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後日談 百錬自得
じいちゃんの家は京都市左京区にある。
「よし」
前回の訪問から早三か月経った。
竹刀袋のストラップを掴み、顔を上げて長屋門をくぐる。柘植や躑躅、椿や金木犀が植わった庭の先には、母屋と隣接した道場が鎮座していた。迷わず後者へ進み、開け放たれた入口を覗き込む。
「いる?じいちゃん。可愛い孫がはるばる会いに来たぜー」
道場の中心で胴着の老人が素振りしていた。
齢七十をこえているとは思えない姿勢のよさ、矍鑠とした物腰。短く刈り込んだごま塩頭と切れ長の一重瞼には精悍な圧が漲っている。
力強く振り下ろされた竹刀が静止し、眼光鋭い目がぎょろりと動く。おっかねえ。
「手土産」
にへらと笑って紙袋を掲げる。竹刀を担いで歩いてくるや、紙袋の中身に鼻を鳴らす。
「ひよこか。代わり映えせんの」
「鳩サブレがよかった?メールで言ってよ、東京駅で買ってきたのに」
別段上がれとも入れとも言われなかったが、雑な扱いには慣れっこなので靴を脱ぎ、下駄箱に納める。
じいちゃんの名前は烏丸正一、名門道場の師範代だ。
磨き込まれた光沢の床板から視線を上げ、周囲を見回す。
奥には神棚が祀られた床の間があり、たくさんの表彰状が飾られていた。若き日のじいちゃんと門下生の集合写真もまざってる。
見るたび思うが、若い頃のじいちゃんは俺に似てる。なのにむこうのが男前に感じるのが不思議だ。
「道場の方はもうかってる?近所の小学生に教えてんだろ、月謝で回ってんの」
「成人も来る。たまに」
「そっか」
「泊まってくんか」
「ん。二・三日」
「そのぶんだと定職には就いてへんみたいやな。父さん母さんが心配しとるぞ」
「いやいやちゃんと働いてるって、前に話したじゃんか」
「てぃーえーえすか」
じいちゃんは横文字に弱い。すかさず補足する。
「そ、同級生がやってる会社。正式名称は茶倉スピチュアルサービス、セレブなマダムのお相手する時ゃスピチュアルセラピーで使い分けてる」
「霊感商法の類か」
「心霊相談よろず承りがサービス、セレブをコマしてパワーストーン売り付ける方がセラピー。ややっこしいからどっちか統一しろって言ってんだけど本人に変なこだわりあって譲んねーの、欧米じゃ受動的に患者と関わるのがカウンセラーで能動的に関わるのがセラピストって区別されてるらしい、茶倉のうけうりな」
「有閑マダムのお喋りに付き合うて小遣いもろうとんのか。聞けば聞くほど胡散臭い、ホンマに大丈夫なんかそこ。俺にはお前の腐れ縁とやらが舌先三寸で世の中渡る詐欺師にしか思えんが」
「だよなあ」
茶倉が悪徳詐欺師だと言われたら否定できない、長いこと助手をやってる俺すら時々疑わしくなる。しかしまあ、訴えられた経験はないんで大丈夫なはず。
紙袋を床の間に置いたじいちゃんがぞんざいに顎をしゃくる。
「着替えてこい」
軽く頷いて奥へ引っ込み、紺色の胴着に袖を通す。袴を穿いて帯を結べば、自然と気が引き締まる。
細長い袋の紐を緩め、開口部からマイ竹刀を取り出す。
中学ん時から使い込んだ愛刀にはしょっぱい汗と潰れた手豆の血が染み付いてる。
ちょっと迷ったが、右手の数珠は外しておいた。ちゃらちゃらしたアクセを付けてるとじいちゃんがうるさい。
竹刀をひっさげ道場へ戻れば、じいちゃんが正座で待ち構えていた。床の間を背負ったじいちゃんの対面に座り、両手を八の字に開き、鼻先を中心に向けてゆっくり頭を下げていく。
「よろしくお願いします」
「うむ」
一瞬で師弟の空気に切り替わる。じいちゃんの居住まいには静かな気迫が滲んでいた。
同時に立ち上がり中央に移動、竹刀を握って対峙する。
先攻は俺。
間合いに踏み込んで抜き打ち、気合一閃振り下ろす。止められた。衝撃に手が痺れる。竹刀を斜に翳したじいちゃんが呟く。
「浅い」
まだだ。続けざま猛攻に移る。
打突・刺突・返し胴、ことごとく躱された。残像が分身する鮮やかな身ごなし。
じいちゃんは防戦一方、俺を小手先であしらい続けるばかりで打ち返して来ない。殆ど力んでねえのに片っ端から受け流され、たたらを踏む。
「くっ!」
前に泳いだ体を持ちこたえ胴を払うも、紙一重で避けられた。早い。
