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第87話 『祈るように』

 クオンは部屋に運ばれて来た夜食を平らげ、湯殿を借りた。街は閉門しているので、もう一晩だけ泊まることになった。    モーリスは「ずっといてくださって構わないんですよ。レヴィン様のためにも」とにこりとした。  冗談なのか本気なのかわからず、クオンは曖昧に笑った。    あれからレヴィンは顔を見せない。    寝込みにキスをしてきた「おあいこ」は聞こえなかったようだ。  クオンは二人で話しがしたくてレヴィンの部屋の前にいた。    扉を叩くと「入れ」と言われたので顔をのぞかせたら、驚いたように慌ててやってきた。 モーリスと勘違いしたようだ。 「入っていいか」と改めて訊いたら、逡巡したのち入れてくれた。  レヴィンの部屋には長いソファーがひとつとテーブルがある。  クオンをソファーに座らせると、自分はベッドの脇に置いてあった椅子を持ってきた。  向かい合って座る。この椅子はレヴィンの看病用に持ち込まれたものだった。  話をしようと思ってやってきたが、いざ本人を目の前にすると何を話せばいいのかわからなくなった。  クオンは指を組み、下を向いていたら、レヴィンがためらいがちに口を開いた。 「これから会いに行こうと思っていたんだ」  クオンは顔を上げた。今夜のことかと思ったが違っていた。 「拒まれても話を聞いてもらうまで、ずっと通うつもりだった」 「……俺の家にか?」  レヴィンは穏やかな瞳でうなずくと、「王家を離脱した」と言った。  クオンは息が止まった。  レヴィンが続けて何か言っていたが「王位継承権の放棄」と「庶民」という言葉だけが耳に残り、頭の中は真っ白になっていた。 クオンは事の重大さに顔を伏せた。きつく手を握りしめる。 「……俺が、そうさせたのか」  喉から声を絞り出すと、レヴィンは静かに言った。 「遅かれ早かれ、俺はこの道を選んだ。あのときはクオンが言うような先のことなんて、考えていなかった」  レヴィンは「顔を上げてくれ」と言った。 「宮廷の使者が来たとき、汚名を晴らそうとしてくれる者たちがいると知った。このままではクオンの言った通り、宮廷に戻って来いと言われるところだった。だからこれでよかったんだ」  そう言いながらレヴィンは笑ったが、クオンはまったく笑えなかった。  低い声を出す。 「俺はそんなことしてほしくなかった。そこまですれば俺の気が変わるとでも思ったのか」  にらみつけたが、しかしレヴィンは笑みを崩さなかった。 「怒るだろうと思った。こういうことをされるのは、嫌いだろう?」 「…………」 「俺は王家に未練などない。クオンのそばにいたいだけなんだ」  レヴィンは微笑んでいたが、眼差しは真剣なものだった。クオンはその目をそらさなかった。 「……俺はおまえ以外の人を好きになるかもしれない」  厳しい表情を作った。だがレヴィンは秀麗な眉を一瞬しかめたあと、そっと息を吐いた。 「邪魔はしない。だから、そばにいさせてくれないか」  祈るような言葉にクオンは唇を噛んだ。胸が愛しさでいっぱいになる。  それがどれだけ辛いことか、クオンは知っている。リウしか目に入らないロッドをずっと見てきたのだ。  クオンは(まぶた)を閉じ、大きく息をした。 「本当に覚えてないんだな」 「?」 「熱を出してたとき、一回起きただろ。そのとき俺が話したことだよ」  レヴィンは記憶を辿るように視線を巡らせたが、申し訳なさそうに眉を寄せた。 「すまない。思い出せない」  意識が朦朧とした中での会話だ。レヴィンは目を覚ましたことすら覚えていないようだ。  クオンは立ち上がり、レヴィンの傍に寄った。  テーブルの上に置かれた燭台の炎が揺らめく。クオンはレヴィンに右手を伸ばした。 「もう、好きだって言ってくれないのか?」  頬に優しく触れる。親指で撫でるとレヴィンはその手を搦め取り、立ち上がった。 「……言ってもいいのなら」  体を引き寄せられる。  見上げると、朱色の髪の、青い瞳の王子様に見つめられた。  クオンはきれいだ、と思いながらじっと見つめ返した。  好きだ、という言葉と共にキスも降ってきた。

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