんの回収は任せるんだ」
死に物狂いに土砂をかき分け、転覆した車に少しでも近付こうとする清美を羽交い絞めにし、懸命に諭す。ざんばらに乱れた髪を纏わせ、美しい顔が悲愴に歪む。
「物みたいに言わないで……」
清美が跪いて泣き崩れ、青年団一同が無言で立ち尽くす。
「おきゅうさまが放たれた」
しわがれた声が重苦しい沈黙を破る。同時に振り向いた一同を出迎えたのは、寝間着をだらしなくはだけた佐沼文彦。奥座敷からさまよいでたらしい彼は裸足のまま、痰が絡んだ声で繰り返す。
「社が崩れた。おきゅうさまが野に放たれた。なんてことだ……」
ぬかるみに浮かぶミミズの骸が、地中に吸い込まれるように消えていた。
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