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第20話

田舎道にライトを照射し、自転車をしゃにむに立ち漕ぎし、菊池の表札が掛かった民家の前に乗り付ける。 「ごめんください!」 せっかちにピンポンを連打すればガラスに影がさし、がたぴし引き戸が開けられる。玄関にはパジャマに着替えた老夫婦が、迷惑げな様子で立っていた。 「駐在さんかい?こんな時間にどうした」 「日水村に地震がきます、すぐ逃げてください!」 「藪から棒に何を」 「お水持ってきましょうか」 「東京から来た男におきゅうさまが乗り移って影を自在に操ったんです、ここん所村で起きてる地震もアイツの仕業だったんですよ!」 「東京からきた男……りいっちゃんかい?」 「その相方の茶倉とかってすかした野郎です、ホストみたいなチャラいスーツ着た」 「おきゅうさまが憑いてるって本当なのかい?だってあれは昔話じゃ」 「俺も信じられませんがこの目で見ちまったもん否定できません、全部アイツが元凶だったんです、本人がゲロしました。か、影が、蔵の壁や天井に映った影がうねうね蠢いて!日水村の村人を皆殺しにする魂胆なんだ!」 清美が喪服の袂をからげ、桑原家の引き戸を叩く。庭先で寝ていたゴンが耳を立て、しっぽを振ってじゃれ付く。 「ごめんください、桑原さんはいらっしゃいますか。夜分遅く申し訳ございません」 「どうしたんだ清美さん、血相変えて。文彦さんの容態が悪いのかい」 「いえ違います、大至急お伝えしたい事があって……いきなり馬鹿げた事を言ってると思われるでしょうが、どうぞ聞いてください」 沖田と清美、藤代は辻で散開し、各々村民の説得に当たっていた。 茶倉におきゅうさまが憑いてると聞かされたものの、実際見てない清美は俄かに信じられなかった。しかし冗談ですませるには沖田と藤代の様子は真剣そのもので、おざなりにできない。 何より決め手となったのは、実直を絵に描いたような想い人の言葉だ。 『アイツにされた仕打ちを忘れたんですか!魔がさしたなんて言葉は使いたくありませんが、もしそうなら筋が通ります。茶倉の様子がおかしかったのはおきゅうさまに取り憑かれたから、いや、アイツ自身がおきゅうさまの化身だったんですよ』 彼の言うとおり茶倉がおきゅうさまの化身なら、体を委ねてしまったのも無理からぬこと。 最初は抵抗した。 しかし途中から快楽に流され、気付けば背中に爪を立て、進んで求めていた。そんなこと素面で言えるわけがない、なかんずく沖田には明かせない。 茶倉の瞳を見た瞬間自制心が蒸発し、激しい劣情を催したなんて。 アレが魔性の魅了なら納得だ。 TSSを訪ねたのは世間の評判を信じたから。 茶倉練は高名な霊能者で、これまで幾多の心霊トラブルを解決してきた凄腕と聞いた。 だがしかし、それすら操られていたら? 得体の知れない意志が清美と茶倉を引き合わせ、二人で堕ちるように仕組んだなら……。 小走りに駆け雑念を散らす。 とりあえず、今自分にできることをしなければ。 おきゅうさまの化身が地震を予知し、日水村を滅ぼすと宣言したのだ。 一人でも多くの村民に避難を促し、青年団に活動を要請せねば……。 田んぼが四方に広がる辻の中心に愛しい男が立っていた。自転車を停め、気忙しくあたりを見回している。 「沖田さん!」 「清美さん!」 不規則に点滅する常夜灯の下で合流を果たし、報告を交わす。 「村の東側は殆ど回りました」 「俺は西側を」 「藤代さんは?南をお願いしたはずですけど、まだ戻ってないのかしら」 しっかり者の家政婦が見当たらず、胸に不安が兆す。沖田が舌打ちする。 「とりあえず村の人たちには公会堂に集まってもらって、今後の方針を練りますか。あそこなら鉄筋コンクリートで頑丈ですし、震度5程度ならびくともしません。