「太刀筋が乱れとる」
じいちゃんが低く呟いて柄を握り直す。竹刀を前に立て打突を受ける。
骨まで痺れる一撃に歯を食いしばり、押し切ろうとする気迫を辛うじて耐え忍ぶ。
「っぐ、」
丁々発止と鍔競り合うなかせっかちな瞬きで汗を追い出し、至近距離に迫るじいちゃんを睨む。
「雑念で濁っとるんちゃうか」
手の震えが伝わり切っ先がブレる。じいちゃんの顔が茶倉にすりかわり、日水村の惨劇が甦る。
文彦さんと藤代さんは死んだ。
俺は現場に居合わせたのに何もできず、結果的に二人を見殺しにした。
茶倉も危なかった。
今は稽古に集中しろ。
手汗でぬめる柄を握り直し、殺気走った打突を繰り出す。じいちゃんは危うげなくそれを受け、いなし、めまぐるしい足捌きで後退していく。
「たあっ!」
甲高い奇声を発し、上段の構えから面を狙いに行く。
余裕で見切られた。
竹刀で足を払われ尻餅付き、起き上がりしな切っ先を突き付けられた。
「一本」
弾け散る汗を追い、居住まいを正して座礼。
「ありがとうございました」
手を揃えて深々頭を下ろす。また負けた。通算何十敗目だ?胸中に苦汁がこみ上げ、俯けた顔が歪む。
「もういちどお願いします」
すぐに仕切り直し、竹刀を掴んで向かっていく。
燻る闘志を気炎に熾し、何度も繰り返し挑み、したたかに打ち据えられまた突っ伏す。
「まだまだっ」
竹刀を突いて起き上がった瞬間膝が傾ぐ。心臓が早鐘を打ち、息が切れて目が霞む。
出鼻小手・面返し面・小手すり上げ面。手首を回して竹刀を巻き取り、その勢いに乗じて素早く打ち込む。
前進、後退。小刻みに弧を描いて間合いを図る。一振りごとに飛び散る汗。胴着をはだけた胸は激しく上下し、茹だりきった全身から白い湯気が漂い出す。
五回目の惨敗を喫して大の字に伸びる頃、じいちゃんがため息を吐いた。
「一旦休憩入れるで」
「まだイケる」
「俺がしんどい。年考えろや」
方便だと直感した。俺の虚勢を見抜いたのだ。情けない話、膝が笑っていた。足と手は震えている。ざまあねえなと自虐して床の間の前に移り、膝を揃えて座す。
「何があった、理一」
だしぬけに聞かれた。物問いたげに顔を上げれば、じいちゃんが厳しい表情で腕を組んでいた。
「別になんも」
後ろめたさに駆られ言葉を濁す。
「嘘吐け」
「嘘じゃねーし」
「目が泳いどるぞ正直者」
じいちゃんがあきれる。
「裏のお寺さんの供えもんに手ェ付けた時とおんなじ反応でバレバレや、賞味期限切れのまんじゅうたいらげて腹壊したん忘れたんか。わざわざ手土産持って京都まで会いに来て、なんもかんもあるかい」
「かんもって何?生命保険?」
「そらかんぽや」
「おでんの具」
「がんもやろ」
「久しぶりに顔見たくなっただけ」
「殊勝な心構えやな、当分お迎えは来んで」
「そういうんじゃ」
「話せ」
鋭い眼光に気圧され、のろくさ口を開く。
「ちょっと前、TSSの仕事で長野の山奥に行ったんだ。それで……」
全部は話さない。話してもきっと信じてもらえない。
掻い摘まんで話したのは、救えなかった人たちの事だ。
「人が死んだ、二人。きっかけになった人を含めたら三人。あとの二人はもうすこし俺の腕が立って、頭の回りが早けりゃ助けられたかもしんねえ」
壮絶な後悔と無力感が苛み、膝の上においた拳が強張る。
「……ダチもヤバかった」
おきゅうさまに蹂躙される茶倉を思い出し、声を絞る。
「ギリギリ勝てはしたけど、最悪みんな死んでた。村人まるごと全滅しててもおかしくなかった。東京帰ってからも思い出すんだ、もっと上手くできたんじゃないか、他にやりようあったんじゃねえかって」
もっと早く、大胆に踏み込んでいりゃ。
面を取りに行ってれば。
「だから決めた。もっともっと強くなって、しんどい時はちゃんと頼ってもらえるようになるんだ」
アイツの相棒を名乗るなら、今みたいに中途半端じゃだめだと思い知らされた。
「俺、さ、酷いこと言っちまったんだ。まだちゃんと謝ってねえ。ぶっちゃけ謝んのが正しいかもわかんねえ。かえってみじめにさせるだけかもしんねえ」
口論中に浴びせた暴言を回想し、怒りを通り越した殺意を自分に抱く。
アイツはどんな思いで、俺が侮るザコに好き勝手されてきた過去を思い出したんだ?
