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俺の知らない師範(俺)

小さな村は酷く平和で、不穏な痕跡は何一つなかった。 東の魔王の姿形くらいしか情報のない俺たちは、ひとまず手分けして村の人に話を聞いてみることにした。 師範と村の外れを歩いていると、なんだか懐かしい匂いがした。 どうやら村人が二人で花壇に花を植え替えているようだ。 彼らの屈んでいる花壇には、俺が師範と暮らしていた小さな家の、庭に植えられていたのと同じ花があった。 花の香りに誘われるように、俺はその背中に声をかけていた。 「この辺りに、俺と同じくらいの背丈で、黒髪を長く伸ばした……」 俺の声に、屈んで作業していた男が立ち上がる。 ん? 立つと結構デカイな。俺と同じくらいか……? 「もしかして、僕を探してるのかい?」 こちらを振り返った夜空のような濃紺の瞳は、闇の色によく似ていた。 間違いない。こいつだ。 この男が師範の探していた奴だ。 俺は一瞬でそう確信する。 歳の頃は四十後半から五十半ばだろうか。髪は後ろで一つに括られていたが、話よりも随分短かい。 男は濃紺の瞳を細めて、眩しげに俺を見た。 「……驚いたな。こんなに眩しい人は初めて見たよ」 男は苦笑するように呟きながら、何ひとつ違和感のない自然な動作で俺から距離を取った。 その背中に、師範よりも小柄な誰かを庇っている。 そういやさっき確かに二人、花壇の前に屈んでたな。 「ああ、いや、驚かせたなら悪かった。俺は、ちょっと話が聞きたいだけで……」 「ユウシンさんっ!」 俺の言葉を遮って、師範が叫ぶ。 なんだそれ。 師範のそんな顔、俺見たことねーけど。 師範は嬉しさが溢れそうな満面の笑みを男に向けていた。 「おや、サリじゃないか」 ……は? 男の一言に、俺は雷に打たれたような衝撃を受ける。 サリ……って、まさか、師範の名前……なのか? 俺の知らない師範の名を、こいつは知ってる……? 「久しぶりだね。元気だったかい?」 男が笑顔を見せると、師範は男の胸に飛び付かんばかりの勢いで男との距離を詰めた。 「ユ、ユウシンさんこそ、ご無事で……、本当に、お、お元気そうで、……よかっ……っ」 安堵からか、師範が泣き崩れる。その身体を支えようと、黒髪の男が腕を伸ばした瞬間、俺は地を蹴っていた。 黒髪の男の指先が師範の肩に触れる、ほんの一瞬前に、俺は師範の肩を抱き寄せる。 途端、バチッと聞き覚えのある音がした。 マズイな。 危害を加えるつもりじゃ無かったんだが……。 「……痛いな。そんなに敵意を向けないでくれ」 男は不服そうに言って、赤くなった指先をパタパタと振る。 「えっ、ユウさんどうしたの!? 怪我したの!?」 男の後ろから、小柄な青年が慌てた様子で顔を出した。 ふわふわとカールした淡い金髪を後ろで一つに括った二十歳ほどの青年は、片手で丸い眼鏡を上げると、男の手を覗き込む。 「少し赤くなっただけだよ」 男は青年を安心させるように、手を開いて青年に見せる。青年はじっくり男の手を観察してから首を傾げた。 「本当だ……。でもどうして? ユウさん叩かれたの?」 「直接叩かれたわけではないけれどね。まあ、似たようなものかな?」 金髪の青年が、原因を探るように俺の方を見る。 俺は、敵意や憎しみを向けられる覚悟をして、その視線を受け止めた。 ……だが、金髪の青年は純粋な疑問の感情を浮かべるだけだった。 「すっ、すみませんっ、大丈夫ですかっ!?」 師範がじたばたと俺の腕から抜け出して、涙に震える声で俺を叱る。 「こらギリル、謝りなさいっ」 俺はため息を飲み込んで、渋々口を開く。 「……悪い。あんたを傷付けるつもりはなかった」 「もっと丁寧にっ」 「……許してくれ」 「許してください。ですよ」 「……っ、……」 なんつーか。言いたくねーな。こいつにだけは。 俺が悪かったのは、まあ、そうなんだけどさ。 俺が半眼で男の様子を窺うと、男はクスクス笑い出した。 「あはは、もういいよ、サリ」 くっそ。いちいち気安く呼ぶんじゃねーよ。 サリって、何をどう略してそーなってんだよ。 本当はなんて名前なんだよ! いやでもお前が師範の本名を知ってるとしたら、それはそれで許せねーんだよ!! 「ギリル、落ち着きなさい」 言われて、俺は闘気を抑えながらも言い返した。 「師範こそ、泣き止んでから言えよな」 師範の綺麗な顔は涙でべしょべしょだ。 「わっ、私は、もう歳だから涙もろいんですっ」 なんだよその言い訳。 師範は、涙でべしょべしょになっていても、それでも綺麗で、可愛かった。 俺は服の裾を引っ張って、師範の涙を拭う。 「……先日買ったハンカチはどうしたんですか」 「無くした」 クスクスと男がまた笑って、それから言う。 「場所を変えようか」 それならウィム達にも連絡しないと。 そう思った途端、こちらに駆け寄る足音が聞こえてきた。ウィム達だ。 俺たちの気配が揺れたのに気づいたんだろう。 「仲間と一緒でもいいか?」 俺の言葉に男が師範を見る。 師範が男に頷きを返せば、男は「構わないよ」と笑って答えた。 ふーん。こいつはこいつで、師範を信頼してんだな……。 「こっちだ。挨拶は歩きながらさせてもらおう」 俺は、嬉しいような悔しいような、どこか腑に落ちない気持ちを抱えたまま、男の後に続いた。

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