それ以上となるとわかりませんが……」 「年配の方が多いし、カーブが連続する夜道に車を出すのは危ないですものね」 「明日の朝一のバスを待ちますか。いや、それでも足らないな。村人は三百人、全員逃がすには何往復……やっぱり麓の警察に頼むしか」 眉間に川の字を刻んで無線機と睨み合い、悩ましげに腰に戻す。 「もうやってみたんでしょ」 「……はい。駄目でした」 日水村で遠からず地震が起こるから避難を手伝ってくれなどと、正直に告げた所で応援は望めない。 大前提として正確な日付がわからないのが痛い。茶倉の言動のみを根拠に警察は動かせない。 「くそっ、スマホに録画しとくんだった」 「藤代さんをさがしてきます。単独行動は危険だわ」 臍を噛む沖田に告げ、走り出す間際に手が掴まれた。 駐在が思い詰めた顔をしている。 「今の言葉そっくりお返しします。貴女が行くなら俺も行く」 「懐かしい」 「はい?」 「この村に来て間もない頃、慣れない道で転びかけた所を助けてくれたでしょ。ちょうどこんな風に」 当時の記憶を思い出したか、沖田が決まり悪げに俯く。 「その節は不躾なまねを」 「とんでもない。嬉しかった」 尚人を愛していたのは誓って本当だ。が、ここ一年心は離れていた。 三年前の工事の頓挫以降、夫は変わってしまった。毎日のように資金繰りに飛び回り、父と妻がいる実家にはめったに近寄らず、市街に外泊することが増えた。かと思えば書斎に引きこもり、朝から晩までパソコンと睨めっこしている。 清美が襖を開けようものなら神経質に怒鳴り散らし、パソコンに触れられるのを拒んだ。 結局夫の形見のパソコンは処分できず、スワードすら知らないまま放置している。 仮にわかった所で故人のプライバシーを暴き立てる趣味はないのだが、好き合って結婚したはずの夫の秘密主義に、寂しさを覚えていたのは否定し難い。 今清美の心を占めているのは不器用で実直な駐在の面影、無骨な指と繋いだ手から流れ込むぬくもりが頼もしい。 制服の胸に顔を埋め、小声で謝罪する。 「ウソツキ呼ばわりしてごめんなさい」 「いや……俺の方こそ、根拠のない気休めを言いました」 茶倉に抱かれながら考えていたのはこの人の事、最後に呼んだのはこの人の名前。 『尚人が寄り付かんあいだ、どでかい屋敷にひとりぽっちのアンタを支えたんは誰や。勤務時間外に門の前掃き掃除して、駐在所閉めてからもちょくちょく覗きに来て、台風ン時はどしゃ降りん中走ってくるお人好し』 一か月前の台風の晩、篠突く雨に煙る夜道を懐中電灯を下げて走ってくるこの人を見て、はっきり恋心を自覚した。 『悪いこと言わん、駆け落ちせえ。アンタらどない見たって両片想い、いや、両想いや。家も舅も村も捨てて、手ェ取り合ってトンズラこいたらええやん』 本当に、そうしていいのだろうか。 しがらみから自由になって、尚人のことも文彦のことも忘れて、日水村から出て行ってもいいのだろうか。 「清美さん?」 『一番はアンタやアンタ。アイツの頭はアンタで一杯、村人なんて二の次三の次や』 それは夫の遺志に反する。 佐沼の嫁の務めを果たさなければ、あの人に顔向けできない。 たとえ古臭いと言われようが、佐沼の家を盛り立てることを条件に嫁いできたのだから。 尚人に贈られた打掛を彩る七宝繋ぎを反芻、毅然と顔を上げる。 「他力本願は駄目。日水村の因縁は日水村の住人がなんとかしなきゃ、最初からそうすべきだったのよ」 見方を変えれば茶倉も犠牲者だ。 禁を破り村の問題をよそに持ち込んだから、話がこじれてしまったのだ。 透徹した決意を浮かべる清美にしかと向き合い、沖田が厳かに訊く。 「貴女はどうしたいんですか、清美さん」 「私は」 答えはすぐに出た。 まなじりを決し、高らかに宣言する。 「尚人さんの弔い合戦をしたい」 さもなければ、喪服を脱いでこの人と結ばれる資格がない。 手に手を取り合い夜道を駆ける沖田と清美の影を、蛾のたかる常夜灯が煌々と照らし出す。 