一度吐いた言葉は取り消せない。
茶倉の根っこを抉っちまった事実は変わらない。
だから。
じいちゃんの目の奥に信念で鍛えたまなざしをねじこみ、宣誓。
「これからさきアイツが余裕かませねー敵にぶち当たったら、半分持ってく」
それがどんなに生理的に無理で吐き気しそうに悪趣味な化け物でも、絶対に。
リーチと連荘は横並びで揃わなきゃ大当たりになんねーだろ?
「てなわけで、一から鍛え直してください」
師範に礼を払い、額を床に付け頼み込む。
値踏みするように俺を眺め、じいちゃんが苦言を呈す。
「お前が勝てんのは正念場の踏ん張りが足りんからや、せやさかい筋は悪ぅないのに実力を発揮できん。父さんと同じで優しすぎるんやろな、なにがなんでも相手を打ち負かしたろて気概が欠けとる」
きょとんとする。
「褒めてんの?ヘタレとはよく言われるけど」
「褒めとらん。勝負事における優しさは甘えで弱みや」
咳払い。
「早い話根性が足りん」
「物心付いた時からじいちゃん見てきたらそりゃそうなるよ、こんなすげー人にかなうわけねえってそばにいるだけでわからされた」
もちろんこんなのただの言い訳だ、じいちゃんの言うとおり俺が根性なしだっただけだ。
この人に憧れて剣道を始めのは事実だが、現実の目標にするには遠すぎた。
「じいちゃんの影響で剣道はじめて、そこそこイイ所まではいけた。中学じゃ主将に抜擢された。嬉しかった。でもそれが限界、頑張りだけじゃ報われねーって悟っちまった」
違うだろ。
勝手に限界決めて諦めただけだろ。
「あの頃の俺は根性なしのガキで、別に守りてェもんとかねえおめでてえ中坊で、毎日ゲロ吐く位しごかれんのにすっかり嫌気がさしてたんだ」
主将として部を引っ張っかなきゃいけない責任やプレッシャーに全国制覇の期待がのしかかり、準決勝で敗退した時は逆にせいせいした。
俺に打ち負かされた相手が悔し泣きし、剣道をやめちまったのもしんどかった。
じいちゃんに憧れてはじめた剣道だけど、打ち込めば打ち込むほど思い描いたものとずれていくのがもどかしくて、次第にやる気を失っていった。
結局俺は天才でもなんでもない、人よりちょっと剣道が強いだけの普通の中学生だったのだ。
「手マメが潰れる痛みや防具の汗臭さに耐えててっぺん獲りに行く覚悟も、それにこたえる才能もなかった」
だけど今、守りたいものと強くなる理由ができた。
暫く無言で見詰め合った。
じいちゃんが表情を緩め、目に柔和な光を宿す。
「お前は芯から優しすぎて、誰かを打ちのめす為に剣をとるんは向いてない。せやったら、何かを守る為に振るえ」
瞠目。
「お前の名前は俺が付けた。道理を通す人間になってほしいから理一。道理っちゅーんは物事の正しいすじみち、人として行うべき正しい道のこっちゃ」
子供の頃に聞かされた由来を改めて説かれ、背筋が伸びる。
「それがどんな険しゅうてしんどい道でも、極めるか」
「ああ」
じいちゃんを真っ直ぐ見据え、きっぱり頷く。
日水村の一件で実力不足を思い知らされた。
今から鍛え直してどこまで行けるかわからないが、何もせずダチに頼りきるよりずっとマシだ。
茶倉の背中に傷痕を刻んだ悪意から、アイツを守る。
強くなる理由なんてそれで十分だ。
「頼む、もっかい」
「わこた」
必死の懇願に対し、苦笑気味に腰を浮かしたじいちゃんが怪訝な顔をする。
「虫にでも刺されたんか」
たるんだ胴着から剥き出しの胸元や首筋に目をやり、真っ赤に茹だる。反射的に首と鎖骨を覆い、笑ってごまかす。
「蚊!」
「秋やぞ」
「季節外れだよな、うちのアパートによく出るんだまいっちまうよははっ」
「バルサン焚け」
あぶねーあぶねー。襟を整え胸をしまい、中央に赴く。
「一本とるまで寝かさへんで」
「技ありに負けてくんねえ?」
「ぬるい」
稽古再開。
激しい打ち込みに耐えて踏ん張り、またしても弾かれた竹刀を振るい、今度こそはと勝ちを取りに行きながら、東京で待ってる茶倉に生八ツ橋を買ってこうと思った。
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