折しも日水山の方角から暗雲が湧きだし、沖田と清美が住民を叩き起こして回った日水村上空を覆い始める。 「雨だ」 沖田が手のひらを上向け、夜空から落ちた一滴の雫ををうける。 庭先にたたずむ菊池夫妻が、踏ん張るゴンを玄関に入れようと手こずる桑原が、眠たげな青年団の面々が、それぞれ空を見上げる。 「なんまんだぶなんまんだぶ」 藤代の母が数珠を巻いた手と手を合わせ、呟く。 「おきゅうさまが……来る」 一方その頃。 藤代は道を大幅に逸れ、尚人の事故現場を徘徊していた。周囲には大量の土砂が堆積し、無残にへし折れた倒木が放置されている。 覚束ない足取りで土砂の起伏を歩き回り、縋るように叫ぶ。 「いるの、尚人さん」 一体どこで間違えたのか。 一か月前? もっと前? 「お願いよ、返事して」 藤代小百合は日水村で生まれ育った。 早くに父を亡くし、母の後を継ぐ形で佐沼家のお手伝いに上がった。当時の文彦はまだ若く精悍で、娘心がときめいた。 やがて尚人が産まれた。本妻は尚人が二歳の時に他界し、以来藤代が世話をしてきた。 文彦は一粒種の尚人を溺愛し、存分に甘やかして育てた。 心を鬼にして諌めれば良かったのか。窘めれば良かったのか。尚人をわがまま放題に甘やかしたのは藤代とて同じ、否、文彦より一層可愛がり付け上がらせたじゃないか。 尊大で癇癪持ちの尚人だが、優しい所もあった。藤代が立ち仕事をしてる最中にこっそり忍び寄り、折り紙で折った花や鶴をくれた。母の日には拙い似顔絵、誕生日には手作りの肩たたき券をもらった事を鮮明に覚えている。 あれは尚人が六歳の頃。 添い寝している時、妙な歌を口ずさんだ。 『きゅうのいずみのそこふかく じぬしのじごくがそこにある きゅうのいずみのそこふかく ちみもうりょうがわきいずる……』 幼い頃母に聞いたわらべ歌と大筋は同じだが、一字だけ違っていた。 『尚人坊っちゃん、そこはじぬしじゃなくてじむしじゃありませんか』 『ううん、じぬしだよ。うちじゃじぬしが正しいんだ』 『佐沼家では?』 『お父さんが言ってた、正しい歌詞は不吉だから唄っちゃだめなんだって。村に広まってるのは嘘っこの歌詞、ホントはじぬしが正解なの。小百合さんにだけ特別に教えたげるけど、みんなには絶対内緒ね』 そういって布団に仰向け、佐沼家のみに伝わる正しいわらべ歌を紡ぐ。 『九の泉の底深く 地主の地獄が底にある 九の泉の底深く 魑魅魍魎が湧き出ずる』 地主の地獄。 それが何を意味するか知ったのは数年後、尚人に付き合い土蔵でかくれんぼしていた時。 行李の中から偶然発見した和綴じの古書に、おきゅうさまの忌まわしい真実と、それに纏わる佐沼家当主の役割が綴られていた。 『ぼくと小百合さんの秘密』 追憶は止まらない。 まだ幼い尚人と交わした指きりの約束、薄暗い土蔵を手探りで歩いた記憶が哀切な感傷をかきたてる。 藤代は約束を守り、口外しなかった。 やがて尚人は少年から青年に成長し、壮年から中年になる。父やお手伝いに甘やかされた尚人は浪費家の放蕩息子に成り下がり、次々と事業を始めては潰し、新たな借金を拵える都度実家に泣き付く繰り返し。嫁は結婚十年目で愛想を尽かし出て行った。 文彦とも衝突が増え、一時は勘当寸前まで行ったが、藤代が体を張って止めた。 『尚人さんを勘当なさるなら私も出ていきます』 長年仕えた女中の初めての反抗に、文彦は折れた。彼もまた息子同様、藤代に依存しきってたのだ。 尚人は現実主義者でおきゅうさまの存在を信じてなかった。村人たちの迷信深さを嘲り、自分が家を継いだ折には、村の開発を押し進めると公言して憚らなかった。 思えば子供の頃からおきゅうさまに懐疑的なればこそ、父親が禁じたわらべ唄を唄えたのだ。 長い間家を出ていた尚人が美しい後妻を連れ、帰郷した時は本当に嬉しかった。 事態が暗転したのは三年前、日水山の工事の中止がきっかけ。日水山への道路敷設は尚人の悲願、起死回生を賭けた一大事業だった。 『日水山に道路を通す?何を考えてるんだお前は、罰当たりな!』 『それが古いんだよ親父、罰をあてる神様なんていやしないって何遍言ったらわかるんだ』 『社を壊してただですむものか、あそこにはおきゅうさまが祀られてるんだぞ』 『よそに移しゃいいだろ。道路が通りゃすごく便利になる、隣町との行き来がずっと楽になるじゃないか。往復一時間以上短縮できるんだ、素晴らしい。幸い知り合いの業者がもろもろ安く請け負って』 『ならん。あそこは佐沼の土地じゃ、ワシの目が黒いうちは勝手なまねをさせん』 『わからず屋が!』 『どうか考え直してください尚人さん、日水山はおきゅうさまの住処です、重機を入れたら障りが起きます。村人たちも反発するわ』 『小百合さんまで……味方になってくれないのかよ』 清美を除く村中の人間に反対されても頑として引き下がらず、一層むきになり工事を推し進めた結果、次々と不幸が見舞った。 原因不明の重機の故障、作業員の発作、大怪我。 最初は乗り気だった業者も一斉に手を引き、後には歪に削り取られた日水山と、多額の負債を抱えた尚人だけが取り残される。 この一件を境に、尚人は情緒不安定に陥った。 工事再開の資金繰りの為接待や交渉に飛び回り、友人知人に片っ端から借金を申し込む一方、家にいる時は書斎に塞ぎこんで出てこない。清美と口論する回数も増えた。 一年ほど前、泣きながら廊下を走っていく清美とすれ違った。 『大丈夫ですか』 『ええ……ごめんなさい』 曲がり角から現れた尚人に喧嘩の理由を聞いた所、神経質に親指の爪を噛み、こうこたえた。 『清美はおきゅうさまの祟りで石女にされちまった』 時代錯誤な悪態に耳を疑った。 『うまずめって、そんな古い。三十代後半ですし、妊娠が難しいのは承知で結婚したんじゃないんですか』 『三日に一度はヤッてるんだぞ、通販で仕入れた精力剤だってしこたま飲んでるのに。妊娠しないなんておかしい、ありえない。俺だっていい加減年だ、還暦前に子供が欲しいのに全然』 『清美さんが妊娠しても、跡取りの男の子を授かるとは限らないじゃないですか』 『娘でもかまわん。子供が欲しい。俺の血を引く子供が、佐沼家を継ぐ子供が』 血を絶やすな。 産めよ増えよ地に満ちよ。 『どうして?なんで?アイツが石女じゃないなら俺が種なしなのか、おきゅうさまの祟りなのか。資金繰りも上手くいかない、はるばる訪ねてった友人は居留守を使うし後輩は着信拒否だ、それもこれも全部ケチの付け始めは例の工事だ、親父の言うとおりお山を抉ったからバチが当たったのか、畜生どうしろってんだ俺は悪くない道路を通せば便利になる皆喜ぶ』 佐沼の倅。 またの名を落ちこぼれ、甲斐性なしのダメ息子。 それが日水村における、嘘偽りない尚人の評価だった。 優秀な父への反発が、尚人をもってして無頼なふるまいに走らせたのは否定できない。 夫婦そろって医者の診断をうけたらどうかとアドバイスしたが、尚人の独断で却下された。 人一倍見栄っ張りな佐沼の倅は、自分が種なしだと判明するのが怖かったのだ。 付け加えるなら日水村の旧弊な価値観において、不妊治療は邪道と見なされていた。 『五十こえてもまだまだ現役だ、種は一杯詰まってる。あとは撒くだけ耕すだけ、よく肥えた縣を献上するんだ』 吾が田。聞き慣れない言葉。 『おきゅうさまを宥めなけりゃ。手遅れになる前に。もうすぐ俺は還暦で清美は四十路、時間がないぞ。俺の遺志を継ぐ子がいりゃ佐沼の家は安泰、開発だって引き継いでくれる……』 藤代は今も後悔している。 もっと親身に相談にのってやっていたら、尚人とて最悪の選択をしなかったはず。 ちょうどその頃、母の認知症が悪化した。藤代は文彦と実母両方の介護に追われ、尚人に変化に気を回せなかった。 尚人の方も神経質な傾向に拍車がかかり、家人が書斎に立ち入るのを毛嫌いし始める。パソコンに触るなどもってのほか。 今でも考える。 考えて、悔やむ。 あの日以前に書斎に立ち入りパソコンの中を調べていたら、カレンダーのマル印を見咎めていたら、邪な計画を防げたのだろうか。 六月二十九日、日水村を未曾有の台風が襲った。 清美は激しい雷雨と夫の不在に落ち着かず、文彦の容態は悪く、藤代はそんな二人を案じながら老母を公会堂に送り届けたのち、自宅の雨戸を立て、窓をブルーシートで覆っていた。 雨合羽の懐でスマホが鳴る。液晶には佐沼尚人の名前。 『もしもし藤代ですが。坊ちゃん、今どちらです?清美さんが心配してらっしゃいますよ、早く帰』 『たすけてくれ!』 開口一番泣き付かれ、ブルシートを持った手が止まる。 『どうなさったんですか』 『まずい状況なんだ、こんな事アンタにしか頼めない。今すぐ屋敷の裏、山沿いの道に来てくれ。あの子が、子どもが』 『子ども?どこの子ですか?』 尚人の発言は支離滅裂だ。日水村に子どもはいないはず。屋根を叩く豪雨の音が通話をかき消し、轟々と渦巻く風の唸りが耳を聾する。 『あがたがにげた!』 ブルーシートを放りだし、ゴム長靴で水たまりを蹴散らし、藤代は急ぐ。スマホのスピーカーから漏れ出る声はノイズに途切れがちで、相変わらず要領を得ない。 『畜生なんてツイてないんだもうすこしだったのに、準備は万端だったんだ、前から用意してた。新しく南京錠を取り付けて、あそこなら絶対大丈夫だと』 『あそこって?』 『社だよ日水山の、村の連中は近付かないだろ!親父に聞いたんだよ、あそこは元々その為に使われてた!なんで今日に限って台風が直撃すんだ、あんまりじゃねえか。この天候じゃ山に登れねえ、そもそも山に道が通ってねえ!くそっくそっ、本当なら今頃道路が完成してたのによってたかって邪魔しやがって!!』 口汚い悪態を吐きまくる尚人。 途轍もなく嫌な予感がした。雨風に混ざり聞こえる子供の泣き声は気のせいだと信じたい。 『坊ちゃんどこですか!』 『まだ遠くに行ってない、ガキを捕まえてくれ。ばれたらおしまいだ、おきゅうさまに縣を献上』 凄まじい雷鳴が耳を打ち、雪崩れるような轟音が連続する。 『お袋』 直後に通話が途切れ、佐沼邸の前にさしかかった藤代が立ち竦む。 『土砂崩れだ、日水山が崩れたぞ!』 『車が埋まってる』 『ありゃ佐沼の倅の愛車だ。なんてこった、生き埋めかよ……』 屋敷の裏手で騒ぎ立てる大勢の人間たち。急速に褪せていく現実感。 尚人坊ちゃんが死んだ? その時何故土塀を回り込み裏道に出なかったのか。答えは至極明瞭、正門から裏口まで敷地内を抜けるのが近道だから。 片手にスマホを下げ、雨合羽を濡れそぼらし、放心状態のまま数寄屋門をくぐる。 『ひぐっ、ひぐっ』 声がした。 斜めに張り出した土蔵の軒先で、一人の少女が泣きじゃくっている。 『ここどこ……お父さん、お母さん……おうち帰して……』 年の頃は十歳程度。片方の手首にはたるんだガムテープが垂れ下がり、首には目隠し用の布が引っかかっている。 散弾のような雨の中を走ってきたのか、肩で切り揃えた黒髪も洋服もずぶ濡れだ。運動靴は片方脱げ、白い靴下が泥水に浸っている。 あの子があがた。 尚人の忘れ形見。 『雷怖いよお。雨やだよお』 土蔵の軒先で雨宿りしてるのは、玄関の引き戸が施錠されてるため。屋敷の雨戸は全て立てられており、縁側から出入りもできない。 『誰かいませんか。助けてください。わたしの名前は……』 『もうだいじょうぶよお嬢ちゃん、怖かったわね。可哀想にずぶ濡れじゃない、こっちおいで、拭いてあげる』 口と舌が勝手に動き、独りぼっちの少女を招く。恐怖と警戒に強張った表情が、優しげな老婦人を見るなりほぐれていく。 斯くして藤代小百合は、佐沼尚人の誘拐の片棒を担いだのだった。

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